欲しがる手 2 数寄屋の部屋で一緒にご飯を食べる。 いつの間にか日常になってしまった光景。 こうするのは何度目だろう。 もう数え切れない。 僕専用になったお茶碗とお箸が出来たのも、いつだったか。 これからもずっとこうしていくのかな。 棚の中に入ってるお醤油はもう二本目になったけど、それも次々に変わっていくのかな。 ずっと、僕のご飯を美味しいって思ってくれるのかな。 「難しい顔してるな」 「え」 唐突にそう言われて、僕はお箸を止めた。 見ると数寄屋が真っ正面から僕を見ていた。数寄屋の視線はいつも強いから、僕は今日も少し俯いてしまう。 「考え事か?」 そう尋ねられて、僕は胸の中に広がっているこのことを話そうと思った。 こうしていることを、付き合っていることを、数寄屋はそれでいいと思っているのか気になったから。 僕は、これでいいのか自信がなかったから。 「……数寄屋は、これでいいの?」 「何が。飯食ってていいのかってことか?」 二杯目になるご飯を空にしながら、数寄屋がそう言う。 こんなに急に言っても伝わるはずがない。考えるまでもなく分かりそうなことなのに、僕はどうしても言葉が足りない。 「そうじゃなくて…僕と付き合ってること」 数寄屋は空になったお茶碗を置いた。おかわりがいるかなと思って僕は数寄屋を見上げる。するとそこには眉を寄せて怒っているような表情が浮かんでいた。 「いいのかって、どういうことだ?」 声のトーンがさっきまでと違う。 怒っているっていうより真面目な顔で、考え事をしているみたいだ。さっきの僕もこんな風にしていたのかな。 「普通に…女の子と付き合ったほうがいいんじゃないかなって」 そう思って…と言うと数寄屋はさらに眉を寄せた。 僕はそんなに分かりづらいことを言ってるかな。 普通に男女で付き合っている人たちを見て、思い付いたことなんだけど。 数寄屋はこんなこと思ったことないのかな。 「なんで」 低くなった数寄屋の声に、僕はお箸を持っている手が強張るのを感じた。 怒り始めたのかも知れない。 数寄屋は僕に対しては怒るより先に呆れる。怒るのも嫌になるようなことばかりしているからかも知れない。でも今は呆れている雰囲気が全く伝わってこなかった。 「だって……男は大抵女の子と付き合ってるし…数寄屋も前は女の子と付き合ってたんだよね?」 この疑問は数寄屋を不機嫌にさせるのだろうか。その理由がぴんとこなくて、でも僕はここで黙るのもおかしいと思って話し続けた。 「数寄屋は僕のご飯が好きだって言ったけど…ご飯くらいいつだって作るし。付き合ってなくても」 ばしっという音を立てて、数寄屋がお箸をテーブルの上に置いた。 叩くように置くから、僕は肩をびくりと震わせてしまった。 「お前は付き合ってるのが嫌なのか」 数寄屋の不機嫌さが空気を伝って僕まで届いてくる。ぴりぴりとした、針みたいな鋭さで。 威圧感に頭を押されたみたいに、僕は自分の手元ばかり見ていた。 力無くお箸を置いて、膝の上に置かれている両手。 「そんなこと……」 僕はそんなことが言いたいんじゃない。 でも深川も数寄屋と同じことを言っていた。 違うと告げれば、数寄屋から大きな溜息を聞こえてきた。でもいつもみたいな呆れた様子とは違っているように思えた。 だって空気は重苦しいままだ。 「んじゃなんでそんなこと言い始めた」 「その方が……数寄屋にとっていいことだって思ったから」 僕と付き合うよりずっとお似合いの女の子がいるだろう。僕より料理が上手な子もいるかも知れない。 僕より楽しい子、面白い子、優しい子、気がきく子、そんな子はいっぱいいる。 もっといい人と付き合った方が、きっと数寄屋にとっては良いことだし。重要なことなんじゃないかな。 僕なんかと付き合ってても、いいことはないから。 「どこがだ!」 数寄屋は突然怒鳴ってテーブルを叩いた。 力任せの苛立った音に、僕は両手を握り締めた。数寄屋を見上げる勇気なんてなかった。だからどんな顔をしているのか分からない。 もしかすると僕が見たこともない表情で怒っているかも知れない。 「いい加減にしろよ?冗談にしてもたちが悪い」 音量は下がっても、そこから聞こえてる怒りは確かだった。 冗談じゃない、という声すら僕の口からは出てこなかった。 喉を締められているみたいに、怖くて喋れない。 こんな風に、数寄屋に怒鳴られたことなんてなかった。 怒ると怖い人だとは思っていたけど、想像しているよりずっと、ずっと怖い。