雨色の時間 1


「…あ…、ごめん」
 教室のドアをすれ違いざま、誰かとぶつかった。
「ちっ…うぜえ」
 相手は鬱陶しそうに呟いて教室から出ていった。
 少し顔を上げて出ていった人の背中を見る。
 高い背、少し脱色しているであろう髪。友達らしき男に声をかけられて「うっせぇよ」と答える声。
「…数寄屋(すきや)君だったのか…」
 ぶつかったのが威圧感のあるクラスメイトだと分かり、さらに気分が落ち込む。
 いじめられっ子の習性。
(高校生にもなって何やってるんだか…)
 のろのろと教室の中に入る。
 俯いた顔は上げない。
 人と目が合うのが怖いから、人の視線が怖いから。
 前髪は長く、目が隠れるようになっている。
 見た目からしてすでに暗いだろう。
 だからか、子供の頃からいじめの的になっていた。それが益々対人関係を作ることを消極的にしていった。
「要」
 落ち着いた声音に名前を呼ばれて顔を上げる。
「深川…」
「さっき数寄屋にぶつかってたみたいだけど」
 大丈夫?と目で言ってくれる。中性的とも言える顔立ちが少し苦笑している。
 優しい幼なじみの一人。いじめられっ子だった僕を守ってくれた。深川は昔から大人びていて、僕をいじめた人に冷たく報復をしてくれていた。もう一人の幼なじみは熱血野郎でも喧嘩ばかりしていたけど、すごく僕に優しかった。彼は今は別の高校に通っている。
「平気だよ、向こうがどう感じたかは…ちょっと不安だけど」
「数寄屋は細かいことなんて忘れてしまう質だから大丈夫だろ」
「そうだといいけど…」
「何でもかんでも不安になっていたら要の身が持たないだろう。他に考えることは無いの?」
 そう言って深川は僕の目の前で返ってきたばかりの数学テストをひらひらと揺らした。
 デカデカと書かれている二十三点。
「…なんでこんなに馬鹿なんだろう…」
「要領が悪いんだ。要は。何に関しても」
 頭のいい深川は満点に近い自分のテストを折り畳んでいる。
「頭は悪い、運動神経は切れてる、人間関係には鈍い、不器用、要領悪い、上がり症で心配性。言い出したらキリが無いね。良いところは優しい所と家事をそつなくこなすこと?」
「そんなにずばずば言うなよ…」
 しかも全て事実だから、余計に凹む。
「でもまぁ…それがいいんだけど」
 深川は苦笑か、笑みか分からない顔をした。
「いいわけないだろ…」
 こんな駄目人間…。
「それがいいんだよ。要にはわからないかもしれないけどね」
 意味深な事を言われたので「なんで?」と聞いても深川は答えてくれなかった。
「さぁね」とはぐらかした深川に数学のテストを顔に押しつけられた。
「あわわ…」
「とりあえずこれをなんとかしろよ。補習の仲間に入れられるぞ」
 はぁ…とまた溜息が出た。
 なんでこんなに上手くいかないことばっかりなんだろう。



 酷くどんよりした雲が空を覆っていた。もう泣き始めるだろう。
 人を殴った拳が痛い。殴られた腹が痛い。口も切れて痛い。腕にもぴりぴりとした痛みがあった。
 身体中ぼろぼろだ。
 馬鹿みたいに、ふっかけられた喧嘩を買った。
 イライラしていたから丁度良かった。
 人を殴ってもすっきりしないことは知っていた。だが殴っている間は嫌なことも考えない。空しいことだ。馬鹿げている。
 二人ほど道ばたに伸ばして放置してきた。
 歩くたびに身体は悲鳴を上げるし足は重い。
 相手が持っていた刃物で切られた腕からは血が流れている気がする。確認するのも面倒で見ていない。
(ウザイ…何もかも…)
 何もかもが鬱陶しく思えて仕方なかった。大して努力しなくても勉強も運動も出来る。顔の出来も悪くはないらしい。人からそう言われている。
 大抵のことは何でもそつなくこなした。人は自然と擦り寄ってきた。全てが単純で馬鹿げて思えるほどに。
 必死になって何かをしたことも無い。生きているなんて感じたこともない。
 このまま生きながらにして腐っていく気がした。
 生きながらにして死んでいく気がした。
 腐るなんてまっぴらで、なんとかして生きていると証明したかった。感じたかった。
 でも足掻いても足掻いても、わかることは空しさと虚脱だけ。
「っ…」
 歩くのも面倒になって知らないマンションの塀に寄りかかった。ずるずるとその場に座り込む。
 ぽつんと頬に雫が触れた。空は泣き始めた。何を嘆いているのかは知らない。むしろ嘆きたいのは俺のほうかも知れない。
 しばらくそのまま座り込んでぼーっとしていると、誰かが近寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 おどおどした少年くらいの年の声。
(鬱陶しい…)
 放って置けばすぐにこんな得体の知れない男から去るだろうと無視した。
「…もしかして…数寄屋君…?」
 名前を呼ばれて顔を上げると前髪で目の辺りが隠れた顔が見えた。
 どことなく見覚えがある。だが名前は思い出せない。
「大丈夫?怪我してるけど…」
 心配しているのか、怯えているのか判断しずらい声。スーパーの袋を一つぶら下げている小柄の少年。
「ほっとけ…」
「でも…」
「お前には関係無い…どっか行け」
 前髪の長い少年はとりつく島のない返事に戸惑っていた。
 そして放置することにしたのだろう、マンションの中に入っていった。
(ここの住人か…)
 そうでなければこんなやつに声はかけなかっただろう。
 ぽつりぽつりだった雨は勢いを増した。髪が、服が濡れる。
(くたばったら笑い者だな…)
 雨に濡れて痛む傷に苦笑すると、ばたばたと足音がした。
「濡れるよ!こんな所にいたら駄目だって!」
 さっき聞いた声と同じものがまた降ってくる。
「辛いのも分かるけど!ここにいたらもっと身体が辛くなるよ、歩くのも面倒なら僕の家がすぐそこだから、そこで休めばいいよ」
 少年に傷の無い方の腕を捕まれる。
「ほっとけって言っただろう!?うぜぇよ!」
 その手をふりほどくと少年は目の前で立ちつくした。
 二人とも、激しくなる雨に晒される。
「…なんなんだよ…お前…」
 雨で濡れる前髪の隙間から泣きそうな表情が見えた。
「ほっとけないよ。放って置いちゃ、駄目だから」
「意味わかんねぇよ…」
 何が駄目だって言うのか。
 どんなことを思って、こいつはそんなことを言っているっていうのか。
 もう考えるのも面倒になったので、立ち上がった。
 身体が怠い。
 だがここで、二人立ち尽くすよりかはマシな気がした。
「お前ん家、どこだよ」
  
  

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