ひだまりの抱擁 2


 ニラたまを真ん中に置き、向かい合わせで箸を動かしていた。
「健太は」
 要は前髪をピンで止めていた。
 伏せがちの瞳、まつげの長さがよく分かる。
 普段は隠されている素顔は、やはり気が弱そうで視線が絡むことはない。
「小学校低学年から、友達なんだ」
(あー、道理で)
 人見知りの激しい要でも、そんな時代からの友達なら親しいのも当たり前だろう。
「なんか、僕がいじめられてるのを見てきてるから。守ろうってしてくれてるみたい。ありがたいんだけど」
 要は少しだけ首を傾げた。
 ちょっと困っている。と言う時の仕草だ。
「もう高校生にもなってるし。健太とは学校別なんだけどね」
「だったらそう言えよ」
「言ってるんだけど、聞いてくれなくて。僕を年の離れた弟みたいに思っているのかも」
 弟というより妹のような扱いに見えたのだが。
「健太は彼女もいるんだから、そっちを守ってくれればいいと思うんだけどな」
「俺もそう思う」
「だよね」
 そうしてもらった方が、都合がいい。
 苛々することも少なくなるだろう。
 しかし、彼女がいるのに要をあれだけ守ろうとしているとは。
 保護欲が強い人間なのか、それとも要が保護欲をそそるタイプなのか。
「今は、ああしてるけど。出会った時は健太がいじめっ子だったのに」
「あいつが?」
 要を守ろうとして敵意を剥き出しにした男がいじめていたなんて。さっきの様子からは想像が付かない。
「うん。三、四年生の頃かな。いじめっ子だったよ。僕なんてよくやられてた」
 要は悲しそうでも、嫌そうな顔をするわけでもなかった。むしろ少しだけ笑っている。
 懐かしいな、というように。
「ひどいものじゃなかったけど。当時はそれなりに悲しかった」
「それなりかよ」
 いじめられていたというのに深刻さが要は出さない。
 小さなことのように話していた。
「うん。他にもっと悲しいことがあったから」
「何」
「母が死んだんだ」
 思わず箸を動かすのを止めて、顔を上げた。
 すると要は気にしなくていい。と言うように微笑んだ。
 まるでこっちを労るような表情だった。
「なんとなく予感はしてたから。毎日見舞いにも行ってたし」
 昔のことだから。と語る要は、哀れみの視線に慣れているのだろう。
 語る言葉はよどみもない。
「でも悲しくて、よく泣いてた。そんな僕が鬱陶しかったんだろうね。健太はよく僕に当たってた」
「おまえは当たりやすいからな」
 こうして飯を一緒に食うようになる前、俺もつい要に酷い言葉を投げつけてしまった。
 小さな自己嫌悪が蘇ってくる。
「…ごめん」
「なんで謝るんだよ。そーゆートコが当たりやすいってんだろ」
「うん」
 要のすぐ謝るくせは、こちらの調子を崩してしまう。
 だからつい苛立った風に感じてしまい、当たるのだろう。
 ちょっと前まで、自分もそうだった。
「で、いじめっ子だったあいつが、なんで今はおまえを守ってんだよ」
 昔はまるっきり逆になってしまっている。
「うん。ある日いじめがきつくなった時があって。なんでだろうと思ってたら、健太のお母さんがいなくなったって聞いたんだ」
 八つ当たりか。
 自分だけでは悲しみをかかえきれなくて、誰かにぶつけてはかろうじて自身を保っている。
 きっと小学生という小さな心と身体で、母親の喪失は重すぎたのだろう。
 他人事ながらに、そんなことを考えた。
「それを聞いたら、すごく悲しいなって思って。健太を慰めよーとしたら、すっごい怒られて。今ならどうして怒られたのかって分かるんだけど。あの時は子どもだったから」
 とまだ幼さを感じさせる容貌で言った。
 要は小柄なせいか、高校生というより中学生のようだ。
「おまえなんかにそんなこと言われたくないって。同じだと思うなって。馬鹿だのボケだの言われて。辛かったなぁ」
 本当に辛いと思ったのか?と聞きたくなるほど、要はのほほんとした口調だった。
「それで、仲良くなったんだよ」
「は?」
 脈絡のなさに、箸を止めて声を上げた。
 だが要はその声に気が付かないように、同じことをもう一度口にした。
「それから、健太とは友達になれたんだ」
「んなわけないだろ」
「え?」
「なんで怒られて、散々言われて友達になるんだよ。間がなんか抜けてんだろ?」
 箸で要を指す。
 そうでなければ、意味が分からない。
 どこをどう思って、健太は要の友達になったのか。肝心な部分は何一つ出てきていないのだ。
「うーん」
 要はニラたまを箸で摘みながら、唸った。
「それはそうだけど。それからのことってあんま覚えてなくて」
 もごもごと口ごもる様子は明らかに「嘘付いてます」と言っている。
 要相手に真実を吐かせることなど、造作もないことなのだが。
 言いたくない、と珍しく要が自分の意志を発揮しているので、それを尊重してやることにした。
