欲しがる手 8



 言葉はなく、当たり前のように唇が寄せられた。
 抱き締められた距離のままで、吐息が触れていたから僕は驚きはしなかった。
 何度も、覚えてないくらい数寄屋とはキスをしている。
 でもいつも心臓が忙しくなった。
 慣れることがない。
 柔らかい、あったかい唇。
 触れて、一回離れる。
 その次にもう一度重ねた時は、下唇を舐められる。それは口を少しだけ開けろって合図だ。
 開けると舌を入れられるのが分かっているから、僕はいつも開けるのを戸惑う。
 キスだけでなく、舌を入れられる感覚はとてもじゃないけどついていけない。
 口の中になんで舌を入れるんだって、初めての時は思ったし、どうして舌を入れられて舐められるだけでこんなにぞくぞくするのか分からない。
 指先が少しずつ痺れていくような気がして、落ち着かなくなる。
 それはちょっと怖さもあった。
 だからためらうけど、今日は素直に数寄屋の舌を受け入れた。
 恥ずかしさや怖さ、慣れることが出来ないことに対しての抵抗感もあったけど、今の僕はそれよりも数寄屋を近くに感じたいと思った。
 数寄屋はキスなんて慣れたものなんだろう。するりと僕の口の中に入れてくる。
 そして僕の舌を絡み取っては、吸い上げたり、軽く噛んだりする。
 されるまま、僕はただ数寄屋に任せるしかなかった。
 でもその時僕は自分から舌を絡めた。
 キスをしている時に、僕が逃げずにいることなんて今までなくて、数寄屋の動きが止まった。
 舌が止まったことで、僕はさらに自分を差し出すようにして数寄屋の舌を吸ってみる。
 自分がされた時に背筋に微かな電気が走ったみたいに感じたけど、自分でやると戸惑いばかりが強くなる。
 これでいいのか、駄目なのか。そんなことも分からずに舌を動かす。
 身体は熱くなるのに、心の中では不安ばかりが膨らんだ。
 数寄屋の反応がないことに次第に怖くなり、僕は唇を離した。濡れた感覚がして、唇を拭おうとしたけど、その前に数寄屋の舌に舐められる。
 突然のことにちょっと驚いてると、数寄屋が面白そうな目で僕を見ていた。
「下手くそ」
「ご……ごめん」
 やっぱり数寄屋みたいに上手くはいかない。いくはずもない。
 大体数寄屋は誰かと付き合ったことがあるだろうけど、僕は数寄屋が初めての人だし、キスしたのも数寄屋だけだ。
 比べる方が無理だと思う。
 下手くそなのに勝手にキスして怒っただろうか。
 でも怒ってるなら、目を柔らかく細めたりしないだろう。怒鳴られた時の顔と、今とは全然違う。
「何回もしてるのに、おまえは全然上手くなってねぇな。自分からやらないせいか」
 今日、初めて自分から舌を絡めたのだ。
 これで上手かったら、僕はもっと人生をすんなり渡って行けていると思う。
「そろそろお前にも動くように教え込むのもいいかも知れないな」
「え……」
 教えるって何を。
 僕は数寄屋にされていることから逃げずにいるので精一杯なのに、自分から何かをするなんて、そんな。
「無茶…」
 出来ない、と首を振る。でも数寄屋は納得してはくれなかった。
「キスは自分から出来るようになってんじゃねぇか」
「でも」
「慣れたら出来るようになるだろ。お前だってされるばっかりじゃ面白くないだろ」
「お、面白いとか、そんなの」
 考えてられる余裕がない。
 ぶんぶんと首を振って訴えると、数寄屋はそれもまんざらではないように「へぇ」と一声もらした。
 どういう響きが混ざっている声なのか、ちょっと怖い。
「でもそれはまた今度。俺が満足するまでヤった次の日くらいにするか」
「満足するくらいって」
 僕がぐったりするほどえっちをしても、数寄屋は「もう限界か」ってまだ頑張れるっぽいことを言う。
 たぶん数寄屋が満足するまで抱き合っていたら、僕は壊れるんじゃないかな。
 意識とかもうろうとしてしまう気がする。
「そうじゃねぇとお前に色々教えてやるだけの忍耐がない」
 数寄屋の手が、僕の服を脱がしにかかる。その手つきは素早くて、まるで小さな子どものように世話をされているみたいだ。
 肌を撫でる手のやらしさは、子ども相手のものじゃないけど。
「お預けくらって大人しくしてられる犬じゃないからな」
 制服のズボンに手をかけられ、僕は恥ずかしさに身じろぎをした。でもそれが数寄屋の気を煽ったのか、後ろに押し倒される。
 普段なら身体は硬直して、戸惑ったまま目をそらして僕は逃げ腰になっていた。でも今は、数寄屋に手を伸ばした。
 欲しがっていい。
 そう思えたから。



