壱




 
 晩飯を食べた後の洗い物をしている最中に、那智の携帯電話が鳴った。
 舌打ちをして那智は背後にあるテーブルを振り返った。
 向かい側に座ったままの皓弥はそれをちらりと見上げる。
(携帯鳴らしただけであんな顔されたらたまったもんじゃないな)
 顔を確認出来る機能が携帯電話に付属されてなくて良かったものだ。
 同じゼミにいる人からの電話だったのだろう、気怠そうに那智は会話をしている。
「合宿なんか止めちまえ」
 めんどくさそうな溜息をついたなと思うと、一刀両断と言えるような口調で切り捨てた。
 ゼミに属している者としてどうかと思われるような発言だ。
 その後も那智は合宿する意味があるのか、目的は何だ、懇親なんざ今更だ、というような内容を繰り広げている。
 行く気が全くないのは見て明らかだ。
 皓弥と出会う前は合宿にも参加していたことは聞いている。時間が余っていたから、断るのも手間で面倒だった、と語っていた。
 嫌がりながらもそういう行事にちゃんと参加していたのだ。
 けれど皓弥がここに来てからは断っている。
(行けばいいのに)
 皓弥は那智を止めたことはない。むしろ大学生としてやれること、学べることはやれば良いと思う。
 今しか出来ないことが那智にだってたくさんあるだろう。皓弥のためにこの機会を失う必要なんてないのだ。
 皓弥は持っていた携帯電話を新規作成の画面に変えた。そして文字を打つ。
『行けよ』
 三文字打って那智に突き付けた。
 那智はこちらを見て瞬きをした。そして悩ましげに口を閉ざす。
 近付いたおかげで携帯電話の向こうから『全員参加がやっぱ望ましいじゃん!』と説得している声が聞こえてきた。
 向こうも大変そうだ。
『俺の世話ばっかして、合宿も行かないなんて変』
 追い打ちをかけるように皓弥は新しいメッセージを打つ。もう打っている最中から画面を見られているので、意図は伝わるのだろう。
「でも……」
 最後の文字を打ち終わった時には、那智の口から躊躇いが聞こえた。
 それに反応したのは電話の向こう側だ。
『え!?でもって何が!?』
 弱腰になった那智の声に好機を見出したのか、やたら食いついてきている。
 しかし那智の視線は皓弥にのみ向けられており、電話に耳を傾けている様子はない。
『たまにはおまえも』
「ちょっと後で連絡する。一端切るからな」
 那智は携帯画面で会話をされるのは限界だと思ったのか、早口でそう喋ると相手の返答も待たずに通話を切った。
「皓弥」
「たまにはおまえもちゃんと学生らしい生活しろよ」
「してるよ」
 どこがだよ、と言い返しそうになった。
 大学に通ってはいるけれど、時間が空けば家事をして手の込んだ料理を作って、皓弥の世話をして、遊びに行くことだってない。
 まるで保護者のような暮らしだ。
 もっと自分のために時間を使えと言うのだが、これが自分のためだと言って聞かない。
「合宿だって学生のやることだろ」
 ゼミの人たちと仲が悪くないことは知っている。那智も面倒だの厄介だの言いながら気に入っているらしい素振りもある。
 なのに皓弥のために合宿を断るなんて勿体ないだろう。
「でも皓弥が一人になるだろ」
 自分は主の刀であり。常に側に控えなければならない。
 それが那智の信念らしい。
 有り難いのだが、皓弥はそんな暮らしを成人するまで行っていないのだ。まして自分がそんな風に丁重に扱われなければならない人間とも思っていない。
「たかが三日くらいだろ。それくらい平気」
 通話の感じから二泊三日ということは聞こえてきた。だから大したことないと判断したのだ。
「大体今までだって一人でやって来たんだ。母親が亡くなった後も数ヶ月一人でいたし。問題ない」
「でも万が一があったらどうするの」
 ずっと一人は厳しいけれど、三日くらい何とでもなる。那智がいなければ一日だって過ごせないような子どもだとは思って欲しくなかった。だが那智は声のトーンを落として真剣に問うてくる。
「もし何かあって皓弥を失うようなことがあれば俺は生きていけない」
 大袈裟過ぎると笑い飛ばしたいところだが、那智に関してはそれが冗談ではない気がするのだ。
 それだけの情を一身に受けている自覚はある。隠しもせず、抑えもせずに那智が与えてくるからだ。
「那智。おまえは心配し過ぎだ。三日間で何があるってんだ」
 まさか外部から襲われる予定があるとも思えない。
(そういえばこのやりとりは前もあったな)
 那智が皓弥の元を離れたがらなかったのは初めてではない。
「……鴉の時は、周りにいっぱい危険があったけど。今は平穏なもんだろ」
 そうだ鴉だ、と思い出した時には脱力感に溜息を殺した。
 あの時は空に大量の鴉がいた。どこからどう来るか分からなかったので那智は出掛けようとしなかったのだ。だが現在そんな恐ろしいものは存在していない。
「分からないだろ。失いたくないものがある者は、どんな些細なことでも油断しちゃいけないんだよ」
「いや、でも」
「どんな危険もおかしてはいけない。それが当然の姿勢なんだよ」
 常に万全でなければ落ち着かないとでも言うのだろう。那智は物事に手を抜かないところがある。
 かといって皓弥はこのまま引く気にはなれなかった。
「でも俺はおまえを縛りたくない」
 自分がいるから那智はここから動けない。
 大学生らしいこともせずに、家にいなければならない。
 そんなのおかしいだろう。那智には那智の人生があって自由にする時間があるべきだ。
 学生としての顔を持っていたって、良いではないか。
「……つまり、皓弥が気にするわけだね」
 本人としてはどうでもいいという気持ちを変えるつもりはないらしい。
 苦笑しながら皓弥の思いを汲んでくれる。
「まあ、そうだ」
 那智の中ですでに結果は出ており、それで良いと納得しても皓弥はもやもやとした後ろめたさを持っているだろう。
 そこまで那智に気を遣わせるのは申し訳なさがあったのだが。後々那智のためになると良いという希望だ。
「……考えてみるよ。でもどうしたって皓弥を一人にしておくつもりはないから」
「連行するつもりか!?俺は部外者だぞ!」
 一人にするつもりがないと言っても、那智がいないならここで静かに暮らす以外何がある。もしかして同行させるつもりかと、普段の無茶な言動から恐怖の声を上げた。
 しかしそれには那智の方が驚いたらしい。
 そして「そうか……」と微かな声で呟いて顎をさすった。
「なんだその、その手があったか、みたいな顔は!」
「いや、そうしようかなって」
「出来るわけないだろ!」
 やぶ蛇になったことに今更気が付き、皓弥はぎゃんぎゃんとわめく。
 しかし那智は涼しげな表情をして、どうやら悩んでいるようだった。
「これが意外と」
「いけねぇよ!その考えは今すぐ捨てろ!」
 同居人をゼミ合宿に連れて行く学生がどこにいる。
 家で飼っているペットが心配で、と言うより遙かにたちが悪い。歓迎する者など一人もいないだろう。
 大体そんなことになれば皓弥が羞恥で死にそうだ。
「とにかく!たまには自分のために動けよ」
 皓弥のため、皓弥のため。それは嬉しいけれど、時折酷くこれでいいのかという迷いが生まれるのだ。
 那智には那智の交流関係があるのに、それを自分が壊してしまっている気がする。だからたまにはちゃんと他の人も見た方が良い。
 皓弥だっていつも那智だけを見ていられるわけではないのだから。
「いつだって俺は自分のために、皓弥に尽くしてる
だけどね」
「その話題は打ち切りだ」
 この手の話はやり出すときりがない。なので一方的に切断する。
 那智は肩をすくめたけれど、抗議はしなかった。



