欲しがる手 7 沈黙の中、僕は唇を開く。でも静かすぎて、声を出すのにためらった。 そんな僕に気付いたわけじゃないだろうけど、先に数寄屋がきっかけをくれた。 「話って?」 数寄屋の声は怒っているようでもない。でも機嫌がいいとは決して言えなくて、普段よりぶっきらぼうだ。 「この前の…」 「別れたいってやつか?」 「そういうことじゃないんだ…」 別れたいわけじゃない。 そのことを分かって欲しくて、誤解を解きたくて、僕はメールを送った。 「僕が言いたかったのは」 知って欲しい。 その思いで僕は顔を上げる。そこには真面目な顔で僕を見てくる数寄屋の目があった。 一瞬怖くて、俯きそうになる。でもそれじゃ駄目だと思って、ぐっと自分の背を押して視線を合わせた。 「数寄屋は僕と付き合ってていいのかなって。女の子と付き合ってたし、格好いいし、数寄屋と付き合いたいって人も知ってる」 数寄屋は喧嘩をする前に、ちらっと耳にしたクラスメイトの一言が胸によぎる。 ただ数寄屋と話が出来るってだけで、僕をうらやましがっていた女子を。 「なのに、僕でいいのかなって。似合ってないのに……」 数寄屋と僕とは、似合わない。 自覚しているけど数寄屋に話す時はいつも呼吸が苦しくなる。それまで頑張って合わせていた目も、伏せてしまった。 似合う人間になればいい。そう言われると、僕は言い返す言葉がない。 でも似合う人間になれると思うことも出来なくて、圧迫感に押し潰されそうになる。 それが、やっぱり怖い。 「他の人と付き合った方がいいんじゃないかって、思ったんだ…」 そこまで話すと、数寄屋の大きな溜息が聞こえた。また同じことを言ってるって呆れてるのかも知れない。 でも、今日はこれが言いたいことじゃなかった。言いたいのは、この次。 だから僕は慌てるようにして、話を続けた。 「これは、僕の考えてることは数寄屋にとっては……間違ってる?」 嫌なこと? そう尋ねると、また溜息が聞こえた。 「嫌に決まってんだろうが」 数寄屋の声に苛々していた。 怒り始めたみたいだ。 僕は正座をしている膝の上で拳を握る。怒鳴られるのは怖いけど、覚悟しなきゃいけない。 数寄屋の嫌なことを、僕はもう二回も言っているから。しかも今日なんかわざわざ時間を作ってもらってる。 「似合ってるって何だ。誰が決めるんだよ」 「それは…」 みんな、なんてことを思い付いたけど。数寄屋だったら「みんなって誰だ」って言うと思う。 数寄屋はそんな言葉には騙されてくれない人だ。 深川だってそんなこと言った冷めた口調で「で、誰?」って言うし。 僕の周囲の人は現実的な人ばかりだ。 「普通だとか、その方がいいだとかお前は言うけどな。俺とお前が付き合ってたいって思って付き合ってんならそれでいいだろうが」 (いいのかな……) 二人が思っていれば、それだけでいいのかな。 僕なんかでいいのかな。 とても、自信なんてない。 「他に俺と付き合いたいって女がいるから何だ。俺はその女と付き合わなきゃいけないのか。お前が男だから?俺はお前がいいから付き合ってるのに?」 苛々したまま、数寄屋は早口で告げていく。 「俺はお前が好きだって言って、付き合ったのに?」 好き。 そう言われた時のことを思い出しては、僕は唇を噛んだ。 ぐさりと刺さっては、息も出来なくなりそうだ。 僕はあの時泣いた。 だって好きだって言って貰えるなんて信じられなかった。僕なんか、好きになって貰えるはずなんてないって、抱き締めてもらえるなんて、有り得ないって思ってた。 嬉しくて、あったかい気持ちでいっぱいになって、悲しくないけど涙が出た。 「普通の恋人じゃないから、同性だからって別れて。好きでもない女と付き合わなきゃいけないと思ってんのか。見た目が似合っているからって、自分の気持ちを押し殺してまで女作れって?」 「それは…」 「その方がお前は満足か」 仕方がない。 そんな風に考える。 でも満足かなんて訊かれると、それは。 (……嬉しいはずない…) だって数寄屋と一緒にいるのは嬉しいから。離れるのは嫌だ。その方がいいと思っていても、本当は正しいのかも知れないと思っていても。 「でも……」 けれどこのままがいいのか分からない。数寄屋のためになるのか分からない。 数寄屋は僕と付き合っているのがいいって言うけど、本当に、この先もずっとそう思ってくれるだろうか。いつか後悔する時がくるんじゃないんだろうか。 「でも、か」 数寄屋の声が意地の悪さを帯びてくる。皮肉っぽさを帯びると、さらに威圧感があった。 「まあ、付き合ってみたら惰性で続いて、その内情も沸いてどうでもいい女でも好きになるかもな。そうすりゃおまえも幸せか」 (僕の幸せ……) それは何だろう。 数寄屋が幸せだったらいいと思った。数寄屋のためになるならと思った。それなのにどうして数寄屋は僕のことを言うんだろう。 「僕は……」 「お似合いだって笑えるんだな」 「だって、そうなったら」 仕方がないって、と心の中で思った。 思っただけで、気持ちはぽっかりと空いたままで、乾ききっていた。 その時僕はどうしているだろう。 笑っていられるとは思えない。でも数寄屋が本当に幸せそうならそれでいいって、思えるように努力したい。 「仕方がないって我慢すんのかよ」 僕の頭の中では、誰かと一緒に笑っている数寄屋がいた。