見知らぬ面影 2 「大事にしたいなら、すればいいだけのことじゃないかな」 「…………そういうの、苦手なんで。難しい」 「んー、したいと思うことをすればいいと思うよ?難しいことは何もないと思うけど」 きょとんとするこの女性はきっと、他人に優しくすることに何の躊躇いもない人なのだろう。そうすることが正しく、また気分の良いことだと信じ切っている人種かも知れない。 俺はそんな風に素直に、人に優しくは出来ない。子どもの頃に父親からは暴力を受け、母子家庭になってからは周囲から白い目で見られたこともあった。 他人は優しい生き物じゃない。それを知っているだけに、優しくするのも迷うことが多い。 (要にまで迷うことはないって分かっている。でも今更、すんなり優しく出来るような性格じゃない) 「大事にされることは嬉しいと思うけど」 「嬉しいでしょうが」 「ご飯を作るのが好きな人なら、美味しいって言うだけでも喜ぶよ?ご飯が大好きだって、その延長で作ってくれる人のことも好きだよって、あっさり言えばいいのに」 「……言った時、何が変わるのかわからないから。あいつは自分が作った飯を美味しいって言った人みんなが好きかも知れない。俺が特別ってわけじゃないかも知れないのに、そんなこと言ったら、困る」 (いや違う。これは俺の言い訳だ) 要がどんな気持ちであるかなんて、俺が好きだと口にする事とは関係がない。 気持ちを知って欲しいかどうか。好きだと伝えるために必要なのはそれだけだ。 「困らせたくないの?」 「あー…………言い訳っスね」 苦い思いでそう告げると、女性はふっと真面目な瞳をした。 「好きな人って、どんな人?」 「……どんなって、同い年のクラスメイトです。飯作るのがすげえ上手くて、俺一人暮らしなんですけど、たまに飯食わせて貰って。それが有り難くて。飯だけじゃなくてたまに掃除までしてくれて。申し訳ないから、代わりに俺があいつに勉強教えてる感じです」 「勉強教えてるってことは、君は頭いいんだね」 「俺が頭いいわけじゃなくて、あいつの学力が相当やばいんですよ。びっくりするほど頭が悪い。中学生でも知ってるようなことを知らなくて、引くこともあります。でも教えたら、ちゃんと吸収するし。まあ……夏休みの課題も今頃どうしてんのかって思いますけど」 こうしている間に夏休みの課題を進めていれば良いのだが。おそらくやっていないだろう。要は目を離している間は勉強をしない。 「それは……困った子だね」 「飯は美味いんですけどね」 「君は本当に、その子のご飯が好きなんだね」 飯が美味いと心から連呼し過ぎたらしい。しばらく要の飯が食えていないせいで、飢えているのだ。 「美味しいもんを食うと幸福感があるから。あと、あいつも嬉しそうにするんですよ」 俯いてばかりで、顔を隠し、自信なさげにしている要が。俺が美味いと言った時は笑顔を見せるのだ。自信すら滲ませるその様は、なんとなく微笑ましかった。 「そういう顔、見たいんで」 気が付くとそんなことを口にしていた。 意識せずに呟いた俺の一言に女性は双眸を細めた。どこか安心したような表情に、また疑問を覚える。 しかし女性は俺が何か言う前に「良かった」と笑みを深めた。 「本当に良かった」 「何が、ですか」 貴方は一体、誰だ。 最も気になる質問を投げかけようとしたが、向かい側から車が走ってくる。 歩道と道路が分離している道ではない。なので車もすぐ近くを通るのだが、ハイビームにしているせいで一気に周囲が明るくなって、目が眩む。 「うぜえな」 夜の暗がりだからといってハイビームにして走ると対向車の迷惑になる。深夜でも多少は人通りのある公園沿いの道路でそんな状態で走れば、周囲の人間の目も眩む。 