 ベッドに二人並んで座っている。別に珍しい光景でもなければ、これから何かしら重大なことが始まるわけでもない。
 那智はいつも皓弥のベッドで寝るし、皓弥もいつの間にその方が落ち着くようになっていた。眠る前の穏やかな時間をそれぞれベッドの上で思うままに過ごすのは当然の流れになっていた。
 なのでその時の皓弥は本を読んでおり、那智は相変わらずノートパソコンを操作していたのだが。キーボードを打つ音が止まったかと思うと視線を感じた。
「考えてみたけど」
「ん?うん」
 唐突な会話に何かと思ったけれど、すぐに晩飯後のやりとりだと気が付いた。
 考えてみると言ったきり、結果はまだ出ていなかったのだ。
「俺がいなかったら皓弥は気にしてずっと後悔しそうだから、行こうかと思ってる」
「まあ……後悔するかどうかは分からないが」
 行こうと思った理由についても自分が絡むのか、やはりか、という気持ちでいっぱいになりつつも多少安堵はしていた。
「でも気にするだろう?」
「まあ、それは。でも無理にとは言わないし、行きたくないなら別に」
 渋々行って、きっと楽しくないだろう、不快だろうと思うのならば止めればいい。那智に対して嫌がらせがしたいわけではないのだ。
「行きたくないわけじゃないし、たまにはあいつらを構うのも悪くないかとは思うよ」
「おまえすげぇ嫌そうだな」
 悪くないと言うくせになんだろうその眉間の皺やら、妙に細い目は。
 もう口から「めんどくせぇ」という台詞が出ていないのが不思議な表情をしているのだが。
「行くとしても、皓弥を一人にしておくつもりはないから」
「まだ言ってんのか。一人で平気だって」
「俺はそうは思わない」
 少し前に自分も似たようなことを思っていた。
 那智がどれだけいいと言っていても、自分はそんな風には思えないのだと。だからこそ那智は折れたのだ。
「それに、ここは暑いだろ?避暑地に行きたくない?」
 不機嫌そうだった顔はにっこりと穏やかな笑顔になった。だが背後に漂っている気配が不穏であることはしっかりと感じ取ってしまう。
 何をするつもりだ、と口元を歪めた皓弥に那智は意味ありげに「ちょっとね。まだ言えない」と返したきり、ノートパソコンの電源を切った。



 


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