参




 
 そもそも鬼の多くはただの人間だった者たちだ。
 それが何かを渇望し、我を忘れるほどの欲に取り憑かれ、そして何かの拍子で鬼と接触してしまうと自らも鬼になり果てる。
 しかし生まれたばかりの赤子が、一体何を渇望したというのか。鬼に接触したとしても、その身を壊すほどの欲望がなければ鬼にはならないはずだ。
(これは、特別な例ってことか…?)
 戸惑いながらも春奈に付いていると「あまり近付いてはいけませんよ」と注意された。
 なので長椅子とは少し離れた場所で立ち止まる。
 春奈はそれを確認するとベビーカーと母親へ寄っていった。
「どうしたの?何かあるの?」
 一心にこちらへ手を伸ばす子に母親は動揺しているらしい。困ったように話しかけているのだが、それではいつまで経っても泣き止まないだろう。
「よく泣いてますね」
「あ…すみません」
 春奈が声をかけると迷惑だと言われたように感じたのか、母親は頭を下げた。
「ミルクもさっきあげて、おむつも変えたばかりなんです」
 まだ喋れない赤子は泣くことしか主張出来ない。だがそれでは何がしたいのか伝わらない。
 意思の疎通が出来ずにお互い困っていることだろう。
 もっとも、赤子の意志など今は分からない方がいいだろうが。
「何か気になるのかも知れませんね」
「…なんでしょう」
 春奈の言葉に母親が首を傾げる。
 しかし春奈がそれを教えるはずもない。
「今いくつですか?」
「一歳です」
 身近に赤子がいない皓弥はその答えに、一歳児はあのくらいの大きさなのかと漠然とした感想を抱いた。
 しかし子どもを産んだことのある春奈は軽く頷いている。
「歯も生えてきてますね」
「はい。上下に二本ずつ」
 何気ない会話なのだろう。赤子の成長を見ず知らずの人が訊いていても、そう不審ではないようだった。
「そうですか。元気ですね」
 しかし春奈は微笑みながら赤子に顔を近付けた。
 すると赤子がふっと泣き止んだ。
 母親が驚いて「あら」と瞬きをしている。
 きっと赤子は春奈を凝視していることだろう。
 何か気になる対象があったが、春奈に興味が切り替わった。端から見ればそんな微笑ましいとすら言える光景かも知れない。
 けれど皓弥の目には全く違うものに見える。
(恐怖で固まってる)
 強すぎる捕食者に睨まれて獲物は呼吸すら出来ずに硬直しているのだ。
 決して満たされて泣き止んだわけではない。
 それに春奈は満足そうに目を細めた。
「ここに住んでいらっしゃるの?」
 泣き止んでほっとしている何も知らない母親に、春奈は穏やかな声音で問いかけている。
「いえ、友達のところにお邪魔してて」
  「そうですか。もしかするとここは合わないのかも知れませんね。だから赤ちゃんは泣くのかも」
 真実とは異なることを言いながら、春奈は姿勢を戻して赤子から顔を離す。
「そう、でしょうか」
 春奈の言うことは全て唐突なことばかりだ。なので母親もよく飲み込めずにいるようだった。
 だが納得したかどうかなど春奈にとってはどうでもいいことなのだろう。
「いい子でね」と言うと皓弥の元に帰ってくる。
 その声に含みがあると感じるのはきっとこの場で皓弥だけだろう。だがそれが春奈の意図としたことだ。



 アイスは諦めて春奈は寝具売り場に行くようだった。
「春奈さん、あの赤ちゃん」
「鬼でしたね」
「赤ちゃんなのに?」
 春奈は表情を変えることなく、数分前と同じ様子で歩いている。
 皓弥など背後が気になって足早になりそうだというのに、春奈はすでに関心がないかのようだ。
「まれにいます。親が鬼だった場合などがそうです」
 鬼と子を成す者がいるというのか。もしくは鬼と分からずに付き合っていたのかも知れない。
 あの赤子は見たところおかしなところはなかった。親も見た目はただの人と変わりなかったのだろう。
(あの母親は騙された可能性もあるんだな)
 感じた限り、あの母親はただの人間でしかなかった。
「あの子は父親が鬼だったんですね」
 果たして父親はどこにいるのだろうか。共にいるというのだろうか。
 しかし人を喰うはずの鬼が人と暮らせるのだろうか。
 京都にいた天然の鬼は人間と共に暮らしていたのだが。あの赤子の父親もそのレベルの鬼だということか。
(だから春奈さんはここに住んでいるかどうか訊いてたのか)
 近くにいれば危ういから。確認してくれたのだ。
 那智といてもそうなのだが、春奈といても有り難いと思うことが次々に出てくる。
「これからどうなるんでしょうか。あの子は人として生きてくことが出来るんでしょうか」
 鬼ならば鬼として、人とは違う道を生きていくのだろうか。それとも人に紛れて生きていくことが出来るのだろうか。
「さあ。どうでしょう。どちらにせよ関わりになりたくないですね」
「そうですね」
  「真昼の人通りの多いこんなところでは斬ることも出来ませんしね」
 春奈は当然のことのようにそう言った。
 それが他の鬼であったのなら同意しただろう。けれど無力にただ泣いて手を伸ばすしかなかった子を思い出しては、つい違和感を覚えた。
「赤ちゃん、ですが」
「ですが鬼です。歯があれば危ない」
 春奈は皓弥を見ては有無を言わせぬ雰囲気が断言した。
 子どもの年を訊いたのは歯があるかどうか、つまり武器を持っているかどうかの確認だったのだ。
 春奈は初めから容赦なく赤子を敵として、喰い物として判断している。それ以外の目では見ていないのだろう。
 皓弥などたかが赤子と思っていた。
 しかし言い変えればそれは侮っているということにも捉えられる。
 守られている側の人間だというのに、そうして油断を見せるのは許されないことだ。
 自己嫌悪を抱きながらも、皓弥以外の他者に対して情を見せない様は那智に似ていると思った。



