雨色の時間 4


「よく食べるねぇ…」
 四杯目のご飯をよそってきた西岡は落ち着きを取り戻したようだった。
「ごめん…泣いて」
「いや…いいが。別に」
 ただこれくらいで泣く男がいたことに驚いただけで。
「僕は、この通りだから昔からいぢめられっ子なんだー」
「…あっけらかんと言ってるな」
 そんなことは人にさらりと言うようなことでもないだろうに。
「助けてくれる幼なじみがいたから、そう辛くもなかったんだよ。ただ…幼なじみがいないときは結構酷くやられたりもしてたから…。人が怖いと思うときが時々あるんだ…」
「だから、目を合わせないのか?」
「…うーん…」
 肯定か否定かわからない、西岡の伸びた返事。
「そうかもしれない。でも一番怖いのは、いぢめっ子達の視線じゃないんだ。いぢめられる僕を見て、くすくす笑ってる回りの人の目なんだ。傍観者の目が、一番怖い…」
 今もその傍観者に見られているかのように、西岡は目を閉じて顔を少し歪めた。
「自分が辛いとき、その様子を見ている人に無視されるのも、笑われるのも、僕は知ってる。それがどれだけ痛いことか、悲しいことかも分かる」
 だから手をさしのべたと言うのだろうか。
「僕は誰かがそういう状態にいたら、無視したくないんだよ…。これは、自分のために、なんだけど」
 ほぅ…と息を吐いて、西岡は目を開けた。
「あの時、見捨てられた自分のために。これからの自分のためにも。何もできないかもしれないけど、何かしたい」
 それに、人と目を合わせたくないと言っていたはずの俯いた顔が上げられた。
「怪我をした人を見たこっちだって、痛くないはずなのに『痛い』って、感じるんだよ。苦しくないのに、苦しいって感じるんだよ。だから、ほっとけないよ」
 雨の中、泣きそうになりながらほっとけないと言った西岡は、今は微笑んでいた。
 それは弱々しくて、堂々としているとはとても思えないものだった。  だが西岡の目を正面から見ても、今度は視線を逸らされなかった。
(ああ…こいつは強いのか…)
 人の痛みが分かって、それを己のものと感じるほどに、相手を思いやれる。
 他人に、手を伸ばすことが出来る。
 自分のやりたいことを、曲げずに貫こうとする。
(俺とは違う…)
 やりたいことも分からず、ただ流されては腐っていく。だからと言って自分で何かをやろうとはしなかった。
 ただ世間のせいだと言うように誰かを非難して、それで自分を守っている。
 周りを傷つけてようやく自分の存在を知ることが出来る。
(馬鹿野郎だ…)
「偉そうなこと言ってるね。ごめん…」
 また西岡は謝って俯いた。
「なんで謝るんだよ…。別に偉そうなんかじゃねぇよ」
「でも、僕なんかが数寄屋君を助けようと思うなんて…。僕頭も悪いし、暗いし、運動神経切れてるし。全然駄目人間だから」
「は?何が駄目人間なんだよ」
 自分より強いと思った相手に、駄目だと言われて思わず言い返してしまう。
 すると反論されたことに驚いたのか、西岡はとても困ったような顔をして見せた。
「え…だって…不器用だし…。要領悪いし…。人付き合いも下手だし…。犬には噛まれるし…」
「犬に噛まれるのは関係ねーだろ…」
「猫には馬鹿にしたような目で見られるし…」
(それも関係ねーだろ…。こいつ天然かよ…)
 呆れることに西岡は冗談で言っているように見えない。
「…少なくとも、お前は俺よりかはいいやつだよ。間違いなく」
 らしくない言葉を言っている。そう自覚しながらも口にすると西岡は目を丸くして固まった。
「…なんだよその反応」
 どうせ不良紛いの人間にそんなことを言われると思っていなかった、と驚いているのだろう。
「え、いや、なんか、そんなこと言われたの初めてで…。何て言っていいのか、わかんなくて」
 西岡はぎこちない動きで手を振る。
「別に、何て言ってもいいだろ」
「そうなんだけど…。あはは…」
 まだぎこちない手で西岡は箸を使った。少し間が空くとぎこちなかった顔にゆっくり笑みが浮かんだ。
 嬉しい。そう口にしなくても分かる緩やかな笑顔。
(…なんでこいつ女じゃないんだろう)
 ピンで前髪を留めた小柄な西岡は可愛く見えた。
 小動物に抱く感情に似たものがわき上がる。
(女だったらなぁ…)
 そうすれば簡単なのに。
「何が」
「え…?」
 思わず口走った自問に西岡は手を止めてこっちを見た。
「…いや、何でもない」
(女だったらどーしたってんだよ)
 残り少ない野菜炒めに手を付けながら心の中では激しい自問が繰り返される。
(おかしいだろ。何やってんだ)
 動揺を極力出さないよう自制しながら、西岡をちらっと見やる。
(女のような顔だけど女じゃない。こいつは男だ)
 男、男と何度か心の中で繰り返した。



