雨色の時間 3


 居間から、台所でちょこまか動く西岡の背中を眺めていた。
(百六十あんのか?)
 自分より随分と小さく見える背中は同年とは思えなかった。
 西岡は前髪も長かったが、後ろ髪も少し長い。
 染めていない黒髪は大きく動くとさらりと流れた。
「…いつも飯自分で作ってんのか?」
「うん。父さんは帰ってくるの遅いし。たぶん今日も深夜まで残業だと思う」
「母親は?」
 西岡がやっていることは、他の家ならたぶん母親がやっていることだろう。
「僕が小学生の時に病気でね。それ以来親子二人暮らしだよ」
「へぇ…大変だな」
「全然。慣れると家事も楽しいよ?」
 西岡の声は予想に反して軽い物だった。ネガティブシンキングを突っ走る人間かと思っていたが、そうでもないようだ。
「家事楽しいか?俺にはわからん」
「数寄屋君は家事とかしないの?」
「一人暮らしだが家事は皆無だ」
 いい加減家の中に足の踏み場が無くなるかもしれない。冗談でも誇張でもなく。
 空き巣に入られても分からないという無駄な自信があるほどだ。
「一人暮らし?すごいねぇ〜」
「すごかない。離婚した母親が恋人と一緒に住むためには俺が邪魔だっただけ。俺は母親と恋人が住む家にいるのが嫌だっただけ。利害が一致したんだよ。家賃は母親持ちだからな、ありがたいくらいだ」
 離れて暮らしたほうがお互い気を使わなくて済む。一緒に居るのが家族だと言い張る気はなく、むしろ離れていても親子だろうと思っている。それは向こうも同じようだ。
「へぇ〜。人それぞれなんだねぇ」
 西岡の言葉に少し拍子抜けした。
 こんな話をすると気を使う奴がいるのだ。西岡はその典型的なタイプかと思ったのだが。
(暗いんだか、気楽なんだか)
 よく掴めない人間のようだ。
 ジュッと何かが焼ける音としょうゆのこげる匂いに腹が鳴った。
(まともなもん食うのひさしぶりだしな…)
 最近はバイト先であるコンビニの廃棄で生活していた。その身体に調理の匂いはそそられるものがある。
「できたよ〜」
 いい匂いが数種類香り、西岡ののほほんとした声がかけられた。
「そっちに持って行くねぇ〜」
 そう言って盆を持ってきた西岡の顔を見て思わず「…は」と間抜けな声を上げてしまった。
「…お前…なんだそれ」
「え?あ…変かなぁ…?」
 ピンで止めている前髪を指さすと西岡は俯いた。
 前髪の分け目はやや右よりで、ピンできちんと留められていた。
 女のような髪の止め方にも驚いたのだが、それより驚いたのが顔の作りが整っていることだった。
邪魔な髪が避けられた顔は線が細く柔らかい印象を受けた。
「こうしないと包丁持っているとき、視界が遮られて危ないから…」
 居間の机に置かれた盆の上には野菜炒めと白飯二つ、味噌汁二つ、焼き魚、漬け物が乗っていた。ちゃんとした和食だ。
「女みてー」
「ごめん…」
 責められたと感じたのか西岡はピンを外そうとした。
「謝るな、外すな」
「でも…」
「そっちのほうがいい。鬱陶しくない。それよりも早く食いたい」
 まともな食事がいい匂いをさせて目の前にある。一刻も早く口に放り込みたい。
「お箸は割り箸でごめん。それでは、いただきます」
 西岡は行儀良く手を合わせたので、一応それに合わせて手だけは合わせた。
 こんなことをするのはいつぶりだろうか。
 後は本能に従って口と手を動かすのみ。
「数寄屋君…そんなにがっつかなくても…。まだおかわりあるよ?」
 西岡の言葉が耳から入ってすぐに抜ける。
 飯の味は、最高だった。まともな食事というものはこんなに美味かったのか!?と驚かされるほどに。
「お前、どーやって作ってんだ?」
 白飯を二杯おかわりしてからやっと一息つけた。
 これだけ夢中になれる飯っていうのも、なかなか出会えない。
