欲しがる手 3



  出ていった数寄屋が帰ってくるより先に、僕は部屋を出た。
 晩ご飯はもうそれ以上手を着けられなくて、残りはゴミ箱に捨てた。
 二人で食べていたご飯を、こんな風に捨てるのは初めてだった。
 数寄屋はよく食べるから僕が作った物を残したことはないし、僕も自分が食べられない分はもともと皿に盛らない。
 それが、今日は駄目だった。
 食欲なんてかけらもなくて、洗い物を手早く済ませるともう部屋にはいられなかった。
 数寄屋が帰ってくることを思うと、どんな顔をして何を言えばいいのか分からなかった。
 怒らせたことが怖くて、嫌われた事実から逃げるようにして帰った。
 合い鍵で施錠した後、掌に残った鍵を郵便ポストに入れようかと思った。数寄屋を怒らせてしまった僕がこれを持っているのが間違いのように感じた。
 もう来るなって言われるかも知れないと思ったから。
 でも結局は鞄に入れた。
 これを返してしまえば、本当にもう二度と数寄屋の部屋に来られないかも知れない気がしたから。
 もう二人でご飯を食べられないような気がしたから。
 また穏やかな流れの中で数寄屋と一緒にいたい、でも帰り道ではずっと数寄屋の低く重い声ばかりが蘇ってきた。
 それから学校でも数寄屋と目を合わせることはなくなった。
 元々学校では話をしたりする機会自体滅多にないけど、なんとなく視線は時々合っていた。どうしてかは分からない。僕はなんとなく数寄屋の姿が視界の端に映ると見てしまうから、数寄屋もそうかも知れない。
 でもあの日からは、視線が合わなくなった。
 僕が数寄屋を見ることを減らしたからかも知れない。
 目が合うと怒鳴り声を思い出すし。何よりあの時みたいにぴりぴりした空気を味わうのが怖かった。
 僕には怖いことがいっぱいある。でも数寄屋に関してはそれが減っていくばっかりだと思っていた。でもこうしていると、本当は増えていたんじゃないかな。
 いつもは、その怖さを感じてることがないだけで。
 色んなところに潜んでいたんだ。
 それが今は様々なところから現れてきた。
「何かあっただろ」
 授業と授業の間、短い休み時間に深川はそう言った。
 確信しているみたいだった。
 いつもと大して変わりがないように見えるはずなのに、どうして深川がそんなことを言ったのか分からなくて、僕は目を丸くした。
「数寄屋を見てびくびくしてる」
 分かり易い。とまで付け加えられて、僕はかくりと肩を落とした。変わりがないように振る舞っているつもりでも、深川にとってはばればれだったみたいだ。
「喧嘩でもした?」
 とすんと僕の前の席に腰を下ろして深川は尋ねてくる。
「まー、要と喧嘩出来るのは分からないけど」
 深川はからかうようにそんなを言ってきた。
「数寄屋が一人で苛々してるだけだったり」
 大抵そんなところだろうみたいな顔をする深川に、僕は俯いた。
 そうじゃない。
 僕が苛々させたんだ。
「要……?」
 軽い口調だった深川の声が心配そうなものに変わる。
 僕が黙ってしまったから、気になったんだろう。
 深川は毒舌な時が多いけど、こうして人が落ち込んでるとすぐに察してくれる。心根はすごく優しい。
「……僕」
 何かあれば結局深川に相談している僕は、このことも零してしまう。
 考えても、考えても分からないことを、深川は僕より早く、そして僕が思っていなかったような方向から見てくれる。
 そしてどうすればいいか考えてくれる。
 答えは自分で考えろって言われるけど、それでもヒントをくれた。
 今はそのヒントがすごく欲しい。
「数寄屋に…普通に女の子と付き合った方がいいんじゃないかって…」
「……言ったの?」
 頷くと、深川が深く息を吸ったのが感じられた。
 呆れてるのかと思ってちらりと見上げるけど、そこには真剣な顔をした深川がいた。
「それで?」
「怒られた。なんでそんなこと言うんだって。付き合ってることが嫌になったのかって」
「まぁそう言うだろうね」
 深川は数寄屋に同意するみたいだった。
「でも僕はそんなことが言いたいんじゃないんだ」
 今、別れたいと願ったわけじゃない。
 ただこのままでいいのかって、これでいいのかって、そう単純に思っただけ。
 突き詰めてしまえば別れる、別れないってことになるかも知れないけど。でも僕はこの時点での、今の状態での答えが欲しかった。
 これでいいのか、悪いのか。
「数寄屋にとっては、今のままでいいのかなって。僕なんかでいいのかと思って。もっと数寄屋に似合っている人がいるんじゃないかって」
 数寄屋と喧嘩したせいか、僕は深川に対して夢中になって話した。
 これはおかしい?
 こんな気持ちは変?
