当てはめない形 1


 赤くてどろどろした中に、四角い白の豆腐が浮かんでいる。
 中華の定番メニューの一つなのだが。
「辛くないか?」
 幾つか口に運んだが、舌がひりひりしてる。
 辛い物は嫌いじゃないが、食べ続けるとさすがに眉を寄せる。
 向かい合って座っていた要は「あ、ごめん…」と慌てたような小さく謝った。
 いつもは顔を隠そうとしている長い前髪も、俺と一緒の時はピンでとめられている。
 男が前髪をピンでとめるってどうよ、と思わないことはないのだが。似合っているので文句はない。
 大きな目が長いまつげで形取られているのは、正面から見ていても飽きない。
 前は怯えて、ずっと俯いていたが、最近は時々でも目が合う。
 すぐにそらされるが、大きな進歩だろう。
 要が作った飯を食うどころか、要本人まで食っているのだから、それくらい進歩しなきゃ俺の立つ瀬がない。
「父さんが…麻婆豆腐は辛いのが好きで、つい…」
 母親を早くに亡くした要は、家事一切をやっているらしい。
 中でも飯を作らせればこいつより美味いやつを知らない。
「辛いのが好きなのか」
「うん」
「おまえも?」
 ほわほわとした性格と見た目は、そんじょそこらの女よりも「可愛い」という基準に入るだろう。
 そんなに要が辛いものを好きだとは思っていなかった。
 今までもそれほど辛い物を出されたわけでもない。
 俺の好みを考えているのか、特別甘い、辛い、苦い、というものを要は作らない。
「僕はそんなに好きじゃないかなぁ…」
 だろうな。と心の中で同意する。
 辛い麻婆豆腐をまた口の中に運び、その辛さが好きだという要の父親を想像する。
「おまえの親父って、おまえに似てるのか?」
 これほどぼんやりとして、要領の悪い成人男性、しかも子持ちというのは考えにくいのだが。
 要を育てた人間なのだ。それくらい天然でもおかしくないかも知れない。
「似てる…かな。のんびりしてるよ」
 のんびりしてないとおまえは育てられねぇだろうな。
 要の中では時間までゆっくりと動いているんじゃないかと思ってしまう。
 俺とは違う感覚で生きているっていうのは、間違いけど。
「それで…優しい、かな」
 要がはにかむように言った。
 自慢の父親なのかも知れない。
 二人で寄り添って生きてきたんだろうなと勝手に想像した。
 俺も二年前までは母親と二人暮らしだったが、こんな風に母親のことを語った覚えはない。
 優しいとはお世辞にも言えないような母親だ。
 まして、父親なんて記憶の片隅にこびりつくように残っているが。
 母親を罵倒しては殴っているような奴だった。
 子どもの俺に優しくするどころか、近寄れば蹴られた。
 家庭内暴力というやつだ。今ならそんな男、殴り倒して地面に額擦らせてやるところだが。
「優しい父親なんて、想像出来ねぇな…」
 顔も思い出せない、ただ暴力しか覚えていない父親。
 要の口から聞く言葉は異次元のことみたいだった。
 両親の揃った暖かな家庭。そんな嘘臭い言葉と似ている。
 知らないものは、やっぱりどれだけ考えても、分からないままだ。
 別に悲しいとも思わないが。
 烏龍茶に手を伸ばすと、ふと要が手を止めているのが目に入った。
 気まずそうに、目を伏せている。
 俺の言ったことが気に掛かっているのだろう。
 こいつは俺の家庭環境を知っている。
(馬鹿な奴)
 そんなの気にしなくていい。俺のことで心を痛める必要なんかない。
「気にすんな。別に何とも思ってねぇし。欲しいとも思ってないから」
「うん…」
 頷きながら、要は箸を動かさない。
「悲しむようなことでもねぇしな」
 珍しくもないことだ。
 良かったところは、父親の暴力に我慢するような母親ではなかったということだろう。
「母親がキレて暴れるところは覚えてんだから。きっとそっちのほうが怖かったんだろ」
 酒乱の父親に対して、我慢の限界がきた母親はスタンドガンで父親を倒し。縄で縛り付けて今までやられた暴力をわりと忠実に再現して見せた。
 父親の暴力よりも、その夜の母親のほうが数倍恐ろしかった。
 未だに母親に逆らえないのは、無理もないと自分でも思っている。
 そして二人は速やかに離婚した。当然だろう。
「そんなに、怖かったの?」
 要はきょとんした目で俺を見た。
 子犬みたいだ。
 そんなことを男に対して思っている俺は随分いかれているんだろう。
「女はキレると怖いぜ」
 マジで。と言うと、要は「そうなんだ…」と真面目に聞いていた。
 人の言うことをそのまま鵜呑みにしているような、純粋というか天然ボケというか、そんな要なら、母親だけでなく、大抵の女は恐ろしい生き物になるだろう。