「どうって…普通に…。美味しくなかった?」
 この状況をどうみれば「美味くなかった」という判断をするのか、こいつ思考が分からない。
「普通に作ってこんなに美味いのか?料理人か何かになんのか?」
「まさか!そんなに料理上手じゃないよ」
「そこいらの店よりずっと美味いって。立派に金取れる味だろ」
 人を褒めるなんて滅多にしないのだが、今はするりと言葉が出た。
「大げさだよ…」
 西岡は褒め言葉に照れくさそうに笑った。控えめな笑いだったが、そこに暗い印象は全くない。
(前髪切ればいいだろうに…)
 そうしていればもっと印象が良くなるはずなのに。
「とにかく美味い。くせになりそーだな。お前店かなんかやれよ」
「ええ?そんないきなり…。無理だよ…。食べたいならいつでも食べに来ればいいよ。どうせ毎日僕が作ってるんだし」
「毎日お前ん家に上がり込んでやろうか」
「食費入れてもらわないと困るなぁ…」
 冗談だったのだが、西岡は真面目に答えていた。
「本気かよ」
「あれ?違うの?」
 きょとんとする西岡の顔に吹き出してしまう。冗談が通じないのも、味かもしれない。
「…お前さ…なんで俺を助けた?」
 西岡の作った野菜炒めをつつきながら、ふと沸き上がった疑問を口にした。
「今日。俺はお前に「ウザイ」って言ったよな。少しぶつかっただけで。嫌な気持ちになっただろう?なのに、どうして罵った相手を拾ったりしたんだ?」
 西岡について思い出すことができた。教室で、西岡にぶつかった時はイライラしていた。だから思わず「ウザイ」と口にした。
 反射的な攻撃。そんなものを貰って嬉しいわけがない。
(俺だったら相手を殴ってるか、盛大に罵ってる)
 それに、自分を罵った相手が怪我をしていても助けようなんて気にはならない。瀕死であるならともかく、ただ殴り合いの喧嘩をして疲れて座っているだけなら放置しているだろう。
「…なんでかな」
 西岡は焼き魚を箸で摘みながら少しだけ首を傾げたようだった。
「わかんねぇのかよ」
「…なんとなくなんだよ。なんとなく、ほっとけなかった」
「酷いことを言われたのに?怪我してるってだけでお前は俺に優しくするのかよ」
 最初に声をかけられた時だって、西岡を突っぱねた。
 それでも、西岡は手をさしのべきた。
「…怪我してたし…血は出てたし…雨が降ってきたし…それに…」
 西岡は俯き加減で、視線が合わない。長いまつげで伏せる目は淡い陰を宿したようだった。
「数寄屋君…痛そうだった。怪我もそうだけど…なんか、もっと別なものも…痛そうで、苦しそうで…見ていて辛かったから」
「哀れになった?」
 人から同情をもらう気はない。だから西岡の気持ちは余計なお世話だ。
 自分の中で急速に何かが冷めていくのを感じた。哀れみの目は、一番嫌いだ。
「哀れに思って、俺をここまで連れてきたのか?」
(馬鹿にすんなよ)
 侮蔑の響きを感じ取ったのか西岡は「違う」と頭を振った。
「そんなつもりじゃない…ただ、見てられなかったから…。見てて、痛くて、ほっとけなくて…どうにかしたかった…。苦しむ人を見て、ほっとくのは嫌なんだ…。ほっとかれるのが、どんなに痛いか知ってるから…」
「だから…」と言葉を続けた西岡はぷっつりと黙り込んだ。箸も止まったままだ。
(なんだ…?)
 じっと観察すると、目が潤んでいくのが分かった。
「お前っ…泣くことじゃねぇだろ!?」
「ごめ…だいじょぶ…」
(大丈夫だと言うならその溢れそうな涙はなんなんだ…)
 結局西岡は泣かなかった。こぼれそうな涙はすぐに拭われたが感情が高ぶっているらしく深呼吸をしていた。
 気まずい沈黙の中。できることは三杯目おかわりを言うタイミングを計ることぐらいだった。


next 


TOP