はた迷惑な車の光を手で遮り、軽く目を閉じた。 車が通りすぎるのはおそらくほんの数秒だった。けれど再び目を開けた際に、すぐ前にいたはずの女性は、姿を消していた。 周囲を見渡しても、それらしい姿はない。 「走って、立ち去ったのか?」 しかしそれにしても早すぎる。 あんな丈の長いロングワンピースを着て、全力で走ったとしても俺の視界から完全に消えるのは不可能ではないだろうか。 しかし無理だろうが何だろうが、実際に女性はいなくなっている。 「なんだったんだ」 呆然とその場で立ち尽くす。 妙に馴れ馴れしいのに何故か不快感が沸かなかっただけでも、俺としては異様な状況だったけれど。忽然と消えてしまったことにも驚かされる。 何か夢でも見ているかのような心許なさだけが残された。 『カレーを作ったから、もし良かったら、あの、食べに来ない?暇だったら、いいんだけど……』 「それは夏野菜カレーか?」 『えっ、どうして分かったの?』 母親の実家から帰ってきた要から電話がかかってきた。要がわざわざ連絡が寄越すなんて、飯の関係だろうと思ったけれど、案の定だ。そしてカレーと言われた瞬間、俺の中には夏野菜カレーがあった。 尋ねたのはそうであって欲しいというただの希望だったのだが、まさかの大当たりで俺は息を呑んでしまった。 願望が自然と叶えられるなんて、幸運なことだ。 俺は当然のごとく、電話を切ってすぐに要の元に向かった。 要の家の玄関を開けた途端に押し寄せてくるカレーのスパイシーな香り。それだけで胃袋がぎゅっと収縮したのが分かる。食欲が一気に込み上げては、すぐさまカレー皿を手に取りたい気分だった。 「親父さんは?」 「今日から仕事だよ。帰ってきたら無性にカレーが食べたくなって。丁度田舎から野菜もいっぱい貰ってきたから、調子に乗ってたくさん作っちゃった。だから遠慮せずにどんどん食べて」 要は足取り軽くキッチンへと入っていく。しかし俺はその後に続こうとしてカレーの中に嗅ぎ慣れない匂いが混ざるのを感じた。 「………カレー以外に、何かある」 食べ物ではない香りだ。それが何なのか気付いた時には、香りの元が視界に入っていた。 要の家に来ても閉ざされていることが多い襖が、今日は開いている。そこは父親の部屋であるらしく、本棚や文机、押し入れがあるのだが、壁際にひときは目立つ仏壇が置かれている。 香炉には線香が立てられており、香りは線香のものだ。 しかし俺は線香よりも、そこに置かれている遺影に目を奪われた。 夏野菜カレーについて熱く語っていた女性が、そこにいる。 「……実家に帰ってねえのかよ」 「数寄屋?」 「なんでもない。カレーにかぼちゃは入ってるか?」 「ごめん、入ってないんだ……でも、次に作る時は入れるね。かぼちゃの入ったカレーも美味しいよね。カレーの味が染み込んだ甘いかぼちゃも僕は好きだな」 キッチンに足を踏み入れると、長い前髪をピンで留めた要がそんなことを楽しげに語る。 コンロにかけられている大きな寸胴鍋に俺の心も躍った。 (いつか要に、俺のために一からカレーを作ってくれと言ったら。こいつはどんな顔をするだろう) 俺にしてみればそんな面倒くさいことは、相当大切な人相手ではなければしたくない。いくら美味しいと料理を褒めてくれる相手であっても、そこまで望まれると欲張りだと思うだろう。 少なくとも今は、要にそんなことは言えない。 要を大事に出来ているかどうかも、はっきりと答えられなかった俺にその資格もないだろう。 けれどいつかはそんな強欲なことを伝えられるようになるのだろうか。 もし要が俺の強欲さを快諾してくれたなら、その時はちゃんとあの人の前で、頭を下げられる気がした。 |