 それに、吐けと強要すれば泣くかも知れない。
「おかわり」
   話を変えてもいい。という代わりに空になった茶碗を差し出した。
 要はほっとしたように顔を上げて「うん」と頷く。
(…気にはなるな)
 二人が友達になった経過が。
 健太の過保護っぷりが、正直癇に障るのだ。
 後日、このことについて聞き出すか。と心に決めて。
 とりあえず今は黙ってやることにした。


「あ」
 数日後の夕暮れ、コンビニから出てくる人と目が合った。
 片手にはコンビニの袋をぶら下げている。
 斜めに差している茜色の光は影が濃くて表情がよく見えないが、健太であることは判別がつく。
「あんた、要の」
 健太もこちらの顔が分かったらしい。指までさしてくる。
 だが敵意は感じられなかった。それどころか、笑顔を向けられる。
 この前の警戒していた視線はどこにいったのか。
「飯食わしてもらってる友達、だろ?あいつの飯旨いだろー」
「ああ」
 何故いきなり親しげに話しかけられているのだろう、と思いながら。
 無視するほどでもなかった。
「俺も食わしてもらってんだよな。たまーに。どんだけ旨いもん他で食ってても、絶対要の飯が食いたくなるんだよ。故郷の味、みたいなもんだろうな」
 おまえの故郷は要ってことかよ。
 それはそれで気にくわない。
「あんたもそのタイプ?」
「だろうな」
 たまに、どころか出来れば毎日でも食わしてもらいたいものだった。
 要にも都合があるだろうから、そんなことは言わないが。
「彼女の飯も旨いんだけどな。要には敵わないんだよな。なんでか。どう思うよ、同じ飯仲間として」
(なんだその飯仲間って)
 聞いたこともない言葉だ。
 それに妙な連帯感を持たれているらしい。
「あいつの飯は特別だろ」
 それだけは同意しておく。
 店で出されても文句は出てこないはずだ。
「でも同じ飯を食わしてもらっているが、俺はあいつをいじめた過去なんざない」
 おまえとは違うということをなぜか言いたくなりそう付け加えた。
 健太はきょとんとした顔をしてから「ああ」とやけに大人びた笑い方をした。
 どこか子どもっぽいところがあったので、それは浮いて見えた。
 微笑み方だけ、俗世間を泳いできた人間のにおいをさせる。
「なんだ、あんたにはそんな話までしてんのか。そりゃ相当だな」
「相当?」
「親しいってこと」
 誰と、なんて訊くまでもないんだろう。
 健太はおもむろに歩き始めた。
 そしてちらりと振り返る。
「暇?」
 つまり、付いてこい、ということなのだろう。
「ああ」
 頷くと健太は「そっか」とだけ答えて先を進む。
 どこに向かうのか。健太はそんなことも言わずに黙って歩いていた。
 数寄屋もそれに従っていると、辿り着いた先は近くの公園だった。
 子どもたちが母親に連れられて帰っていく。もうじき日が暮れて、子どもが遊ぶ時間じゃなくなる。
 鳩が足下をちょろちょろうろついていたが、あいにく餌なんて持ってない。
 公園に来るなんて何年ぶりだろう。
「どこまで聞いた?」
 健太は公園の中に入ると、唐突にそう尋ねてきた。
「おまえが要をいじめてた、ってことぐらいだな」
「友達になった経過は?」
 やっぱりそこに何かがあるのだろう。
 要が言いよどんだように、健太もそこを知っているかどうか確認してくる。
「聞いてない。いじめられてたけど、友達になった。って言っただけだ」
「あー、らしいなぁ」
 健太は小さく笑いながらベンチに座り、コンビニ袋からペットボトルを取り出した。
「いる?」
 隣に座ると缶コーヒーを勧められた。微糖よりブラックが好きだったが、もらっていて文句を言うほど人でなしではない。
 ありがたく受け取った。
「確か、三年の頃から要とは同じクラスで。からかってたんだよ」
 健太はカチッとペットボトルを開けながら、話し始めた。
「いじめってほど酷くないけどな。あいつちょっとしたことでいっつも泣いててさぁ。つつくとおもしろかった」
 要は典型的ないじめられっ子だったようだ。
 予想通りに。
「四年も同じクラスになってさ、おもちゃとまた一緒だって喜んでたんだけど」
 健太はペットボトルの中身、スポーツドリンクを傾けて一口飲んだ。
「おかんが家出してさ、ずっと帰ってこなくて」
「ああ」
「結局離婚することになって。子どもだったからすっげぇショックでさ」
 そんなもんだったかな。と自分の過去を振り返る。
 俺も片親がいないが、記憶を探っても出てくる感情はない。
(…ショック受けるも何も、父親の顔なんざ見た記憶もなかったな)
 物心付いた時から見たこともない人間と、母親が別れたと言っても何の感想も抱けなかった。
 寂しいも、悲しいも。何も。
 きっと健太の場合は、自分の場合と違って母親を慕っていたのだろう。
