ゆらめくひかり 1 「メンマがない!」 冷蔵庫を開けて要は慌てた声を上げた。 「醤油ラーメンなのにメンマがないなんて……」 鍋にたっぷりのお湯を入れて、麺を湯がこうとしている要が立ち尽くしている様に、相当なショックであることは察しがついた。たかがメンマと俺なら思うが、料理上手な要にとっては許しがたいことなのかも知れない。 「買いに行ってくる。他に何か欲しいもんはあるか?」 「え、いいよ。僕が」 「おまえは作ってろ。俺だってお使いくらいは出来る」 人の家に押しかけておいて、料理もせずにただ出来上がるのを待っているような有様だったのだ。役立たずどころか邪魔者のような立場なのだから、近所のスーパーに使いっ走りくらいしなければ。飯を食うだけの厄介者だ。 (というよりお使いくらいしか出来てないってのが、ヤバイんだが) 調理の才能が欠片もないせいで、キッチンに立っている要の手伝いをすると逆に手間を増やすことになっている。そんな状態の自分が相当に最悪だとは思う。 「ごめんね」 「で、メンマだけでいいのか?」 「えっと、じゃあ牛乳も」 「了解」 「数寄屋が帰ってくる頃にはチャーハンが出来上がってると思うから!」 その一言に俺の足取りが倍速になった。 近所のスーパーに辿り着いたのは良いが、店内のどこにメンマが置かれているのか。俺は分からず彷徨う時間も惜しいのですぐに店員を捕まえて場所を訪ねた。 メンマを買い求めたのは人生で初めてだ。大体メンマなんてラーメン屋でしか食べてこなかった。 さすがに牛乳の場所は見当が付く。言われたものを真面目に買い込んでマンションにいそいそと戻っていると、エレベータに乗る直前で「ちょっといい?」と中年女性に呼び止められた。 良く言えばふくよかな体格の女性は俺を胡散臭そうに見てくる。神経を逆撫でする視線に自然と目つきが鋭くなるのが自分でも分かる。 「なんスか」 「要ちゃんのところに来てる人でしょう」 「……はい」 要の名前を出されると、睨み付けているわけにはいかない。見た目のせいか、初対面の人間、特に目の前にいるような年上の中年女性には嫌がられる。 何か嫌みでも言われるのだろうとは雰囲気からして分かるけれど、要が関わっているとなると大人しくなるしかなかった。 ましてここは要が住んでいるマンションだ、迷惑をかけるわけにはいかない。 「あの子はどういう関係?」 まるで旦那の浮気を疑うような台詞だった。呆気にとられるけれど、ここで余計なことなど言わない方が良いだろう。 「同級生です」 「同級生!?見えないけど」 「はあ」 (それはあいつが中学生みたいな見た目だからじゃないか?) 俺が年上に見えやすいというのは百も承知だが、要が中学生みたいに見えるというのも事実だろう。相乗効果で年が離れているように勘違いされているらしい。 「本当?いつも何しに来てるの?要ちゃんに悪いことを教えたり、脅したりしてないでしょうね?」 「してませんけど」 「あの子は優しい子だから、嫌なことも嫌だって断れないタイプなの。だけどあたしたちが目を光らせてるからね。変なことしたら、あの子は言わなくてもちゃーんと気付くんだから」 「はあ」 お節介おばちゃんというフレーズが頭を過った。 どこにでもこういうタイプはいるのだろう。 (要は近所のおばちゃんに世話になってるって言ってたからな) 随分可愛がられているのだろう。小学生の頃からあれこれ家事を教えて貰っていたというけれど、孫のような扱いをされていたのではないだろうか。 (そして俺は悪い虫か) あながち間違っていない。 「要ちゃんのお父さんは、貴方のことを知ってるの?」 「要のお父さんには何度も会ってます。仲良くさせて貰ってます」 これまで要の父親と飯を食ったことが何度かある。このおばちゃんのように突っかかってきたり、警戒心を剥き出しにはしなかったけれど。要との関係を心配されたかも知れない。 (そりゃあそうか) どう見ても不良が突然大人しい息子の友達になったといわれても、なかなか納得しづらいものがあるだろう。だが何度か通っている間に理解して貰えた、と思いたい。 