 それが僕には分からない。
「そんなこと前にも言ってたなー」
 深川は苦笑を浮かべた。
 確か、前に言ったのは昼休みに図書館に行く途中だった。その次の日、僕は数寄屋と喧嘩したんだった。
「それで数寄屋は結局何て?」
「わけ分からないって…部屋を出ていった」
 残された時の、苦しいほどの静けさは強く頭に残ってる。
 あれから何も話してない。
「数寄屋にとっては分からないかもね」
 深川は冷静な様子でそう言う。
 そうだろうな、と納得しているような顔だ。
「深川には分かる?」
「要の性格とか知ってるから。付き合い長いし」
 けれど深川は肩をすくめた。
「言ってることに同意はしないけど」
「……僕が言ってること、おかしい?」
 こんな考えが間違っているのなら、数寄屋に謝らなきゃいけない。
 そして抱えているこの思いを押し込めてしまわないと。人を怒らせるだけの思いなんて、あっても辛くなるだけだ。
「おかしくはない」
 でも深川は同意出来ないと言いながらも、間違ってはないと告げた。
 だから僕は首を傾げてしまう。
「じゃあなんで…?おかしくないけど同意は出来ないって…」
「ずれてるから」
「何が?」
 ずれてるって、考えていることが?思っていることが?
 深川は言うことが難しかったり、はっきりとしたことを教えてくれないから分かりづらい。
 僕はちゃんと知りたくて尋ねるのに「さあ」っていう曖昧なことしか返ってこない。
「深川」
 教えて欲しい。顔を少し近づけて深川に寄るけど苦笑が深くなっただけだった。
「口で言っても仕方がないことだし。それは二人のことだから僕が言うことじゃない」
 深川の言ったことは僕にぐさりと刺さった。
 僕と数寄屋のことだから深川に答えを聞くのは違う。
 本当の答えはここにはない。
「訊くなら数寄屋だろ」
 ごもっともな台詞に僕は頷く。でもそれだけだ。
 ここから動くことは出来なかった。
「怖いんだろ」
 幼馴染みはことごとく図星をついてくる。
 誤魔化せるなんて思ってないけど、こんなにもぐさぐさ言い当てられると居たたまれない。
 怖がりなんだ。意気地なしなんだ。
 これじゃ駄目だって分かってるくせに。
「……過ぎる謙遜は卑屈にも見える」
「え?」
 けんそんなんて聞き慣れない単語に、僕は顔を上げた。
 そこには僕を観察しているみたいな目があった。
 感情が見えなくて、僕は不安をかき立てられてしまう。
「深川…?」
「そしてそれは傲慢にも近い」
 ごうまん。
 深川の言葉を棒読みして、僕はそれに当てはまるものを思い出す。
「わがままって…こと?」
 傲慢って確かわがままって意味じゃなかったっけ?
 そう思って口にすると、冷静過ぎた深川の目が途端に笑いを滲ませた。
「要にわがままって似合わないな」
 少し笑った深川はいつも顔に戻っていた。
 そのことにほっとする。
 もしかしてこの話題は深川にとっては気分の良くないものかも知れないって思ったから。
 僕が、数寄屋に女の子と付き合った方がいいって言ったこと。深川も気にするんじゃないかって、心のどこかでは心配してた。
(深川の従兄弟も、こんなこと言ったりしないのかな)
 そして目の前の深川も、こんなことは思わないんだろうか。
 男同士でも、まして親戚であっても、お互いが好き合っていれば何の不安もないんだろうか。
「僕は、わがままかな」
 傲慢と言われて、自分の言葉を振り返る。
 わがままだったから、数寄屋は怒って部屋を出ていったのだろうか。
「きっと、今の要には分からない部分が」
 深川の言い方に、僕は唇を噛んだ。
(分からない部分じゃ、直しようがないじゃないか……)
 このまま僕はわがままでい続けてしまうんだろうか。
 そんなの嫌なのに。
 わがままなんて、言いたくないのに。
「一体いつになったら、要は手を伸ばすんだろう」
 独り言みたいに小さな声が聞こえて、瞬きをして深川を見た。
「何に?」
 僕が何に手を伸ばすっていうんだろう。
 手を伸ばすって欲しいものに対してだろうなってことまで考えて、深川はどうして今そんなことを言うんだろって思った。
 わがままだって言ったのに、どうして手を伸ばす事を話しているんだろう。
「いつまで我慢してんの?」
「え」
 我慢。
 わがままだって言われたり、我慢してるって言われたり。深川は何を言ってるんだろう。
 さっぱり分からない。
 僕が馬鹿だからなんだろうか、それとも深川の言い方が遠回し過ぎるからなんだろうか。
「我慢なんかしてないよ」
 誤解されている気がするから、僕はそう言った。
 すると深川は仕方なさそうに微笑んだ。
 それがどこか寂しげに見えて、僕はまた分からなくなる。
 なんでそんな顔するんだろう。
(我慢なんて…)
 してないよ。してない。そう自分に告げた。
 でも深川に言い返すことはもう出来なくて、自分の中だけで広がっていった。


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