弐




 
「なんか前にもあったぞ、こんなの」
 目の前にある立派な日本家屋を見上げて、皓弥は自分の記憶を蘇らせる。
 頑丈な門をくぐり、整然と並んでいる石畳を辿る。涼しげに水が流れている音が聞こえてきては、軒先に吊されているだろう風鈴がちりんと鳴いた。
 目に鮮やかな緑の庭は手入れがされており、統一性を感じる有様で時間を刻んでいる。どこがどう良いと皓弥は判ぜられない。だが心地良い空間であることは、見ただけで察せられた。
 格子引き戸の玄関の前で立ち止まり、溜息をついた。
 斜め前にいる那智を恨めしい目つきで見上げるのだが、振り返った人は微笑んだままだ。
(実家送りとか……)
 那智が、もしくは那智の親族がいなければ自分は生きていけないのか。
 これまでちゃんと生きてきた人生を真っ向から否定するつもりか。
 そう言ったのだが、否定する気はないけれどこの先を保証するものではない、と那智は退けたのだ。
 これはにぐうの音も出なかった。
 今まで大丈夫だったから、これまでも大丈夫などという理由は信用に足らない。ということは理詰めで考えれば正解だったのだ。
「俺は幼児か、幼児にしか見えないか」
 那智の言うことに反論出来なくなっても、この状況に納得するはずもない。
 文句を小さく告げると、那智の笑みは深まった。
「幼児を抱いたりしないよ」
「そういう話するところじゃないだろ!」
 下肢の話をする流れでも、場所でもないだろう。この家の中には那智の祖父がいるのだ。孫のあれこれなど知りたくもないだろうに。弁えて欲しい、と皓弥は少しばかり慌てた。
「不安なんだよ」
 那智とふと真面目にそう訴えてくる。心配を映し出している瞳に見つめられるのだが、皓弥は素直にそれを嬉しいとは思えなかった。
「俺はおまえの方がずっと不安だ」
 思考回路が破綻しているとしか思えない。
(過保護すぎて恐ろしい……)
「自分の家みたいにくつろいでいいから」
 那智はそう言って玄関を軽く叩いた。
(出来るかよ……)
 人様の家に泊まるなんて経験は、かなり少ない。
 他人がいる状態で落ち着けるはずもなく、始終周りに気を遣って警戒しなければならないのは疲れる。なので皓弥は出来るだけ人の家に泊まることを避けてきた。
(この家なら身の危険はないだろうけど)
 鬼を喰らう血を持った一族の家だ。鬼が襲いかかってきたとしても、必ず始末出来るだろう。その点に関しては安心なのだが。
 気を遣うことには変わりない。
「いらっしゃい」
 からからと玄関を開けてくれたのは女性だった。那智にどことなく似ているのだが柔らかな顔立ちをしている。見た目からは那智の姉かと思えるのだが、母親であることはすでに知っていた。
「春奈さん」
「よく来て下さいました。ゆっくりしていって下さいね」
 嬉しそうに笑う人の背後からもう一人、着物を着た年配の男が出てくる。ぴんと伸びた背筋が精悍さを感じさせる。
 母といい、祖父といい、那智の親族の年齢はよく分からない。
「よく来たね」
「お世話になります」
 頭を下げつつ、本当にここで過ごすのかとやや憂鬱な気持ちにもなった。二人のことは嫌いではない。むしろ好んでいると言えるのだが、世話をかけてしまうのが申し訳ない。
「自分の家だと思って、いつまでもいてくれて構わない」
 祖父である昇司は穏やかな声音でそう勧めてくれる。
 しかしそれに舌打ちをしたのは孫だった。
「三日で戻るから。正確には二日半くらいで迎えに来るから」
「分かったっての」
 置いて行きたくないのだと強調しているのだが、皓弥が家に帰りたくないと言うはずがないだろうに。
「朝早かったでしょう?もう一度寝ますか?それとも御飯でも」
「いえ朝御飯は食べましたので」
 それに早いと言っても七時半であり、一度しっかり起きたのに人様の家に来ていきなり寝るのもどうかと思う。
「そうなんですか?皓弥君は朝が苦手だと聞いていたのでご用意しようかと思っていたんですが。じゃあお昼はちょっと早めにしましょうか」
「あの…お構いなく、大丈夫です」
 勘弁して下さいと泣き言を零したくなった。



 那智は後ろ髪を引かれるという様子で集合場所に向かって行った。
 残された皓弥は特にすることもなく、客間に通されては持参してきた本を読んでいた。
 時間が有り余っているだろうと予測して、かなりの量を持ち込んだのだ。
 昼飯を食べるまではそうして過ごして、食べ終わった後は片付けを申し出た。断れたのだが何かさせて貰えなければ居たたまれなくて落ち着かないと懇願すると、洗った皿を布巾で拭くという作業を貰った。
 那智に与えられる仕事もそれなので、やはり親子は似るものだと思った。
 その作業が終わると春奈はにっこりと笑って「さて」と口にした。
「皓弥君はどこか行きたいところはありませんか?」
「いえ、特には」
 行きたいところと言われてもこの辺りの地理を知らないので、行き場もない。
「では少し付き合って貰ってもいいですか?お買い物に行こうと思っているんですが」
 その提案が示すところは荷物持ちだろう。
 何か役に立つことがないだろうかと思っていたので渡りに舟だった。
「お供します」
「ありがとうございます」
 引き受けると春奈は両手を胸の前で合わせて嬉しそうに笑った。
 少女のように笑う人だなと会う度に思うのだが、今日もそう感じた。



