柔らかな響き 1


 舌が肥えた。
 菓子パンを頬張りながら、溜息を押し殺す。
 夏休みの間、自宅とバイト先、要の家ばかり行っていたせいだ。
 要が数学の補習をかろうじて免れたので(期末試験直前には自分の勉強そっちのけで教えていたのだ、これで赤点を取られた日には怒りを通り越して呆れただろう)三日とあけずに美味い物を食べていた。その味が染みついてしまったのだろう。
 学校が始まれば、そう頻繁に要の作る飯を食べるわけにもいかない。
(あいつにも都合ってもんがあるだろうしな)
 何より、帰ればすぐにバイトの時間なのだ。
「それだってのによ…」
 何故目の前で要が料理をしている様を眺める羽目になる。
 指をくわえて見ていなければいけない、その状況がどうしても許せなかった。
「おい、西村」
 丁度教室に入ってきたクラスメイトを呼ぶ。
「おまえさ、彼女の飯食いたいと思わねぇ?」
「え?そりゃ、まぁ」
 と西村は照れ笑いを浮かべる。
 現在、家庭科の授業では調理実習が行われているのだ。
 出席番号によって、四人ずつの班に分かれて調理をしているため要とは離れてしまった。
 西村は、西岡要のすぐ後なので同じ班になっているのだ。
 そしてその彼女、坂本と俺は同じ班だった。
「んじゃ俺と班変われ」
「いいのか?」
 西村の顔は一気に明るくなった。
 付き合ってまだ一ヶ月経っていないカップルは熱が上がる一方らしい。
「ああ。これからずっと変わってやるよ。手料理を堪能しろ」
 数寄屋ありがと!と西村は満面の笑みで肩を叩いてくる。
 幸せ者だ。
(おまえの彼女、すっげー破壊料理だけどな)
 第一回目の調理実習で、鶏肉もろくに切れず包丁をまるでのこぎりのように扱い、塩少々のところを大さじ5杯ほど入れるような女だ。
 二度と同じ班にはなりたくない。
(食うなら絶対要の飯だ)
 他のことは不器用でとろいくせに、料理に関してだけは抜群に上手な要。
 その手慣れた動きを見ているのが気に入っていた。
「明日の調理実習が楽しみだよ!」
 俺もだ。と口に出すことなく同意した。


 たまねぎのみじん切りをしながら、ちらっと上目で見上げた場所に数寄屋がいた。
 同じ班の女子二人と何やら喋っている。
「おまえら、ゆがいたじゃがいもくらいちゃんと剥けよ」
「そーゆー数寄屋君だって、皮が厚いけど?」
「あたしらより酷いじゃん」
 肩に付く茶色の髪を一つにくくった根岸さんが数寄屋の切った人参の皮を摘んだ。
 本当ならぺらんと薄いはずのそれは数ミリの厚さを持っている。
「皮剥き機はないのか…」
 数寄屋はぶすっと呟き辺りを見渡す。小学生みたいな素振りに隠れて笑ってしまった。
「もう探した後ですー」
 明るい茶色の長い髪を二つのお団子にした野上さんは「あったらとっくに使ってる って」と続けた。
「皮剥き機もないって、この学校はどんだけ貧乏なんだよ」
「極貧だよねー。校舎もボロいし」
「地震とかきたら壊れるんじゃない?机の下に隠れてる間に天井落ちてくるよ」
「最悪っ!彼氏もいない内に死にたくないし!」
「あたしは別れたばっかの時に死にたくないっての」
 はぁ、と根岸さんが肩を落とした。
「数寄屋、誰かいい男知らない?」
 この言葉にずきんと痛みが走った。
 根岸さんが数寄屋に向かって遠回しに何かをねだっているようで。
「彼氏くらい自分で何とかしろよ」
「ちぇ。分かってるけどさぁ」
 唇を尖らせて見る根岸さんは、可愛かった。
 女の子独特の、ふわふわした感じがして。構いたい、守ってあげたい。と思わせる。
 その隣にいる数寄屋も心なしが「仕方ないなぁ」という顔をしながらもちょっとだけ笑っている。
(…似合ってる)
 根岸さんは小さくて可愛い。笑うと見ている側も嬉しくなるような笑顔をしてくれる。きっと側にいるとほっとするタイプだ。長身で、あまりはっきりとした表情は見せないものの、格好いい部類の数寄屋と並んでいるとそれはお似合いのカップルのようだった。
(それなのに…)
 一度だけ、囁かれた言葉がよみがえっては心を揺らす。
「数寄屋って彼女いないの?」
 献立の一つであるチキンライスを作るため、刻んだ具を入れようとしていた手がびくっと震えた。
 フライパンの上で溶けるバターの上に、一気に具が飛び込んだ。
「いない」
「何で?作んないの?」
「あー…」
 曖昧に語尾を伸ばした数寄屋の視線が、一瞬こちらに向いたのは気のせいだと思いたい。
 どくんどくんと心臓は大きく脈打つ。
 数寄屋と付き合っている。そんな自覚はない。
 お互いの家にいる時くらいしかまともに会話をしない。学校では一言も交わさない日が普通なのに。
(……でも……身体とか…は……あれだけど)
 夏休みの間には、一週間に一度ほどの割合で身体を重ねていた。
 初めはひどく抵抗があった行為なのに、馴染んでいくのが自分でも分かった。
 それが付き合っていることへの実感なのだろうか。
(……でもそんなのって…なんか…身体だけの人みたいで)
 身体だけじゃないのかと聞かれれば、他には食事を作ることくらいしか思い浮かばない。
(勉強出来ないし、顔も駄目だし。運動音痴な上に人見知り激しいし、暗いし……)
 自分の特徴を並べれば並べるほど、落ち込んでいく。
 こんな後ろ向きに性格も、良くないのに。
「西岡君。この後どーすんの?」
「へ?あ、じゃがいもは薄く切ってちょっと塩をふって潰して。きゅうりも薄く切って。サラダ菜は適当に手でちぎればいいから」
 ポテトサラダの指示をすると女子二人は「はーい」と返事をした。
「ホント西岡君と同じ班で良かった。料理完璧なんだもん」
「すごいよねー」と野上さんに言われ、苦笑する。お決まりの「いつもやってるから」という言葉を返した。
「それがすごいんだよ。あたしなんて毎日料理出来ないもん」
「一日でも無理だよね」
 尊敬する!とまで言われるとさすがに照れ笑いが浮かんだ。
「やっぱ結婚するなら西岡君みたいに料理の出来る人がいいなぁ」
「そうだよね!現代の男性は料理も出来なきゃ!数寄屋君も覚えてみればー?」
 根岸さんに横腹を肘でつつかれるが、数寄屋は「向いてない」と素っ気ない。
「俺は坂本並に向いてねぇよ」
 その言葉に二人は「ああ…」と微妙な表情で斜め後ろの班へと身体ごと向いた。
 そこからは「入れすぎ!」「焦げてるって!」「きゃー、何これ!?」と悲鳴が上がっている。
「……数寄屋君、前の実習どうだった?」
 野上さんが恐る恐るという様子で尋ねると数寄屋は口元をにやっと歪めた。
「人生観変わるぜ」
 数寄屋の目は遠い。
「遠慮します。あたし、まだ十七だし…」
「そのほうがいい」
「だから数寄屋ってあの西村と班変わったの?」
「俺は美味いもんが食いたいんだよ」
 しみじみと言う数寄屋に「そうだろーね」と二人は同情的だった。
 あの班から出来上がってくるものが食べ物だとは、思えないらしい。
(すごそーだなぁ)
 チキンピラフを炒める傍らでコンソメスープの味付けをしていた僕は、あまり遠くは見られないので分からないけど。
(これくらいかなぁ。でも数寄屋ってもう少し塩のきいてる方が好きなんだよなぁ)
 でも女子二人はどうなんだろう。と思いながら小皿は少しだけ入れたスープを飲んでいると手が伸びてきた。
 すいっと小皿を取り、一口飲むと数寄屋は「薄い」とだけ言った。
 予想通りだ。
「数寄屋君、文句多い!自分じゃ大して何もしてないくせに〜」
「味にはうるさいんだよ」
「自分じゃ作らないくせに味にうるさい旦那って最悪だよねぇ」
 野上さんは「やだやだ」と数寄屋に非難の目を向ける。
「これくらい?」
 塩、こしょうを少し足して、おたまでスープを小皿に入れる。
「ああ。んなもんだろ」
 数寄屋が小さく頷く。それだけで僕はほっとするような嬉しいような気持ちになる。
「あたしも味見する!」と手を挙げる根岸さんにもスープを分けながら、ぐるぐると鍋の中身をかき混ぜた。