「雨、上がったね」
 皿洗いを終えてエプロンをかけたまま西岡が窓の外を眺めていた。
 そのエプロンは使い込まれている上に、妙に似合っている。
「そうだな…」
「身体、少しは楽になった?」
「あー、大分。飯食ったしな」
 怪我はやはりじくじくと痛むが、怠さのほうはましになっていた。
 まともな食事を食べて、栄養が行き渡ったからかもしれない。
「もう帰る。いつまでもここに厄介になるわけもいかねぇしな」
「え?僕はいいよ?」
「良くねぇよ。世話になりっぱなしじゃ、居心地が悪い」
「そんな…本当に身体大丈夫?」
 ピンで前髪を留めたままの西岡の顔が心配そうにこちらを見てくる。
「あー、喧嘩なら慣れてるしな。どうせすぐに良くなる」
「慣れてるって…」
 西岡にとっては想像できないことかもしれない。喧嘩に慣れた生活は。
「…んじゃ、世話になった」
 玄関で靴を履いていると、西岡も玄関まで付いてくる。
「気をつけてね」
 まるで亭主を送り出す妻のような台詞を言われて笑いがこみ上げた。
「…今まで、酷いこと言って悪かった」
「え…?」
 今日、ぶつかっただけの西岡に酷い言葉を投げた。だがきっと自分がやったことはそれだけではないだろう。
 毎日、誰かれ構わずに今日みたいな言葉を吐いていた。
 西岡にも、何度か吐いているかもしれない。それだけでなく、態度でも、辛く当たっている可能性があった。
 西岡は、しばらくきょとんとしてから手を振った。
「いいんだよ。気にしないでよ」
 なんでそんなに軽く許せるんだ?
 そう聞いてみたかった。だが聞いた所で西岡は恐縮してしまうだけなのだろう。
(なんだかなぁ…)
 人にはあれだけ謝るくせに、自分のことになるとすぐに許して恐縮してしまう。
 少し苛立つが、羨ましくもあった。
「…また明日な」
 靴を履いて、わりとすぐ近くにあった西岡の額に口づける。
「ほへ…?」
 前髪に隠されていない額に、何が触れたのかわからなかったのかもしれない。西岡は額に手を当て上ょ見た。
「んじゃ、悪かった」
 そのままさっさと玄関を出る。
(…やっちまったなぁ)
 付き合った女と部屋で別れる時の動作を思わず西岡にもやってしまった。
 相手は同級生の男だと分かっていたはずなのに。
 心の中で自分に言い聞かせたのに、自然とあんなことをしていた。
(何やってんだか…)
 らしくないことをやっている。
 それでも嫌な気はしなかった。
 雨と同じように、心にあった何か鬱屈としたものも
 降り続けるのを止めたようだった。
      

 


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