欲しがる手 1



 授業が終わると、深川が貸した教科書を取り返しに行ってくると教室を出ていった。
 なので人が僕の横に立った気配に、深川が帰ってきたんだと思った。
 でも顔を上げた先にいたのは数寄屋で、無言で僕の額にノートをこつんと当ててきた。
 昨日僕が数寄屋の部屋に忘れたノートだ。
 これで何度目だろう。
 僕はよく数寄屋の部屋に忘れ物をする。そのたびにこうして数寄屋が返してくれた。
 同じクラスだから面倒ではないだろうけど、それにしても僕は今の今までノートがなかったことにも気が付かなかった。
 次の授業だったから、数寄屋まで忘れてたら僕は困っていただろう。
「ありがとう」
 そう言う頃には数寄屋は教室から出て行った。
「数寄屋君と仲いいの?」
 すぐ近くの席で話をしていた二人の女子が、僕に向かってそう言った。さっきのやりとりを見て、意外に思ったんだろう。
 やっぱり全然接点があるように見えないみたいだ。
 僕もそれは分かっているから、そう訊かれても無理はないと思った。
「うん」
 悪くはない。
 それどころか、友達以上の関係かも知れない。
 でもそんなことを言えるはずもないし、言ったところで信じてもらえるとも思ってない。
「へー、そうなんだ。数寄屋君と西岡君ってタイプ違うのにね」
 席に座っている女子が頬杖を付いたままそう言った。
 興味があるみたいで、僕から目をそらさない。
 僕は人と目を合わせるのがすごく苦手で、その視線から逃げるように俯いた。これが良くないってことは分かってるけど、どうしても身体がそう動いてしまう。
 深川とか、健太ぐらい付き合いが長くなると平気にもなってくるけど。
 数寄屋は合わせろって何度も注意してくれて、ようやく目を合わせても怖くなくなってきてる。
「数寄屋君って近寄りにくい感じあるけど」
 座っている女子と向かい合わせで話をしていた女子が、どこか言いづらそうに口にした。
 数寄屋は冷たい雰囲気があると噂されているみたいだ。実際この女子もそう感じているのかも知れない。
 でも僕にしてみれば冷たいって言うよりなんでも自分でやろうとしているんだと思う。自立しているっていうのかな。一人暮らしをしているから、その辺りからしてしっかりしてる。
 そんなところが、他の子からしてみれば一線引いてるように思えるんじゃないかな。
 僕も数寄屋とこんなに親しくなる前はそう感じていたし。
「そんなことないよ」
 僕が言うと、立っていた女子の口元がほころんだ。
 嬉しそうな顔をしたのかも知れない。俯いている僕からは、顔全体がよく見えないから分からないけど。
「そうだといいな」
 小さな呟き。
 それがどういう意味なのか、僕は不思議に思った。だから視線を微妙に上げようとした。
 でもその前に耳に入ってきた言葉に、納得してしまう。
「頑張ってみれば?」
 座っている方の女子がからかうように言う。
 その意味に首を傾げることはなかった。
 立っている人は、少しだけ微笑んだ人は、数寄屋のことが好きなんだろう。
 だから、あんなことを呟いた。
(そっか……)
 数寄屋を好きな人がいる。
 あれだけ頭もいいし、運動神経もいい。言葉遣いが荒い時もあるけど気にするほどでもないし。何より優しい。
 女子が好きになるのも分かる。
(もてるんだもんな)
 それが当たり前のことなんだろうと思った。
 前々から自分と付き合っているとは思えないほど、格好いい人だと思っていた。
 ちらりと女子を見ると、その視線は廊下に向けられているようだった。
 辿ってみると数寄屋がそこで誰かと話をしている。
 彼女いるのかな。という話をし始めた女子に、僕はさらに俯いた。
(僕だなんて、言えない)
 言えるはずもない。
 だから黙って、もう会話に混ざらないようにふいっと別方向に顔をやった。
 しかし聞こえてくる声の全てが僕の中に入り込んでは、針のようにちくちくと刺してくる。
(数寄屋と付き合いたい人って…他にもいるんだろうな)
 きっとこの女子だけではない。
 それを思うと息苦しくなる。
(いいのかな)
 僕が付き合っていて、いいのかな。
 数寄屋はそれでいいのかな。
 他にもっと可愛い子がいるんじゃないのかな。
 たとえば隣にいる女子なんて、僕よりずっと可愛いし、頭だって僕よりいいだろうし、何より女の子だ。
 数寄屋が男なら、女の子と付き合いたいと思うんじゃないんだろうか。
 前は彼女がいたっていうのは聞いている。
 なのにどうして今は男である僕と付き合っているんだろう。
(……いいのかな…)
 ぽかりと浮かんできた疑問は、急激に大きく膨らみ始めた。



