誘惑の人 1



 ちらりちらりと視線を受けている。
 それは要がこの部屋にいる時からそうだった。
 何か言いたいような素振りではなかったのだが、ずっとこちらを観察しているなとは思っていた。
 いつもならその視線が何度も続くようなら、俺は「どうした」と尋ねている。
 人の視線にまとわりつかれるのは好きじゃない。
 それに要はなかなか物事をはっきり言えないタイプのようだから、きっかけを作ってやらないといつまでも悩んでいる。
 めんどくさい奴だ。
 だが今日の俺はその視線を放置し続けていた。
 深川の台詞が蘇ってくるからだ。
 本当に要が自分から誘ってこようとしているのかは分からないが、少なくとも何かを思っていることは間違いない。
(変わったもんだな)
 以前なら自分から動こうとすることをとても怖がっていたのに。
 少しでも恐れをなくしていったのだろう。
 相変わらず美味い飯を食いながら、どこか緊張しているらしい要の雰囲気を感じていた。
 それにしても親子丼がうまい。
 肉が多めに作ってあるのもいい。卵は半熟でとろりとしていて、見た目も俺の理想に近い。
 というかそのままだった。
 味噌汁をすすりつつ、要の視線をまた感じたのでちらりと見上げると、要はびくりと一瞬震えた。
 人と目が合うのが怖いらしい要は、そこで視線を逸らす。
 そして気まずそうに俯くかと思った。だが意外にも瞬きをすると慌てるように鶏肉を口に放り込んでいる。
 それは気恥ずかしそうに見えた。
(……飯の最中だろ)
 勘弁してくれ。
 まだ親子丼は半分残っている。そしておかわりをするつもりで俺はいるのだ。
 それなのに、そんな恥ずかしそうな顔をするのは止めて欲しい。
 手を伸ばしたくなる。
 その羞恥心を掻き立てたくなる。
 布団の上で見せられることが多いその顔は、俺の欲を誘いかけてくる。
(たちが悪い。いや、前々からそうだったけどな!)
 自分から動こうと頑張っている要を微笑ましく眺める余裕は、俺にはありそうもない。
 だがせっかくの機会を無駄にすることは勿体ない。だからひたすら耐えるようにして自分を抑えつける。
 要は無自覚の時でさえもそうだったのだ。
 触れろ、その手を伸ばせと言うような顔で俺を見てくる。
 二人きりで部屋の中にいて、何の障害もない状態でそんな顔をされれば、手を出すに決まっている。
 当然だろう。
 据え膳は残さずに食う主義だ。
 だから常に俺が要を布団の中に引きずり込むのだが。
(…理性は保たれるだろうか……)
 なるべく気を紛らわせるために親子丼を口の中に掻き込んでいた。性欲は食欲にそのまま変換出来るだろうか。
 要はそらした視線をまた俺に向けてくる。口元を見られているような気がして、俺は箸を止めてしまった。
 ちゃんと食っているかどうか確かめているんだろうか。
「美味いぞ」
 要のことを気にしつつ食っているが、ちゃんと味わっている。
 素直な感想を告げると要は目を見開いた。
 そして頬を染める。
 どうしてそこでそんな顔をする。
「あ…りがと」
 小声で要は礼を言う。しかも嬉しそうにはにかんだ。
 食事をここで一端止めて、別の欲を満たしに行ってもいいか。親子丼は後であっためても美味いだろ。だから箸止めろ、抱かせろ。と言いたくなった。
 だが言ったら無駄になる。奇跡みたいな瞬間が味わえなくなる。と自分に言い聞かせる。
 背筋がざわざわと落ち着かない。
 いつになったらお許しが出るか。少なくとも飯を食っている間は無理だろう。
 溜息が零れてしまいそうだったが、それをすると要が気にしてしまうだろう。
 ぐっと色々飲み込みながら、俺はおかわり目指して丼を空にしようとした。