 数寄屋の部屋で、ネギを刻む。
 もうどこに何があるのか大抵分かる。
 台所に関しては、きっと数寄屋より僕の方がよく分かっていると思う。
 だって数寄屋は台所に立たないから。
 お湯を沸かすくらいしかしないって言ってた。それじゃ栄養が偏るのになぁ。
 みそ汁を作りながら、僕はちらりと背後を見た。
 そこには服や雑誌が散らかっている。
 ワンルームだから、その散らかった場所で寝たり、勉強したり、テレビを見たりしているはずなんだけど。
 色んな物が色んな位置にある部屋で、落ち着けるのかな。
 片付いてないと、僕は落ち着かないんだけどな。
 数寄屋は頭も良くて、運動もよく出来る。格好いいし、ちょっと口は悪いけど優しいし、本当に文句の付け所なんてない人なんだけど。
 家事だけは出来ないらしい。
 料理も掃除も駄目。
 そこの部分だけ、僕は数寄屋よりも優秀だ。
 本当にそこだけしかないのが悲しいけど。
 ぐつぐつとみそ汁が煮立ってきたから、火を止めた時インターホンが鳴った。
 ぴーんぽーん、という軽い音に僕はつい玄関まで歩いてしまった。
 でも、ここは僕の家じゃない。
 数寄屋の部屋で、きっとやって来た人は数寄屋に用のある人だろう。
 僕が出てもきっと役に立たない。
 それに、数寄屋からは誰が来ても開けなくていいって言われてる。
 でもインターホンは容赦なく鳴り続けた。
 それどころか、どんどんとドアを叩かれる。
「ちょっと、いるんでしょ!中で音がしてるの、聞こえてるわよ!堂々と居留守とはいい度胸じゃない」
 女の人の声だ。しかも怒ってる。
 それはそうだよな。だって僕が作ってるご飯の匂いは外に漏れてるはずだし。
 ネギを切ってた音だってしたはずだ。
「出てきなさい!ドア蹴破るわよ」
「え」
 そんなこと出来るの!?
 強そうな男の人がやるなら分かるけど、女の人がドアを蹴破るなんて。
 出来るかどうか分からなかったけど、でも本当にドアを壊されると困るから、僕は鍵を開けた。
 ガチャンって音がした途端に、向こう側からドアを開けられる。
「早く開けなさいよね!!」
 怒鳴ったのは、僕よりずっと年上、三十代くらいの女の人だった。
 茶色の長い髪に切れ上がった目。きっちり化粧をしていて美人だった。
 怒っている顔をそのまま近付けられて、僕は思わず後ろに下がった。
「誰?」
 不信な目で見られて、ここにいちゃいけなかったのかと思ってくる。
 別に悪いことをしてたわけじゃないんだけど、無性に謝りたくなった。
 すぐに謝る癖を直せ!って数寄屋には言われるんだけど、なかなか直らない。
 まして顔を隠してくれている前髪を今はピンでとめていて、視線が直接ぶつかってくる。
 怖い。
 ふっと俯くと、女の人の足下が見える。
 黒いミュールに高いヒール。
 身長は僕より高いけど、そのミュールのせいかも知れない。
「友達?」
「はい…」
 頷きながらも、友達なのかなぁ?と首を傾げそうになった。
 深川は友達。でも数寄屋とは深川みたいなつき合いをしてない。
 好きだって言われて、僕も数寄屋が好きで。
 きっと恋人って言うのが正しいのだと思う。でもこんな見ず知らずの人に「恋人です」って言う勇気はない。
 だって男同士で恋人なんて、他の人からすれば変に思うだろうから。
「冬馬は?」
 とうま。と頭上から降ってくる声に、瞬きをする。
 聞き慣れない響きだ。
 でもすぐに数寄屋の名前だと思い出す。
「数寄屋、君は今コンビニに…」
 君付けなんかで呼ぶな。と言われているから、こうして改めて数寄屋のことを話す時少し戸惑う。
「バイト?」
「いえ、違います。すぐに帰って来るって」
「じゃあ中で待たせて」
 女の人は僕の隣をするりと通った。
 どんな素性の人から分からせないのに、部屋に上げていいのか。
「あの」
「今日は合い鍵忘れたからインターホン押したのよ。いつもならそのまま上がってるわ」
 合い鍵。
 そんなものを持つ仲だなんて。
 この人一体誰なんだろう。
 ちらりと目を上げると、女の人はガスコンロを見ていた。
 そこには鍋が乗っている。
「御飯作ってたの?」
「…そうです」
「なんで?」
 女の人の声が低くなった。機嫌が悪くなったみたいだ。
 心臓がぎゅっと締め付けられる。
 もしかして、自分が作りたかったのに、僕が作ったから怒ってるのかな。この人、数寄屋の彼女なのかな。
 でもそれにしては年が離れてるし。それに。
(好きだって、彼女なんていらないって…言ってた)
 数寄屋は嘘は言わない。
 今まで嘘をつかれたことがないだけかも知れないけど。
 そんな人だと、思えない。
「頼まれたんです…」
「脅されたんじゃなくて?」
「へ?」
 思わず間抜けな声が出た。
 脅されるって、数寄屋に?僕が?飯作れって?
 作ってくれってお願いされることはあるけど、脅されたことなんて一回もない。だって脅されなくても作るし。
「あいつ、苛めみたいなみっともないことはしないって言ってたのに」
「え…あの、脅されてなんて」
 女の人はぎっと目を据わらせて、鍋を睨み付けてる。
 どうやら僕が嫌々ご飯を作ってるって思ったみたいだ。
(どうしよう…)
 この人誤解してる。
 深川は、僕は数寄屋が一緒にいたらきっと苛めだって思うって言ってたけど、あれって本当だったんだ。
 確かに僕は小学校とかで苛められそうになったけど。
 でも数寄屋は僕を苛めるなんてことないのに。
 何て言えばいいのか迷ってると、玄関のドアが開いた。
「…何やってんだ」
 コンビニの袋を下げて、数寄屋がこっちを見てた。
 どうしてか、呆れ顔で。


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