心臓が引き裂かれてるみたいだ。 「誰と付き合えって?どっかの女子に俺と付き合いたいから手伝ってくれとでも言われたのか?」 僕は首を振った。 そんなことはなかった。誰かに頼まれるはずだってない。 僕と数寄屋が仲がいいなんて思っている人は少ない。それに、僕に頼み事をする人なんていないだろう。こんな頼りない。役に立たない人間。 「……じゃあ別れたいならそう言え」 数寄屋は苛立ちを押し込めたような低い声で、そう言った。 「回りくどい言い方なんかすんな」 怒鳴っていないけど、僕の耳には鋭く刺すように響いてくる。 「そんな……」 別れたいなんて。 そう呟くように返す。だって僕は数寄屋が嫌いになったわけじゃない。だからこそ、こんなことを言い始めたのに。 「おまえが言ってんのは、そういうことだ。むしろ別れたいって素直に言うよりたちが悪い」 数寄屋は口が悪い。よく馬鹿だとか、間抜けだとか言ってくる。でもこんな風に、はっきりと棘を向けてきたのは、雨の中で数寄屋を見付けた時以来じゃないだろうか。 あの時はただのクラスメイトで、話したこともなかった。だから親しくない人と話す怖さみたいなものばっかり優先されていたけど。 今はそれよりも数寄屋の怒りをぶつけられていることが恐ろしかった。 嫌われたくて、言ったことじゃないのに。 「……女と付き合いたくなったか。俺が嫌になった?」 僕が女の子と付き合うなんて、有り得ない。好きな人なんて、目の前にいる数寄屋以外いないのに。他の人なんて。 首を振って否定する。視界はぶれてきて、涙がいっぱい溜まっていた。 まばたきをすれば落ちてしまうだろう。だから僕は目を開いたままにした。 ぽつりと落ちれば、数寄屋は僕が泣いていることに気が付いてしまう。そしてまた大きな溜息をつくだろう。 その溜息の重さが、また僕に突き刺さってくる気がする。 「わけ分からねぇ。なんでだよ」 尋ねられても、僕は答えられない。 だってもう僕の思っていることは言ってしまっているから。 それが数寄屋にとっていいことだと思った。それだけが理由。 僕にとっては、数寄屋がそうして別れたいのか、他の女と付き合いたいのかって尋ねてくるほうが不思議だった。 何て言えば僕のことを理解してもらえるのか、言葉は見つからない。それに声を出せば嗚咽になってしまいそうで、呼吸を整えているだけで精一杯だ。 「黙ってたら分からないだろ」 数寄屋の声がまた荒くなってきた。 黙り込んでいる僕に苛々しているんだろう。 物事をはっきり決めないと落ち着かないって言ってる数寄屋だから、この状態は気分が良くないみたいだ。 「要」 責めるような名前を呼ばれ、僕はびくりと肩を震わせてしまった。その拍子に涙が一粒手の甲に落ちる。 (あ……) 泣いてしまった。 我慢していたのに、涙を零してしまった。 雫を見てしまったのだろう、数寄屋はやはり溜息をついた。 それがさらに僕を居たたまれなくする。 泣きたかったわけじゃない。ちゃんと話し合いにだってしたかった。でも僕は怖がりで、意気地がなくて、肝心なことを伝えられない。 弱すぎる、人間。 (やっぱり……数寄屋と付き合ってるのは、良くないことなんだろうな…) 現に数寄屋はこんな僕に呆れている。苛ついている。 ろくに話も出来ないような人と付き合っていても楽しくないだろう。 もっと、いい人が。 「出掛ける」 そう言うと数寄屋は立ち上がった。 そしてそのまま玄関に向かい、部屋から出ていった。 鍵もかけずに。 僕は見送るために顔を上げることも出来ず、ドアの向こう側から聞こえては消えていく足音を聞いていた。 「っ……」 堪えていた涙は、玄関が閉まる音と共にぼろぼろと零れた。 生ぬるい水が手を濡らしていく。 完全に怒らせた。 数寄屋がこの部屋からあんな風に出ていくなんて、用事を教えることもなく出掛けてしまうなんて、今までなかった。 (…嫌われた) 怒られて、呆れられて、嫌われた。 もうこれまでみたいにここでご飯を食べたり、勉強を教えて貰ったり、学校からの帰り道でばったり会ってはそのまま帰ったり。そんなこともなくなるかも知れない。 (…別れ、るんだ) その方がいい。そう自分で思ったはずなのに、沈黙がのし掛かってきては涙を流させる。 心臓が痛い。どうしてこんなに痛いんだろう。 これでいいとさえ思ったはずなのに。 「なんで……」 呟きはやっぱり嗚咽になって震えていた。 next |