見知らぬ面影 1 二十二時で終わるはずだったコンビニのバイトをしっかり一時間近く残業をした。夏休みなので深夜までバイトをしていても翌日学校はないので平気ではある。 それに帰っても家に飯はない。何の気兼ねもなく俺は職場でだらだらと過ごした。どうせなら廃棄一歩手前の商品を救い、腹を満たしてクーラーのかかった空間で片手間に働いたほうが有意義だろう。 交代要員が遅刻してきたこと、何より仕事をしていること自体に飽きた頃。灼熱のようだった外気温も多少は涼しくなっていた。 それでも歩いているとじっとりと汗ばんでくる。 熱帯夜ということだろう。さすがは真昼に三十五度という馬鹿みたいな気温になっていただけはある。 夏場は二十三時であっても街中はどこか騒がしい。公園の近くを通ればはしゃいでいる人間の声と、破裂音などが聞こえてくる。この時間にロケット花火をするなんてはた迷惑なものだが、残念ながら珍しくもない。 公園の隣にあるアパートの前を通ると、カレーの匂いが漂ってくる。 (こんな時間にカレーかよ) 晩飯の時間はとうに過ぎているだろうにと思いながらも、カレーのスパイシーな香りに胃袋を刺激される。 カレーの匂いというのはとても強く、食欲に大きな影響を与えてくる。まして夏は辛い物がなんとなく食べたくなるので、カレーはうってつけだった。 「カレー食いてぇな」 ぽつりと呟くと、本当にカレーが食べたくなってくる。自宅にレトルトのカレーならばあるけれど、生憎白い飯は炊いていない。 それに俺が食いたいのはレトルトのカレーなどではなかった。 「野菜がいっぱい入った、要のカレー」 要が夏場に作るカレーはいつも野菜が大量に入った、色鮮やかなカレーだ。 市販のカレールーをブレンドして作っていると知った時は驚いた。一般家庭でカレーを作る際に、市販のカレールーをそのままダイレクトに鍋に突っ込む以外の味付けをする人がいると思っていなかったのだ。 おかげでこれまで味わったことのない、辛いくせにこくがあるカレーが俺の中で最高のカレーになった。 レトルトカレーなどでは決して満足しない胃になってしまったのだ。 これは俺にとっては大問題だった。 しかもカレーどころか、他の料理も次々要の色に染められている。食生活はあいつに牛耳られていると言えるだろう。 その要は今、盆休みである父親と共に亡くなった母親の実家に行っている。母親の墓参りのためだ。 夏休みは要の飯が頻繁に食べられる。事実御盆の時期に入るまでは要の家に行ったり、夏休みの課題を見てやると言ってはうちに呼んだりしていた。 要は一人で食べるより二人の方がいい、作る手間も変わらないからと言っては、俺の分の飯を作ってくれていた。おかげで舌が完全に肥えてしまったのだ。 コンビニの弁当だの総菜だのを持って帰っても、なんとなく物足りなく感じてしまう。 (要の飯じゃないと納得しない胃袋になってしまったらどうするか) がっつり要に掴まれた胃袋を抱えてしまった以上、要がいなければ生きて行くのがかなり辛くなることだろう。 別れる予定はないけれど、これからの人生で重要視しなければならないものの中に要を入れなければいけない。他人を守らねばならない、というのは何とも奇異な心地だ。 (ん?) 不意に足下に何かが当たる感触がして視線を落とす。スニーカーの紐がほどけていた。 しゃがんで靴紐を結ぼうとすると、手にぶら下げていたコンビニの袋の底がアスファルトに付いては、袋がたゆみ中からころりとカップアイスが転がり落ちた。 「ちっ」 転がったアイスを目で追いかけると、サンダルの爪先があった。 細い足首は女性のものだろう。視線を少し上げると、案の定二十歳ほどの女性が足下に転がってきたアイスを拾うところだった。 紺色のゆったりとしたワンピースを着ている。髪の長さは肩に付くくらいだが、しゃがんだため顔にかかって邪魔になったらしい、耳に髪をかける仕草が上品に見えた。 (見たことがある) その女性の顔に見覚えがあった。しかしどこで見たのか思い出せない。 バイト先がコンビニであるため、知っているのかどうかも曖昧な相手というものは数多くいるので、思い出せなくとも不可解ではないのだが。どうもその女性は客として出会ったような気がしない。 ではどこで見たのか。バイト以外でこの年頃の女性と知り合う機会は、今はほとんどないのだが。 「あれ?カレーは入ってないんだ」 女性は俺がぶら下げていたレジ袋の中にアイスを入れようとして中身を見たらしい。そこにカレーがない、と指摘してくる。 (俺の独り言を聞いてたのか) 独り言が聞こえるほど近くに、こんな女性がいただろうか。 「食べたいのは、レトルトのカレーじゃないから?えっと、夏野菜カレーだっけ」 女性はアイスをレジ袋の中に入れては、ゆっくり小首を傾げた。 知らない女にいきなり親しげに声をかけられて、本来なら不快感を覚えて無視をするなり、アイスを拾って貰った礼だけ残してさっさと立ち去っているところだが。 その女性の顔に何故か引っかかって、動けずにいた。 「いいよね、夏野菜カレー。私も大好きだなぁ。トマトが入っているからちょっと酸味があって、あっさりするんだよね。オクラを入れるとねばねばの食感も楽しいし。ナスのしっとりした感じ、パプリカのしゃきしゃきした歯ごたえも最高。食後にアイスクリームを食べると、本当に夏を満喫してるって感じ!」 女性は夏野菜カレーを食べている時のことを思い出しているのか、両頬に手を当てて嬉しそうに語っている。 「カレーの香りって食欲をそそるよね!普通のカレーもいっぱい食べられるんだけど。夏野菜カレーって、お野菜をたっぷり取ってます!って満足感があるし。鶏肉で食べると食べやすくて、いくらでもお腹に入るの〜」 つい女性が語る夏野菜カレーを想像してしまった。食べたいと思っていただけに、その想像は鮮明である上に、鼻孔の奥にあのカレーの刺激的な香りまで蘇ってくる。 「私としてはかぼちゃを入れるのがお気に入り。甘くて、カレーがマイルドになるの!辛いカレーも大好きなんだけど、お野菜の甘みたっぷりのカレーもすごく美味しいんだよ」 「かぼちゃ……」 要はほやほやとした見た目や大人しそうな喋り方をしているけれど、かなりの辛党だ。俺が絶句してしまうような辛い食べ物でも汗をかくことなく平然と食べている。 そのためか、要はかぼちゃが入ったカレーを作ったことがない。少なくとも俺は食べたことがなかった。 (野菜の甘さたっぷりのカレー) 一人暮らしの食生活で不足しがちなものは野菜だとよく言われているそうだが。俺の場合もまさにそうだった。とにかく食べたいと思うものは肉が多く、要が健康のために野菜も取らなきゃ駄目だよと言っていても、自力で摂取する意欲はほとんどない。 だが女性の口から語られる夏野菜カレーの魅力は鋭く突き刺さってくる。普段口にしていない分、野菜の甘さというものに飢えているのかも知れない。 「明日のご飯は夏野菜カレーかな」 俺の顔はどう見ても食欲に洗脳されている状態なのだろう。女性は軽く笑う。 しかし明日も要は地元にはいない。そのことを思い出しては絶望的な気分になった。 「あれ、もしかして作って貰う側の人?ものすごく残念そうな顔をしてるけど、作ってくれる人が今いないの?」 「ああ、まあ……」 完全に見抜かれていた。 俺くらいの年齢ならば一人暮らしをしている人など滅多にいない。なので家族、大抵は母親に作って貰う場合が多いだろう。 母親がいなくてカレーが食べられず、落胆していると思われるのはどうにも気まずい。そもそもどうして初対面の人間とカレーの話などしているのだろうか。 「可哀相に。頭の中は完全にカレーなのにね。しかもレトルトじゃ納得出来ないよね。他のカレーならともかく、夏野菜カレーだもんね。私なら無理」 (追い打ちをかけてくる) 「おうちで作るカレーもね、ルーの種類を混ぜて作ると美味しいよ。ブレンドすると自分好みの味にもなるし。辛さの調整も出来るから私はそうしてるなぁ」 「……それって、一般的な作り方、なんですか」 カレーのルーをブレンドして作るというのは、料理をしている人ならばよくやることなのだろうか。俺の中では市販のルーは一種類あれば十分で、他のルーと混ぜるという発想自体出てこなかったものだ。 「一般的、ではないかもね。私もこのやり方をしている人はあんまり知らないなぁ。でも私は好き。美味しいよ〜、やってみたら?」 「いや、味は知ってるんで。作ってくれる人が、そうしてブレンドしてカレー作ってくれてるから」 「そうなんだ!じゃあ、普通のカレーには物足りなくなってるかも知れないね!」 笑顔で残酷なことを言ってくれるものだ。 事実、今の俺がその状態に陥っている。 「あとカレーはね。スパイスからミックスしてくるのも美味しいよ〜。カレーのスパイスの種類を集めなきゃいけないし、手間と時間がかかるんだけど。本当に自分の好きな味に出来るし。市販のものよりさっぱりしていて食べやすいの。それこそいくらでも食べられるから大変!」 「スパイスから作るって……それはすげー面倒じゃないですか」 「めんどくさいね!