 いっぱい食べて下さいね、と笑顔で告げた春奈の前にずらりと並べられた料理の数々。
 どう見ても食べる人間は三人しかいないというのに、何故煮物、焼き物、漬け物、汁物等々が何品も並べられているのか。
 一つ一つの量が少ないことだけが救いかも知れない。
(力が入ってる……)
 お昼御飯も豪華だったのが、夜の方が数が多い。
 時間をかけたことは明らかだ。
 数時間前に買って貰った箸を使い、同じく新品の茶碗を持って皓弥はひたすら咀嚼することに勤めた。
 夏ということで夏野菜が多く、特に茄子を出汁で味付けしている物が美味しい。鶏のささみを梅で和えているものは自宅でもよく目にする料理だった。
「すごく美味しいです」
「それは良かった」
 嬉しそうに微笑みながら春奈は「これもどうぞ」と色々勧めてくる。
「那智の味と似てます。春奈さんが教えたんですか?」
 いつも食べている味がするのだ。
 那智も皓弥と出会う前はここにいた。もっとも春奈は自宅が別にあり、ここには昇司しかいなかったはずだが、ちょくちょく実家に顔を出しているらしいので。教授したのは母である春奈ではないだろうか。
「そうですよ。あの子ちゃんと御飯作ってますか?」
 尋ねられて皓弥は苦笑してしまった。
「毎日作ってくれます。丁寧に献立を考えてくれて。たまにパンまで作ってくれるんです」
 母はきちんと料理はしていたのだがパンを作ることはなかった。なので那智が作っているのを見て驚いた。
 パンを家庭で作るという発想がまずなかったのだ。
 丁寧にこねて、発酵させてオーブンで焼いて。時間がかかるものだと思った。
 それでも那智は面倒な顔一つせずに、むしろ楽しげに作っていた。
「あの子パンも作ってるんですか?」
「はい。手間かかるのに」
 大学に昼飯としてパンを持たせてくれることがある。友人からはすごい人だなと評判だ。
 しかもちゃんと美味しいのだ。市販のパンより香ばしくて柔らかい。まして焼きたてはいくらでも食べたいと思うくらいだ。
 那智のおかげで皓弥は自分が思っているよりもパンは美味しいものなのだと知った。
「それは負けられませんね」
「え」
「たまにはパンが飯というのも良いな」
 黙って食事をしていた昇司もそんなことを言い出した。
 和食がこの上なく似合う人なのだが。たまにはパンを食事にしたいと思うものらしい。
 ただ便乗しただけかも知れないが。
「フランスパンを作って、色んな具材を乗せてパーティみたいにしましょうか」
(……フランスパンってどうやって作るんだ)
 パンなのだから他の物と大差ないだろうが。あの堅さはどうやって出すのか。材料が違うのか。
 その上色んな具材を作るのだろう。労力が半端ない気がした。
「すごく、大変そうですけど」
「でも楽しそうじゃありませんか?」
 輝かしいほど期待に満ちた瞳で言われると「そうですね」以外の返事は出来ない。ここに来てから春奈の提案にはその答えしか出していない。
 押しが強い人だ。しかも物腰がとても柔らかに感じるので、その強さに角が立たない。ある意味抵抗のしようがなかった。
「焼きたてのフランスパンはすごく美味しいですよ?」
「はい。あの、そうだと思います」
「ね、腕によりを掛けて作りますからね!」
 息子に対抗してパンを作り始める母。しかも生き生きしている。
 明日の朝はどうなっているのだろうか。この食卓に様々なものがみっちり並べられるのだろうか。
(この料理も全部食べられるか心配だってのに)
 朝はあまり胃に物が入らないのだが。果たして春奈に喜んで貰えるほど食べられるだろうか。
 考えるだけで遠い目をしたくなった。



 


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