 きっと食料品か、もしくは重い日用品を買い込むのだろうと思っていた。
 なので力仕事が必要だと判断して皓弥を連れてきたのだろうと。
 けれど目の前では予想外のことが起きていた。
「あの……どうして俺は箸を買って貰っているんでしょうか……?」
「お茶碗はこんなのでどうですか?」
 皓弥君の食器を買いましょうね、と春奈は上機嫌で茶碗を品定めしている。
 箸はすでに紺色のシンプルな物に決まったらしく、それに合わせた茶碗を探していた。
(どうなってんだ……)
 荷物持ちはまさか自分の買い物になるとは思っておらず、呆然としていた。
「あ、これもいいですね」
 春奈はあれこれと茶碗を持っては皓弥を振り返って「どうですか?」と尋ねてくれるのだがどんな顔をしていいのかすら迷った。
「あの……俺三日しかいませんよ?」
 客用の食器がない、と言うならば話は分かるのだが。以前ここに一泊した際には客用と思われる食器が出てきた。
 他にも食器棚にはそれらしき一式が置かれていたのだ。
 なのに何故購入しようとしているのか。
「わかってますよ」
「買って貰っても、三日しか」
「はい。でも皓弥君専用の物があった方が嬉しいです」
 客用ではなく、皓弥だけが使う食器が欲しいと言いたいのだろう。
 はっきりとそう言われれば皓弥が拒む理由もない。
「そう、ですか」
 他の客とは異なるのだと、春奈は思ってくれているのだろう。
 息子が同居している、特別な相手であると認識されているらしい。
 有り難いけれど、そんなに良くして貰っても皓弥に返せるものなんてない。
(申し訳ないんだけど…そう言っても聞いてくれないんだろうな)
「この後お布団も買いに行きましょうね」
「俺二回しか使いませんよ!?」
 茶碗とは金額が明らかに違うだろうに、どうしてそんなあっさり布団を買おうとしているのか。
「こっちとこっち、皓弥君はどっちがいいと思いますか?」
 皓弥の叫びを完全に流して、春奈は水色と薄い藍色の茶碗をそれぞれの手に持って皓弥に見せてきた。
 両方桜の絵柄なのだが、薄藍色の方が花弁が散る様まで描かれている。
「……右です」
 薄藍色を差すと「ではこっちにしまょう」と春奈は茶碗をお会計に持って行った。
 家に置いて貰う以上春奈に従うべきだとは思いつつ、あまり物を買い与えられても困る。
 しかし皓弥の困惑など何処吹く風と言うように、春奈は会計を済ますと「次は寝具ですね」と歩き出している。
 せめて荷物だけでも持たせて欲しいと願い出ると、それはちゃんと渡して貰えた。
「お布団の前にアイス食べましょうか。ここのアイス美味しいんですよ」
「なんかもう、お好きにして下さい…」
 抗う気力もなく皓弥は春奈の後ろについて歩く。
 ショッピングモールの中にアイス専門店が入っているのだろう。
 その方向に向かって行く春奈の背中を脱力しながら眺め入ると、ふと首筋に軽く電気が走るような感覚に襲われた。
 それは鬼の気配だ。
(こんなところで!?)
 鬼の大半は異形だ。とてもではないがこんな人通りの多い場所、まして真昼に出没するはずがない。そんなことをすればどうなるのかくらいは分かっているはずだ。まして夜の暗がりを好むはずだというのに。何故こんな明るいところにいるのか。
(でも勘違いじゃない)
 この危機感を間違えるほど皓弥は愚鈍ではない。
 思わず立ち止まって周囲を見渡す。
「いますね」
 突然足を止めた皓弥に怪訝そうな顔をするでもなく、春奈は前を見ていた。
 刀の母親である春奈も鬼を喰うらしい。なので鬼を感知する能力もあるだろう。
「どこ、でしょう。でもすごく小さい」
 どこかに潜んでいるのだろう。そしてすごく小さな気配だ。
 恐ろしいと感じることもない、か弱いとすら言える気配をしている。おかげで皓弥の心臓は規則正しい脈を保ったままだった。
 通り過ぎていく女の二人組、親子、子どもを連れた母親の集団、走り去る子どもたち。
 そのどれもが違う。
 視界には立ち並ぶテナントと店員。そして通路の真ん中に置かれた休憩用の長椅子に座っている老人や、ベビーカーを見下ろしてる女。
「皓弥君は距離を取っていて下さいね」
 春奈はそう言うと真っ直ぐ進んで行く。相手が見付かったのだろうか。
 距離を取れと言われても、どれくらいなのか迷った。とりあえず三歩ほど遅れて付いていく。
 確かに春奈に付いていくと気配が近付く。それでも小ささに代わりがない。まるで動物のようだ。
(でもここ、動物なんて入れないだろ。鼠とか潜り込んでるのか?)
 しかし鼠であったのなら対処のしようもない。
 不可解に思っていると、赤子の泣き声がした。
 長椅子に座っている女がベビーカーを覗き込んだ。母親なのだろう。
 何か声を掛けているところを春奈が行く。それに皓弥はようやく理解した。
(……赤ちゃんだ!)
 あの赤子から気配がする。そしてあの泣き声は他の何でもない、皓弥を求めている泣き声なのだ。
 その考えを肯定するかのように、母親が抱き上げると赤子は身体を捻ってはこちらを向いた。そして短い手を伸ばしてくる。
 自分を特殊な人間だと思って生きてきた。この血は鬼に好かれ、あれらはいつだって貪欲のこの命を狙っているのだと。痛感することはこれまで何度もあったけれど、その非情さは再び皓弥に突き刺さった。



 


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