 昼休み。ご飯を終えて図書室に本を返す深川に付き合って廊下を歩いていた。
 図書室とは教室とは階が違う。
 僕が読むことはないだろうと思うぶ厚い本を手に持って、深川はあくびをした。
 昼休み前の授業は机に突っ伏して寝ていたのに、どうしてテストではいい点を取ってるんだろう。僕なんて真面目に受けても赤点ぎりぎりなのに。
 頭の中の作りからして僕とは違うに違いない。
 階段の踊り場に、二人の男女がいた。楽しげに話している様はとても親しげで、付き合っているんだろうなと思った。
 校内でも時々みかける光景だった。
 付き合っていることを隠す必要もないだろう。
 その隣を通り過ぎて、僕は呼吸が重くなるのを感じた。
 あんな風に堂々と、人前でも仲良く出来るのって楽しいだろうな。
 誰にでも付き合っていることを話が出来て、友達にも紹介出来て。
 数寄屋は、そういう関係が羨ましいって思ったことはないのかな。付き合っていることを誰かに自慢したいって考えたことはないのかな。
(でも付き合っている相手が僕じゃ、とても自慢なんか出来ないか)
 そう冷静に考えて、僕と付き合ってることを数寄屋はどう思っているのか気になった。
「……いいのかな」
 このままで。
 そう口から零れた。
 すると深川が「何が?」と問いかけてくる。
「数寄屋は、僕といて」
 深川には僕のことをなんでも話している。
 他の人には話さないで欲しいと言ったことは決して言わないからだ。深川は意地の悪いところがたまにあるけど、約束はちゃんと守ってくれる。
 ここは準備室ばかりで周囲に人がいないことを確認して、僕が答えると深川は肩をすくめた。
「さあ?」
「だって僕といて、いいことなんてご飯が食べられるってことぐらいしかない…」
 僕の取り柄はご飯が美味しく作れるってことだけだ。
 他にいいところなんてない。
 背は小さい。顔は男らしくない。性格は暗いし、人見知りだし、すぐ落ち込む。
 いいところなんてない。
 そんな僕と付き合っていて、数寄屋はいいのかな。
「女の子と普通に付き合った方がいいんじゃないかな…。だって前は女の子と付き合ってたって言うし」
 深川は立ち止まった。それにつられて僕も立ち止まる。
 もう少し歩くと図書室の近くで、そこには他の生徒たちもいると思ったんだろう。
「なのにどうして僕と付き合ってるんだろう。ご飯が食べたいなら、付き合ってなくても作るのに」
 深川は僕の言葉に、真面目な顔をした。
 さっきまで眠そうな顔をしていたけど、もうそれはなかった。
「嫌々付き合ってんの?」
「え?嫌じゃないよ」
 どうしてそんなことを尋ねられるのか、僕は分からなくて首を傾げた。
 嫌だなんて一言も言ってないのに。
「女の子と付き合うのが普通なのに、数寄屋はこのままでいいのかなって」
 そう思っただけだと言うと、深川は苦笑した。
「要に喧嘩売られるとはなぁ」
「あ……ごめん」
 そう言われて、僕は失敗したと感じた。
 深川は男と付き合ってる。しかも従兄弟だ。
 とても普通とは言えないことだろう。でも僕が知る限り深川はそれを悩んでいるようでもないし、従兄弟が地元を離れるまでは二人が一緒にいるところを何度も見てる。
 さっき階段の踊り場で見たように楽しげにしていた。僕からしてみればとても大人っぽい深川だけど、その従兄弟の前では子どもっぽいところも出したりして。
 深川は従兄弟が、従兄弟は深川が好きなんだなと思った。
 そんな姿を見てるから、僕も数寄屋と付き合うことに大きな抵抗はなかった。
 そもそも、誰かと付き合うことを思い描いたことがなかったから。抵抗するって考えもなかったのかも知れない。
 でも今になって、悩み始めてしまった。
「いいよ。普通じゃないことぐらいよく分かってる」
 深川は僕が何度も普通じゃないって言ったことは、責めてこなかった。いつもみたいに落ち着いている。
「……深川は、僕みたいなこと思ったりしない……?」
 深川は僕よりずっと頭もいいし、文化系なのに運動もそこそこ出来る。僕よりずっと自信に溢れていて、僕みたいに落ち込んだりしたところ、あんまり見たことがない。
 だからこんなことも冷静に判断して割り切ったりするのかな。
「あるよ。でも付き合ってたいからそれでいいんじゃないの。誰にも迷惑かけてないし」
 とても悩んだとは思えないほど、すっきりとした口調で深川は言う。
「ま、迷惑かけたとしてもあいつは気にしないだろうけど」
 従兄弟のことをあいつと言って、呆れたような顔をした深川に二人の関係の深さを見た。
 お互いのことをよく知っているのだ。
 こんなことじゃ落ち込まないって、信じてるんだ。
(僕は、そんなのまだ分からない)
 数寄屋がどんな人なのか、なんとなく分かり始めていた。でもこんな時数寄屋はどう思うか、どうするかなんてまだ想像も付かない。
 だから、迷ってしまう。悩んでしまう。
(いつか……女子の方がいいって言われるかも知れない)
 僕に何の取り柄もないことを実感して、呆れて離れていくかも知れない。
 付き合っていられないと愛想を尽かされるかも知れない。
 けれどその時、僕は数寄屋に何も言えないだろう。
 その方がいい。
 心の中でそう思うくらいしか、きっと出来ない。
 もしかすると、数寄屋はそれを切り出すまで僕と一緒にいた時間を「勿体ない」と思うかも知れない。
 もっと早く他の人と付き合うことを決めれば良かったって、思うかも知れない。
 それ思っていると、心臓がきしんだ。
 深川は口を閉ざした僕に、話は区切りがついたと思ったんだろう。また歩き始めた。
 僕も足を動かし始めたけど、とても気持ちは前には向かなかった。


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