「要に対しての態度が更にきつくなって。一番当たりやすかったんだろうな。目が合っただけで苛々して叩いたり、物隠したり」
 んく、と健太は今度は喉を鳴らして飲む。
「要はずっと泣いてた。反撃して来なかった。でもある日、俺ん家が離婚したことを知ったらしくて『寂しいんだよね』って半泣きであいつに言われてさ」
 おかんが帰ってこないって分かった時くらい、ショックだった。と健太は呟いた。
 苦そうな声だ。
「なんでこいつにこんなこと言われなきゃいけないんだって。俺は可哀想なのかって」
 健太はペットボトルの蓋を掴んで、軽く揺らしている。
 その頃の自分の気持ちを表しているみたいだ。
「大人に言われるならまだ我慢出来た。でも要に言われるのだけは許せなかった。おまえは俺より下だろ?って」
 自分より確実に下だと思っていた要に、劣る部分があるのだと感じたのだろう。
 子どもの時は上下関係がはっきり見えている。だから健太は自分のプライドが傷付けられ、要より下になるのではないかという怖さを知ったはずだ。
「その場は散々要の悪口を言って怒ったまま家帰ったんだけど、自分の部屋に入ってからわんわん泣いてさ。なんでおかんはここにいないんだって。どうしてだって、いない人間責め続けて」
 朱色の空がだんだん紺色に染まっていく。
 周囲が暗くなっていく中、健太の声をじっと聞いていた。
 片親を失った悲しみは、よく理解出来ない。
 両親ともが揃っている友達が抱いているらしい優越感よりも。
「泣き疲れて寝た頃、玄関のチャイムが鳴って出てみると要が立ってた。紙袋下げて」
 小柄だっただろう要が紙袋を下げて玄関に立っている様子を思い浮かべると、やはりあいつは男って感じがしないと思う。
 今でも、そうであるように。
「涙目で、何言うかと思ったら。昼間は酷いこと言ったみたいでごめんって。これあげるとか言って紙袋渡しやがんの。中身は何かと思って見たら飯のおかずがタッパに入ってた」
「小学生の頃から飯作ってんのかよ。あいつ」
 そんな時期からしっかりおかずまで作っていたなんて、驚きだ。
 俺はその時期何をしていただろう。少なくとも家事をやるなんてことすら頭のなかったはずだ。
「小学二年の時からおかんが入院してて、家事をやってたらしいわ。そのおかずが旨くてな。思わず要に感謝してた。さっきまでいじめてた相手を尊敬してみたり」
 過去のことに健太は軽く苦笑した。
「それからか、仲良くなったのは」
「ん、それもあるけど。俺があいつを本当に尊敬したのは、あいつがおかんを亡くしてたってことを知ってからだ」
「ずっと知らなかったのか?」
「知らなかった。知ったのは仲良くなってしばらくした頃だった。そこで俺は初めて知ったんだよ。あいつがすげぇってことを」
「すげぇ?」
「俺は、おかんが帰って来ないって知ってからも、頭では分かってても心はついていけなくて、何年も『いつかは帰ってくるかも知れない』って思ってた。それは死んでもそう思ってたと思う。『死んだなんて嘘だ』って」
 でもあいつは。
 健太は軽く目を伏せた。
「おかんが亡くなった頃には、もう覚悟してたって言ってた。あんだけ泣いてたのは、もう戻って来ないことを分かっていたからだろうな。毎日泣いて、戻って来ないことを嘆いて。あんな子どもだったのに、現実を受け入れてたんだな。俺は抱えきれなくて、目を逸らしてたのに」
 わずかな希望にすがって、強がって生きていくのも道だろう。
 だが要という人間は、わずかな希望を捨て、強がることもなく、ただ事実を見つめたのだろう。
 それが辛いと分からないはずはないのに。
 寂しいと、予感出来たはずなのに。
「俺には無理だと思った。おかんがいないって認めることなんて。認めて、飯作って、洗濯して、親父の帰りをたった一人の家で待つなんて。俺は嫌だって思った」
 まだ小学生で、遊びたいのに、親に甘えたいのに。
 あいつはたった一人だった。
「しかもそれを仕方ないって受け入れてんだ。想像しただけで、きつくってさ。その上学校でいじめられてる、ってなったら居ても立ってもいられなくなって」
「それから、あいつを守ろうって決めたのか?」
「俺がしてやれることってそんなことしかねーからさ」
 健太は「俺不器用だから家事手伝ってやれねーし」と笑った。
「あいつ、強ぇんだ。本当は」
 すげぇだろ。と誇るように健太は言った。
 こいつにとって要は自慢の友達なんだろう。
「知ってる」
 そんなことはとっくに知っている。
 健太は意外だ、という顔をして、それから「良かった」と嬉しそうに言った。
「要のこと、分かってんだ」
 肯定も否定もせず、缶コーヒーのタブを開けた。
 無糖を愛飲しているので、口に含んだ微糖は予想以上に甘く感じられた。


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