それを考えても僕は苦しいばかりで、幸せになんてなれないと思った。 だって今までは僕に向けられたものだったから。 笑ってくれると嬉しい、喜んでくれると嬉しい。でもそれが別の人に向けられたら、僕だって寂しい。 でも数寄屋が幸せになるなら、それでいいんだって思わなきゃって。それで。 (我慢…しなきゃって……) 深川と健太が言ったことが今になって分かる。 二人は僕がこう思うことをとっくに分かってたんだ。 数寄屋のためならって、自分の気持ちを我慢することを分かってた。だからあんなことを言ったんだ。 (我慢しなくていいって……) そんな未来は嫌だって、言えばいいんだろうか。 自分からこの話を出したくせに、今更それが嫌だなんて、そんなの。 (わがままだ) 「黙るなよ。話があるって言ったのはお前だろ」 数寄屋は僕が黙ってしまったことに痺れを切らせたみたいだった。 二歩あったはずの距離を縮めて、僕の顎を指で掴んでくる。 触れられた感触にびくりと肩が跳ねたけど、数寄屋は手を離さない。くいっと僕の顎を上に向かせる。俯いたままの瞳を合わせるために。 でも僕は意志の強い数寄屋とこんな近くで視線を交わらせることは出来なくて、目を伏せる。 すると視界が滲んだ。 いつの間にか、涙が溜まっていたみたいだ。 苦しくて、胸が痛くて、涙になんか気付かなかった。 「おまえな…」 舌打ちと共にそんな呟きが聞こえて、ぎゅっと心臓が縮んだ。 怒ってるんだ。嫌なことばっかり言うくせに、勝手に一人で泣いている僕に。 「ごめ…」 ちゃんと声にすると震えてしまうから、微かな吐息でしか言えなかった。 怒鳴られるかと思ったけど、返ってきたのは呆れたような声だった。 「泣くほど嫌ならそう言えばいいだろうが。なんで我慢すんだよ」 顎を掴んでいた手が外され、僕はゆっくりと俯く。 渋い声音だけど、怒りは滲んでなかった。泣かれて、怒る気力もなくなったのかも知れない。 「俺が他の女と付き合ってもいいのか?」 めんどくさそうに、でも柔らかさが増した口調で数寄屋はそう言う。 僕は首を振った。 もう深く考えたくなかった。今の気持ちを、そのまま出したかった。 「とられたくないか?」 そう言われても、数寄屋が僕のものだったなんて感覚がないから。反応し辛い。 迷っていると、また溜息が聞こえる。 「お前は俺がいるのかいらないのか、どっちだ」 「いる……」 幼稚園児みたいだ。 泣いていたからはっきりとした発音が出来なくて、ぐずってるみたいな声になった。 でも数寄屋はそれで良かったみたいで、僕の頭に手を置いてきた。 「じゃあ、もうそんなこと言うな。自分と付き合わない方がいいなんて」 くしゃと髪を乱される。こうされると父さんといるみたいだ。 数寄屋とは同い年なのに。 「俺はおまえが好きで、お前と付き合ってる。俺が望んでることだ。他のやつなんか知るか」 自分勝手なことを、でも数寄屋は僕の頭を撫でて言ってくれる。 その手はすごく優しくて、数寄屋の性格を教えてくれていた。 「だからお前は余計なことは考えるな。馬鹿がんな無駄なこと考えるからこんなことになるんだよ」 「ごめん……」 馬鹿だ馬鹿だって言われてるけど、今回のことは本当に馬鹿だった。 だって自分が不安になるだけじゃなくて、数寄屋に迷惑をかけて、深川と健太も心配をさせてしまった。 「お前は卑屈過ぎる」 それは傲慢にもなるって深川は言った。 大当たりだ。 僕は自分の考えばかり先走らせて、数寄屋が僕を好きだって気持ちを無視していた。ちゃんと感じ取ってなかったって理由もあるけど、数寄屋にとってみれば馬鹿にされたような思いだったかも知れない。 「ごめん…ごめんなさい」 情けなさにぼろぼろと涙がこぼれる。すると数寄屋は僕の頬に触れてきた。 「もういいから泣き止め」 俯いたままの僕の頬に伝う涙を拭ってくれる。怒らせたのに、苛立たせたのに、数寄屋は僕を慰めてまでくれる。 「自分が必要だって思ってるもんは手放すな。鷲掴みにしてずっと持ってろ。他人なんか無視しとけ」 分かったか。と囁かれて、僕は数寄屋に手を伸ばした。 『いつになったら、要は手を伸ばすんだろう』 深川にそう言われた。 怖がってばかりの手を、誰に、いつになったら伸ばすのか。そう気にしてくれていたのかも知れない。 (今…) この時に、ようやく、手を伸ばした。 自分より体格のいい数寄屋の身体を抱き締める。 力を入れてしがみつくようにして、背中に手を回した。 ずっと誰かを欲しいと思わないようにしていた。自分のものになる人なんていないんだって、心のどこかで思っていた。 みんな誰かを欲しいと思ってる。でもこんな僕を欲しいと思ってくれる人なんているはずもなくて、だから僕も誰かを欲しいと思っちゃいけないと思った。 誰にも欲しがられないのに、自分だけ欲しがるのはわがままだから。 そう思って、誰にも手を伸ばさないようにしてきた。 だから僕に手を差し出してくれた数寄屋まで、これでいいのかって不安になった。 間違いじゃないのかって、思ってしまった。 (欲しい) 好きだと言ってくれる人が、人から見てそれが間違いだったとしても、数寄屋がこれでいいというのなら。 ずっと手を伸ばしていたい。抱き締めていたい。 泣き止めと言われたのにこうして抱き締めているとまた涙が滲んできて、抱き返された瞬間に雫が落ちた。 next |