雨色の時間 2


 マンションの五階にある部屋に通された。
 部屋の中はきちんと整理されていて、生活感があった。
「すぐにタオル持ってくるから」
 少年はスーパーの袋を居間の机に置いて部屋の奥に入って行った。
 立っているのもだるかったので、居間の絨毯に座り込む。
(俺の家と明らかに違う)
 自分の家を思い出して苦笑した。
 一人暮らしで自炊をほとんどせず、掃除は二週間に一回。洗濯も適当にして、その辺に放置している。布団は敷きっぱなし。空き巣が入った後のような有様だ。
「風邪引くといけないから」
 頭からタオルをかぶった少年が白いタオルを差し出してきた。
(こいつの顔…最近見たことある気がする)
 受け取ったタオルで頭を拭きながら思い出そうとするが出てこない。
「左手貸して」
 名前を思い出せない人物はいつの間にか救急箱を用意していた。
「別にいい」
「良くないよ…」
 控えめに左手を取られて、鈍い痛みが走った。抵抗するのも面倒に感じて好きなようにさせる。
「しみるかもしれない」
 一言付け加えてから消毒液を腕の傷にかけられた。
「っ…」
 予想以上の痛みに声がもれると、すぐにそいつはびくっと肩を震わせる。
「ご、ごめんっ」
「…なんでお前が謝るんだよ…」
「…ごめん…」
 しゅんとした様子に苛立つ。
(なんだこいつ…おどおどしやがって…)
 はっきりしない人間が嫌いなのだ。思わず怒鳴りたくなってしまう。
(そーいや…こいつ…クラスに居た奴じゃねぇか?)
 クラスの中にこんな奴がいたような気がした。
 暗くて、はっきりしなくて、怯えている様子の…。
(確か、毒舌深川にいつもくっついてる…)
 頭が良く、毒を吐くくせにあまり憎めない深川の顔は思い出せる。なのにこいつの顔はあまりにも見覚えが薄く、名前に至っては予想もつかない。
 影の薄すぎるクラスメイトは傷薬をゆっくり丁寧に塗ってくれている。
(…名前わかんねぇって…ひでーかなぁ…)
 いらないと言ったが、親切にしてもらっているのは事実だった。名前くらい思い出さないといけない、そう思って記憶を探る。
 出てこない…出てこないとぐるぐる記憶を回している間にも傷の手当は進む。今度は包帯を巻いてくれているのだが。
「…お前…下手すぎ…」
「え…ごめん…ごめんなさい…」
 包帯はふにゃふにゃに巻かれてほどけそうだった。呆れて声をかけるとクラスメイトはまたびくんっと肩を震わせた。
「…そんなに謝ることでもないだろ。びくびくすんなよ」
 まるで悪役にされた気分だった。クラスメイトはまた小さく「ごめん…」と言った。
(なんなんだよ…。そんなに怖いなら家に上げなきゃいいだろ…)
「いい。自分でやる」
「でも…片手じゃ…」
「だからお前この端持て。俺が巻く」
「あ、うん」
 包帯は巻き慣れていた。喧嘩して流血沙汰はざらだったからだ。
「なぁ…」
「なに…?」
 そいつは話しかけると、小さな声で返事をした。怖がっているかのように思えて、また少し気分が傾いてしまう。
「名前何だっけ?」
 結局思い出せなかった。そして思い出せない気持ち悪さに負けて聞いてしまう。
「西岡だよ。西岡要」
 名前を覚えられていないということにむっとした様子もなく西岡は教えてくれる。
「覚えとく」
 包帯を巻き終わると西岡に拳を取られた。人を殴りすぎて皮膚が裂けた拳に消毒液がかけられる。
(こいつは…人殴り過ぎて怪我してるなんてわかんねぇだろーな)
 俯いて、人の拳に傷薬を塗っている西岡の顔は前髪で見えなかった。影の薄い、大人しそうな西岡と自分は違う世界の人間に思えた。
(…前髪が邪魔だ…)
 俯いていると顔に影がかかって余計に暗く見えた。これでよく物が見えるな、と感心してしまう。
 前髪が気になって思わず手を出して西岡の前髪を掻き上げた。
「…え…?」
 前髪を掻き上げられた西岡はきょとんとして、顔を上げた。
(まつげ長い…)
 前髪に隠されていた目は意外にも大きめで、長いまつげに縁取られていた。なんで隠すんだ?思わずそう考えてしまうくらい見事なものだった。
「…前髪邪魔じゃねーの?」
「あ…うん。邪魔だけど…」
 目が合うとすぐに西岡は俯いてしまった。
「なんで前髪長いんだよ」
「人と…目、合わせるの苦手で…」
 西岡はもごもごと口の中で言い訳のようなことを言う。
(もっとはっきりしゃべれって。マジで)
 苛立ちが募りそうで前髪を離し、西岡から視線を外す。
「…なぁ…あれ冷蔵庫に入れなくていいのか?」
 居間の机の上には薄いスーパーのビニール袋があった。中にある牛乳やら卵のパックなどが透けて見えた。
「あ…あわわ…魚が…」
 西岡は微妙に慌てた様子を見せるが拳に傷薬を塗るのを止めなかった。
「…後は自分でやる。お前はあれ片づけろよ」
「あ、うん。それじゃ、よろしく」
(よろしくって、俺の身体なんだけどな)
 ばたばたと慌てて食材を居間続きの台所に持っていく西岡の姿は主婦そのものだった。
 拳に適当に薬を塗って、救急箱に直す。怪我の治療なんてひさしぶりにやった気がする。いつもはそのままにしていたから。
「数寄屋君…もし、良かったらでいいんだけど…」
「なんだ?」
 片手に牛乳パックを持った西岡は言い辛そうに言葉を区切った。
「…ご飯…食べて行く?良かったら、もし良かったらの話だけど」
「飯?」
「動くのも辛そうだし…僕ご飯作ろうと思ってるし。一人分作るのも二人分作るのもあんまり変わりないから…」
(なんでいちいち言い訳じみてんだ?こいつ…)
 もっとはっきりしゃべれよ。そう言いたいが口から出たのは違う言葉。
「美味い?」
 そう尋ねると前髪で隠れた西岡の目がほころんだ気がした。
「ちょっと自慢」
  


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