本当にめんどくさいし、慣れるまでは自分の味にするのも難しいけど。でも達成感はあるし、何より自分の味になるから」 カレーを自分の味で作る。 それは作り手としては充実感があるものなのだろうか。オリジナルブレンドのカレー、と言われると得体が知れない雰囲気だが。要が作るのならばきっと美味しいのだろう。 「それにね、食べてくれる人の好みを考えながらブレンドするのも楽しいから」 そう語る女性はとても優しい顔をしていた。きっと特定の誰かを想像しながら喋っているだろう。そしてその人のことが好きなのだ。 少しでも美味しい、その人の好みに合ったカレーを食べて欲しいという思いが、見ているだけで伝わってくる。 「もう少し辛いほうが好きかな。でもやり過ぎると辛すぎて食べられないよって言われちゃうかな。でもガラムマサラを足したいな、どんな香りにしようかな、カルダモンはどれくらい入れよう。リンゴも欲しいかな。チャツネで甘くしてもいいな。そんなことをたくさん考えている時間が、私は好きなの」 (……この人のカレーはどんな味だろう) ふとそんなことを思った。 こんなに楽しげに語るカレーは、美味しそうだ。 「好きな人のために作るご飯は美味しいし楽しいよ」 笑顔でそう言う女性に、要のことを思い出した。 要は料理を作るのが好きだ。そして美味しいと言われることも好きだ。そのため美味しいと言ってくれる相手には、快く飯を作ってくれる。 俺が要の飯が食える理由もそこにある。 (あいつは飯を作るのが好きで、美味しいって言って貰えるのが好きで) 特別俺のことが好きというわけじゃないのかも知れない。 それはあまり深く考えないようにしていたことだ。もしそうであったとしても仕方がないと、割り切らなければいけないと心のどこかで思っている。 だがこの女性のように、俺のことを思ってカレーを一から作ってくれるような気持ちが要にあったのならば。とも考えてしまう。 「君はそうしてご飯を作る人を知ってるみたい。その人の夏野菜カレーが食べたいの?誰かの名前を言っていたでしょう?」 「………よく聞いてますね」 俺の独り言をよく覚えているものだ。しかし要の名前までは聞き取れなかったらしい。 「好きな人?」 ずばりと尋ねられて、俺は言葉に詰まった。 誰かにあいつのことを好きだと喋ることはない。 けれど見知らぬ女性、もう二度と会うことがないかも知れない。きっとないだろうと思うような通りすがりの人には、隠す必要もない気がした。 (要にも知られることはないだろう) そう分かりながらも、頷くにはとても抵抗感があった。 好きな人がいるなんて、小学生の頃でも言わなかったような内容だ。 「……好きっていうか……大事に、したい、かなって、思うような相手です」 曖昧な、けれど今の俺の気持ちに正確に答えた。 要のことは大事にしたい。美味しい飯を作ってくれるから、一人暮らしの俺の家に来ては掃除もしてくれるから、俺に抱かれてもくれる。 だがそんな理由より、もっと単純に、あいつを見ていると次第にそんな気分になった。 (あいつと真面目に向き合ったばかりの頃は苛々することもあったのにな) 引っ込み思案でうじうじしていて、はっきり物も言わない上に、長い前髪で顔は隠している。暗くて俺とはあまりに違う人間だった。 だがそんなあいつにも大事なものがあって、譲れない気持ちもあって。誰かのために精一杯動くことを何の苦もしていないところを見てからは、違う人間であるあいつに苛立ちより、いいなと思うことのほうが増えた。 それは要の飯を食う度に、胃袋が幸せを感じるのと似ていた。 「大事にしてる?」 女性に面と向かってそう問われて、俺は黙り込んでは結局「わかりません」と口にしていた。 「でも、したいって気持ちは、あります」 どうすれば良いのかはまだ、はっきりとは見えないけれど。 「初対面な貴方にこんなことを言っても意味はないでしょうが。そういう気持ちは、持ってます」 むしろ初対面の相手だからこそ、自分の思いを言えた部分もある。こんな恥ずかしい台詞を友達や身内、まして要には到底言えない。 女性は見ず知らずの俺の、そんな決意のような言葉に微笑んだ。晴れやかにすら見えるその笑みに、なんとなく違和感があった。 どうしてそんなにも親身になっているのだろうか。 (この人は本当に、誰だ) 初対面と言ったばかりだが、この親しさと、女性が俺のことを知っているような雰囲気があるので、たぶんどこかで会っている上に、この人は俺についての何かしらの情報を持っている。 next |