柔らかな響き 2


 調理実習であっても、後かたづけってものがある。
 女子二人は他の班に遊びに行き、深川は自分の班に戻っていった。
 僕は毎日やってる洗い物を学校でもやるはめになって、別に嫌じゃないんだけど、なんだかなぁって気分だった。
 どこに行ってもこれなのかなぁって。
「晩飯が食いたい」
 数寄屋は洗い物をしている僕から少し離れた場所で、机に寄りかかっていた。
「明日あたり。いいか?」
 そういうやりとりは大概メールでしていたから、直接言うのは珍しいことだった。
(そっか、二人でいるってのが珍しいんだ)
 僕は深川と、数寄屋は別の友達と一緒にいるのが普通だったから。
 わざわざ二人きりになろうとすることもなかったし。
「今日でもいいよ?」
「いや、今日はバイトだから終わるのが十時過ぎる」
 数寄屋は父さんがいる時には家に来ない。
 親子の食事に入るつもりはない、みたいなことを言って。
「それでもいいよ。今日は父さんが帰ってこないんだよ」
「なら、泊まりに来るか?」
「あ、うん…それでもいいけど」
 夏休みの間も二、三回ほど数寄屋の家に泊まったのだが。
 一緒に寝るということが、なんだか恥ずかしくて僕は一瞬ためらった。
「じゃあ。十時までに家に来とけ。鍵はポストに入れとくから」
「うん」
「…いい加減鍵も増やすか」
「鍵?なんで?」
 食器の泡を流しながら尋ねると、数寄屋は苦笑した。
 最近その反応をよく見る。
 なんでだろう。そう思うけど、聞いたことはない。
(なんか呆れが入ってる気がするから…)
「馬鹿かおまえは」という言葉を聞くのが怖いのだ。
(そんなの勉強教えてもらってる時だけで十分だよ…)
 洗い物が全て終わった時「数寄屋!」と調理室の端から声がした。
 だるそうに数寄屋「んだよ」と言いながら歩き出す。
 離れていく背中と入れ替わるように深川がやってきた。
 こちらも怠そうに首を回している。
 中性的な容姿でそういう中年のような行動をされると、かなり似合わない。
 だがそんなことを言おうものなら毒舌を発揮されるので、黙っておく。
「洗い物なんてさぁ、やるもんじゃないね」
「僕は毎日やってるんだけど」
「要は主婦だから」
「違うって。学生だよ」
「頭良くないけど」
「…それ、僕が言おうと思ってたんだけど。人に言われたくない…」
 自分で言うなら笑えるけど、人に言われると落ち込んでしまう。
「…深川。鍵って、何のために増やす?」
 突然妙なことを聞いたけど、深川は大して気にした様子もなく「合い鍵だろ」と言った。
「合い鍵?」
「スペアなら入居した時にもらってるだろうし。誰かにあげる時くらいしか増やさないと思うけど?」
 数寄屋の口から告げられた言葉は、そういう意味だったのだろうか。
 確かに、合い鍵があれば御飯を作る時にいちいち鍵の場所を聞いたり、相手がいるかどうかを確認しなくてもいいが。
(あんなに簡単なことなのかなぁ…)
 その気になれば部屋を荒らすことだって出来てしまうのに。
 絶対しないって約束するけど。
「鈍いっていう次元を通り越してるね。見てると笑えるけど」
「何が?」
「数寄屋ってさ、要のことどう思ってんの?」
「え!?さぁ……それは…」
 言えなかった。
 好きだと言われたことなんて。
(だって、好きって…何が、どうなのか分からない)
 それなのに身体の奥で、言葉は引っかかってる。
 気紛れに心を揺らしてきて、いたたまれない。
「苛々しないのかねぇ…」
 はは、と深川は乾いた笑いで遠くを見た。