 風呂の中で俺は散々腹をくくった。
 要が動くのを待つのだと。
 小さな動きだけでは分からないという素振りを見せて、はっきりとした誘いが出るのを待つ。それが出てこなかった場合は、今日は大人しく指をくわえて眠るのだと。
 要が隣りにいるのに何もせずにいられるかどうか、自信はなかったのだが今後のためだ。
 たまには要からも動いて欲しいと思っていた自分の願いを叶えるため。そしてこれからもその願いが時折成就されるため。
 断腸の思いというのを体験せざるえない苦境も乗り越えなくては。
 冷水でも浴びて無我を会得する修行でもするかと思ったのだが、そこまですると空しくなる。
 どれだけ要から誘いが来る確立が低いと思っているのか。そしてそれが決して悲観的なものではないという現実が切ない。
(あいつが自ら動くなんて、少し前まで信じられなかったしな)
 遠い目をしたくなるが、二人が付き合い始めてから何年も経っているわけではない。
 どうか、要が自分から誘ってくれますように。と情けないことを願いながら俺は風呂を終える。
 適当に服を着て部屋に戻ると要は落ち着かない様子でテレビの前にいた。
 何故か正座をして、膝の上にはぎゅっと握り拳が置かれている。
 どれだけ緊張してるのか。
 たぶんこれからが勝負だと思っているんだろうが、いくらなんでも気負いすぎだろう。
 見ていると可哀想になってくる。
(そんなに力入れることか?)
 初めてってわけでもないだろうに。
 布団はすでに敷かれており、俺はその上にどすんと座った。
「おまえ、今日どっか変だな」
 それとなく助け船を出すつもりで言うと、要は明らかにびくりと肩を震わせた。
 そしておずおずと俺を見てくる。
 上目遣いで見るなと言いたい。押し倒して服を剥がすぞ。
「体調良くないなら、大人しく寝るか」
 今日は俺からは手を出さない。
 そう宣言しておく。
 これで要は自分から動かなければならないという現実を認めるだろう。そうしなければ事態は変わらないのだと。
 元々自分から行動しようという意志があったのなら、これは背中を押される良い力になるはずだが。
 要は案の定はっとしたように俺を見た。
 そして珍しく目があっても視線が逸らされなかった。
(目がデカイ)
 まじまじと見ているとよく思うことが、今も込み上げてくる。
 それがじわりと潤み、俺はどくりと心臓が鳴るのを感じた。
「す、数寄屋……っ」
 緊張して上擦った声。要の頬はみるみる内に染まっていく。
「あの、僕」
 僕、と言いながら要は俺に手を伸ばしてきた。
 どんな形であれ、こいつが俺に触れてくることは珍しい。抱いている最中にしがみついてくることはあっても、それ以外の時に接触するのはいつも俺からだった。
 あぐらをかいている俺の膝に触れては、必死の様子で見上げてくる。
 泣き出しそうな顔にも見えて、俺は可哀想な気分になってきた。まるで苦しんでいるみたいだ。
 そこまでする必要性はあるんだろうか。
(だがここで止めたら、頑張ってる要の気持ちが無駄になる)
 自分の今後が有利になる。有益になるなんて考えはもうなかった。
 ただ目の前の人が満足出来るように。自分でやり遂げたという達成感を得て貰うために、俺は黙っていた。
「し……シ、たい」
 消えてしまいそうな、微かな声だった。
 だがそれでも俺の耳には届き、意味もきちんと理解出来た。
 真っ赤になって、恥ずかしそうに、それでも目を逸らさずに要は告げる。
 すがるように俺に擦り寄ってきては、膝の上にとうとう両手をついて前のめりになって体重をかけてくる。
 まるで甘えているような体勢だ。
「あの……だから、ね」
 拙く、それでもまだ言葉を続ける。
「だ……だい…」
 まるで禁じられている呪文を唱えるかのように、要はどもっていた。
 でもまだ終わってない。
 まだ言葉には続きがある。だから呼吸を乱しながらも要は震えるように声を発する。
「抱いて、欲しい」
 ぷつりと自分の中で何かが切れたのを感じた。
 それまでは出来の悪い子どもが必死に頑張っているのを、我が事のように見守っている気持ちだった。はらはらして、ちゃんと言えるかどうかという心配をする。
 保護者の気持ちだったのだ。
 それが、一瞬にして消える。
 言われるだろう台詞は予想していたのに、要の声と仕草で聞こえてくると理性が弾け飛んだ。
 もはやそれは本能にのめり込んだ部分が揺さぶられたということだろう。
 要の手を掴んでは後ろに押し倒した。
 とさりと布団に要が転がる。
 上に覆い被さると要の表情が真下に見えた。
 赤面したまま、でもちゃんと俺に言いたいことを言えてほっしている。
 その安堵の色がもうすぐ別のものに塗り替えられることも、きっと知っているだろうに。
 とっさに可愛いと呟いてしまう。可愛いなんて単語を口にするのは何年ぶりか。
 あんまり俺には合わない言い方だったが、要には似合っている。
 言われた本人は驚いたように目を見開いて、それからどうしようもなく恥ずかしそうに視線を逸らして小さくなる。
 そうやって俺を煽るのは止めろと言いたいのだが。そんなことを言う間すら惜しかった。
 噛みつくように口付けて、俺は差し出されたその身体に触れた。


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