 コンビニ弁当を食べながら向かい合う。
 今日は晩ご飯の材料は買って来なかったし、何より作るのはちょっと辛かった。
 話し合いに来たはずの僕は、確かに話し合いはしたけどそれからのほうがずっと長くて、数寄屋の身体が離れた頃にはぐったりとしていた。
 風呂に入らないと、とてもじゃないけど服を着られる状態じゃなかったし、でも風呂に入る体力もなくなっていて、このまま帰れないんじゃないかと思った。
 僕はそのまま横になって時間を過ごしている間に数寄屋は風呂に入って、僕がようやく動けるようになって風呂に入っている間にコンビニにご飯を買いに行ったらしい。
 買ってきた弁当をテーブルに置いた時、ものすごく不機嫌そうに「おまえの飯が食いたいんだがな、仕方ない」って言っていた。
 数寄屋にしてみればすごく不満なのかも知れないけど、僕にしてみればその一言が嬉しくて仕方なかった。
 本当に、僕がご飯が好きなんだなっと感じられて。
「こんな晩ご飯久しぶりだ」
 割り箸を割って、僕はコンビニの弁当をつつく。
 僕が風邪を引いて料理をする元気がなくて寝込んでいる時、父さんが残業から帰ってきた時に食べた時以来だ。
 僕だけじゃなくて父さんも料理は出来るから、どちらか一方が倒れても大丈夫なんだけど。その日の父さんは仕事で疲れ果てていた。
 もそもそと食べる弁当は風邪のせいか味がほとんど分からなかった。それより父さんの申し訳なさそうな顔をよく覚えている。
 今目の前にいる人はむすっとしている。
(まずいかな……)
 コンビニ弁当は味が濃いけど、まずくはない。
 数寄屋にとっては嫌いな味なんだろうか。嫌々食べているように見える。
「美味くない」
 案の定数寄屋はそう投げ捨てた。
 さっさと箸を動かしてはいるが、早く終わらせたいだけのように見えた。
「そうかな」
 返事をすると、その声が掠れて出てきた。
 変な声を出しすぎて、喉がおかしくなったんだ。
 つい数十分前のことを思い出しそうになって、僕は誤魔化すみたいにご飯を飲み込む。
 抱き合うたびに、信じられないことをしているなと思うけど。今日のは信じられないというレベルを通り越して、頭がおかしくなるかと思った。
 でもこうしてまともな状態に戻ってこられるんだから、人間ってよく出来てる。
「まずい」
 そう断言する数寄屋の顔を、僕はちらりと見上げる。そんなに怒るほどまずくないような気がする。僕と数寄屋は味覚が違うんだろう。
「ここ最近こんなに飯ばっかだからな。飽きる」
「ごめん……」
 僕が数寄屋を怒らせて、どうしたらいいか分からずにいた時間の分だけ、数寄屋はコンビニのご飯を食べていたんだろう。
 こんな風に、不満そうに。
 それを思うと喧嘩をしたことだけじゃなくて、会えない時間を作ってしまっていたことにも罪悪感を感じる。
 僕が馬鹿なことを考えなければ、数寄屋は僕のご飯を美味しいって食べてくれてたのに。
「なんで謝るんだよ」
「だって僕が来なかったから…。数寄屋を怒らせたし」
「んなことはいいんだよ。結果的に悪いことじゃなかった」
 数寄屋は弁当を食べ終えて箸を置いた。
 悪い事じゃなかったんだろうか。
 僕は思わず首を傾げた。
 数寄屋には嫌な思いばかりさせたのに、これでも良かったって思っているのかな。
 喧嘩は、なかったよりあったほうが良かったなんて、考えられるものなのかな。
「おまえの考えてることは少しだけ分かったしな」
 ぶっきらぼうに言われた言葉に、僕は手を止めた。
 僕の考えてることが分かったから、結果的に悪くなかったってことは。
(……それって、僕のことを知ろうとしてくれてるのかな)
 興味を持ってくれているということだろうか。
 それは数寄屋に近付きたいと思っている、僕の気持ちと似ているじゃないかな。
 距離が少し縮まった気がして、口元が緩んでくる。
「明日は飯作りに来られるか?」
「うん」
 僕はすぐに頷いた。
 部活にも入ってない僕に用事はないし、何より出来合いじゃ不満そうな顔をしてる数寄屋が喜ぶようなご飯を作りたい。
 明日、またご飯を作りに来る。
 喧嘩をする前は大したことでもないと思っていた。でも今は、それが特別なことなんだと気が付けた。
「明日なら教えてやれる」
「え?」
 教えてもらうって何だろうと思った。
 きょとんとしていると数寄屋はあくびをして食い足りないなと呟いた。どうやら僕の質問に答えてくれるつもりはないみたいだ。
(僕、何か教えてって言ったっけ?)
 今までのやりとりをぼんやりと思い出すと、キスをしている最中の会話を思い出した。
(お、教えられるって…!?)
 さっき散々ヤったのに!?
 血の気が引いた。
 あれだけヤったのだから、明日は何もせずにいて欲しい。まして僕から何かをするなんて、そんなの無理に決まっている。
「む、無理」
 僕は慌ててそう言ったけど、数寄屋は腹にまだ何かを入れるつもりで、立ち上がって台所に行ってしまう。完全に無視された。
(あ、明日は行けません……)
 無理です。と心の中で繰り返しながらも、口には出せなかった。




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