「ポテトサラダは要が作ったんじゃないだろ?」
 深川はいびつな形に切られた人参を箸で摘んで睨み付ける。
 銀杏切りにする、と教科書に書かれていたそれはどう見ても乱切りだった。
「三品の内、これだけが下手」
「これでも頑張ったんだよ?」
 はっきりけなす深川に、根岸さんがそう主張した。
「頑張り過ぎでしょこれは〜、切りすぎだって」
 と言いつつも深川はポテトサラダを食べている。味付けはちゃんとしているからだろう。
(マヨネーズと塩、こしょう、ほんのちょっとのからしだから。そんなに失敗することないんだけどね)
 と僕は思うのだが、とある班から「このマヨネーズ辛っ!」という叫びが上がっている。
「坂本ってある意味才能あるよね」
 野上さんは斜め後ろを振り返って、感心している。
「もう班変わってもらえないかもね、数寄屋」
「この先ずっと変わるっていう約束だ。それ以前にどうしておまえがここにいるんだよ。自分の班戻れ」
 にやにや笑う深川に、数寄屋が嫌そうな顔を見せる。
 でもチキンライスを口にすると「うまい」とちゃんと言ってくれた。
「要が料理してんのに、自分の作ったもんなんて食べられないね。誰だって美味いもんが食べたいだろ」
 そう言って深川は前回もこの班で食事をとっていたのだ。
 僕もそんな予感がしてたから、材料を余分に用意してたけど。
「それに、数寄屋には言われたくないよ」
 深川にもっともなことを言われ、数寄屋は不機嫌そうなまま黙った。
 空になった皿を差し出され、僕が椅子から立ち上がると根岸さんに「え?」という目で見られた。
「せめて、おかわりくらい言えば?」
 呆れたように深川が言う。
 そういえばいつものことだから、おかわりって言われなかったことに気が付かなかった。
 二人だけだと、これだけでおかわりなんだなって分かるから。
「ああ。忘れてた」
「へー…あっそ」
 いつもそうなんだ。と深川が横目でちらりと僕を見た。
 小さく頷くと数寄屋に「んだよ」と睨まれて身体が強張った。
 未だに怒られると、すごく怖い。
(数寄屋は優しいって分かってるけど、威圧感あるんだよなぁ…)
「意外とガキみたいなことするよなぁ」
「はあ?」
「いえいえ」
 何でもないですよ。とにこやかに笑う深川の言葉はそのまま信じてはいけない。
 何かを含んでいることは、僕は長年の付き合いでよく知っている。
(数寄屋をからかうなんて、やっぱ深川ってすごい)
 からかわれてばかりの身としては、羨ましい。
 見習おうとは思わないけど。
「おもしろいよ。うん」
「何が?」
 僕が聞いても、深川はふっと微笑んだだけだった。


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