 ポストに置き去りにされていた鍵を掴み、部屋のドアを開けた。
 他人の家の玄関を一人で開けるなんて初めてだった。
「お邪魔します…」
 誰もいないって知ってるけど、一言断ってから入った。
 一歩足を踏み入れ、広がる光景に軽くまめいがした。
「片づけたい…」
 雑誌、教科書、服が散乱している一室。テーブルの上にはペットボトルが転がってる。
 布団は敷きっぱなし。押入は開けっ放し。
 今すぐ本を重ねるなり、服はたたむなりして整理したいのだが。
(もう九時だし…掃除してたら数寄屋帰って来ちゃうかな…)
 ああ、片づけたい…。とうずうずしながら玄関から入ってすぐ横にある台所に立った。
 片手にぶら下げたスーパーの袋を床にゆっくりと置く。
「サバサバ…」
 煮込み物からまず手を着け始める。
 サバの味噌煮だ。
 勝手知ったる他人の家。
 調味料などは数寄屋の家にはあんまり揃っていなくて、だいぶ持ち込んだ。
 自分の家と同じくらいよく知っている台所だ。
「僕が御飯作らない時、何食べてんだろ…?」
 腕まくりをして、調理に入りながらふと考える。
 コンビニの廃棄で生きているとは言ってたけど。そんなに種類は豊富じゃないだろう。
 インスタント物に頼って生活しているんだろうか。
(栄養偏るのになぁ…)
 料理すること自体が僕は好きだから、自炊が全く出来ない人の生活ってちょっと想像つかない。
(数寄屋って家事全般駄目みたいだよなぁ…。掃除は時々お母さんが来てやっていくって聞いたけど)
 お母さんってどんな人だろう。
 数寄屋を産んだ人なら、きっと美人なんだろう。
(両親は、離婚したって言ってたなぁ…)
 いつのことかは聞いていない。
 数寄屋は母方に引き取られ、親子二人暮らしをしていたらしいけど。お母さんに恋人が出来たから、数寄屋は家を出た。
 とは言ってもお母さんの恋人が気に入らなかったとかの理由じゃなく。
『母親はあいつが好きみたいだが、俺には全く関係のない男だからな。何も知らない他人と一緒に暮らすより一人暮らしのほうが楽そうだったから。家賃と光熱費は払ってくれるって言うしな』
 新婚気分を味合わせてやってるお礼だろ。と数寄屋はどうでもいいことのように語っていた。
 なんだかドライだ。
 お父さんの方は今は再婚しているそうだ。
 会ってもない、連絡も取ってないからどうなっているかは分からないって。
『一人の方が楽だ。今までと変わりもないしな』
 その言葉で、数寄屋がどんな環境にいたのか僕には分かった。
 家に帰っても誰も待っている人はいなくて。
 鍵を開けた時の、ガチャ、という音がやけに重く部屋に響いた。
 ずっと一人で御飯を食べて、夜が更けるのじっと眺めている。
 眠りに落ちるその瞬間でさえ、人の気配がない。
 おはようも、おやすみも、いってきますも、ただいまも。
 言う必要がない。
(僕は、嫌なんだけどな…そういうの)
 誰にも必要とされていない。むしろお荷物のような気がして。いたたまれなかった。
「……数寄屋は、そういうの思わないんだろうなぁ…」
 一人でもちゃんと立っている。その背中を眺めていつも羨ましいと思っていた。
 寂しいのは嫌だ、一人は嫌だ、辛いのは、寒いのは嫌だ。
 嫌なことばかり積み重なっていく気がする。
「…駄目だなぁ…」
 小さすぎる自分。恐がりな自分。
 きっと暗がりばかり見ているせいだって分かっているくせに。
 牛肉と野菜、きのこを甘辛く炒めながら、そっと溜息をついた。
 数寄屋は僕が溜息をつくと鬱陶しいと怒るから、いる時は意識して抑えていた。
 それがいつの間にか普通になってて、前までは気が付くと何度も溜息なんてついてたのに。最近は一度ついただけではっとする。
「…溜息をつくと何が逃げるんだっけ?」
 じゅーと焼ける音に視線を泳がせていると、気持ちが少しだけ浮き上がった気がした。

「おかえりなさい」と玄関を開けて出迎えると数寄屋は一瞬間をおいてから「…ただいま」とぶっきらぼうに答えた。
 機嫌が悪いのかなぁと思うと、びくびくしてしまう。
 何故なら、勝手に部屋を片づけたから。
(我慢出来なかったんだよ……)
 雑誌と教科書などを分類した上で重ねて部屋の隅に置いたり、ペットボトルを洗って片づけたりしただけだか。
 布団はそのままだ。万年床にしている、と以前数寄屋が言っていたから。
「片づけたのか」
「ごめん…余計なことだって分かってたんだけど」
「別にいい。それより飯は?」
 数寄屋は部屋のことなんて気にする様子もなく、台所に入った。
「出来てるよ。運ぼうか」
 数寄屋はみそ汁や御飯を器に盛ると無言でテーブルまで運んでいった。
 それがお手伝いをしている子どものようで、隠れてこっそり笑ってしまった。
 サバの味噌煮、あさりのみそ汁、牛肉と野菜、きのこの甘辛炒め、きゅうりの浅漬けが並ぶとようやくいただきますの合図だ。
「深川もおまえの飯食ったことがあるんだな」
「あるよ。深川とも付き合いが長いから」
 相変わらずがつがつという表現が合うような勢いで数寄屋が食べる。
 今日のおかわりは一体何杯だろう。
(四杯くらいじゃないと、御飯が尽きちゃうんだけどなぁ…)
 もっと炊いておけば良かっただろうか。
「家がすぐ近くだから、健太より付き合いは長いよ」
「小学校か」
「幼稚園、かな」
 昔過ぎて曖昧になっている記憶を辿ると、幼稚園時代にはすでに深川がいた気がする。
「今もたまにうちに来て御飯食べてるよ」
 そう言うと数寄屋が俯いたまま、目だけこっちを向いた。
(なんか、駄目なこと言った?)
 数寄屋の目つきがちょっと怖い。
 怒っているのか、不機嫌なのか。
 どちらせよ、ちょっと前までにはなかったものだ。
「健太といい、深川といい。飯を食いに来る友達が多いな」
 声も心なしが低く聞こえた。
(そういう数寄屋も同じじゃないのかなぁ…)
 長い前髪をピンでとめているため、視界がクリアで数寄屋の眉間に寄ったしわまでよく見えた。
「俺もお前の中では同じか」
 思っていたことを読まれた気がして、ひくんと肩が跳ね上がった。
 それを見てしまったのだろう。
 数寄屋はかつんと多少乱暴に茶碗を置いた。
「…俺が馬鹿みたいに思えるんだが」
「え?なんで?」
 置かれた茶碗は空だったから、手を差し出すと「おまえ見てると怒るに怒れない…」と数寄屋は呟いた。
「なんか…怒りたいことがあるの…?」
 怒鳴られたりするとすごく怖いから、恐る恐る尋ねた。
 静かに怒られるともっと怖いんだけど。
 でも数寄屋は大きく溜息をついて「いいから飯くれ」と投げやりだった。
 人には溜息をつくなって言ったのになぁ。と思いながら立ち上がった。

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