「あの子の家に来て、何をしてるの?」 「飯を食わせて貰ってます」 「ああ、ご飯をたかってるの」 たかっているという表現は酷いものだが、反論が出来ない。事実であると俺自身が思ってしまったからだろう。 それにしても尋問めいてきた。 「飯を食わせて貰う代わりに、俺はあいつの勉強を見てます」 「貴方が?へえ」 とてもそうは見えない、という顔をされる。頭が悪そうだと言いたいのだろう。 髪を染めて怠そうな格好をしているからといっても、頭の中身が空っぽだと思われるのは心外ではある。 「深川君なら分かるけど」 「深川ともクラスメイトです」 「あらそう」 深川君と、と知っている名前が出てきたことに女性は多少警戒を薄める。同時に深川に対しては信頼がちらついて、俺との違いに多少気分を害した。 (外面の問題か?) 深川は大人に対しては従順に振る舞って、優等生ぶる節がある。この女性に対してもそんな風に猫を被っているのだろう。 「あの、もういいですか?あいつにお使いを頼まれてて」 「あら、ごめんなさいね引き留めて」 全く悪いと思っていない顔で謝られる。 エレベータに乗るのをおばちゃんは止めなかった。そして入っても来ないということはエレベータに用はなかったのだろう。それでもわざわざここまで来た。 (ご近所はよく見てるってことか) 俺に注意をするために、距離を詰めてきた。監視されているみたいだが、要を守ろうとしているならば邪険にも出来ない。 溜息をつくとエレベータは目的地に着いた。 「おかえり」 インターフォンを鳴らすと要が玄関を開けてくれる。長い前髪をピンで留めており、いつもは隠れている顔が晒されている。大きな瞳が俺を映しては、細められた。 (おばちゃん連中に可愛がられるのも無理ないか) 「お使いありがとう。醤油ラーメンにはやっぱりメンマだよね」 上機嫌で要が荷物を受け取る。キッチンからは香ばしい匂いが漂ってくる。チャーハンはもう出来上がっているのだろう。ぐうと胃袋が飢えを訴えてきた。 しかし食欲を口にするより先に、俺は先ほどの出来事を思い出していた。 「エレベータホールでご近所さんに捕まった。五十歳くらいの、髪の毛がくるくるしてる、ふくよかなおばちゃんだ」 「大橋さんかな」 それだけの情報でぴんとくる人物がいるらしい。 「おまえとの関係を疑われた」 「えっ!?」 「おまえを恐喝して、飯を無理矢理作らせてるんじゃないかって」 「そんなことあるわけないのに」 要は冗談を言われたかのように笑っている。こいつは望まれればいつだって飯を作ると言っている。恐喝なんて必要ないのに、ということだろう。 「不良が優等生にたかってるみたいに思えたんだろ」 「僕のどこが優等生!?数寄屋の方が優等生だよ!」 「成績表だとそうだけど、見た目の問題だろ。おばちゃんが見たら俺なんてガラの悪い不良だ」 要はこれでも勉強に関しては壊滅的な数字だが、見たところ大人しくて頭がよさそうには見える。それに比べて俺の見た目は学校にもろくに通っていないんじゃないかと思われそうな外見だ。 「数寄屋は、ちょっと派手なだけだよ」 (そういうおまえも、最初は俺にビビっていたけどな) 出逢ったばかりの頃はろくに目も合わせられなかったというのに、今ではすっかり慣れたものだ。 「おまえ、近所のおばちゃんに可愛がられてるんだな」 「ちっちゃい頃に母さんを亡くしてるから、心配してくれてるんだよ。ご飯のお世話になっていたし、料理を教わったのも大橋さんや、近所のおばちゃん、おばあちゃんたちだから」 「俺は悪い虫みたいに思われてんだろうな」 付き合っているとなるとましてだが、さすがにそこまでは勘付かれていないだろう。 「悪い虫?」 「飯もおまえも食い散らかしている、最悪な虫」 「僕はそんなこと思わないけど」 要が作るご飯だけでなく、要自身も取って食べているようなものだ。 だが食べられている本人はきょとんとしている。被害を受けているなんて感覚はないのだろう。 「ご飯食べよう。麺も今から湯がくから」 要は楽しそうに冷蔵庫から生麺を取り出しては沸騰している鍋の中に投入していく。菜箸でくるりと掻き混ぜてはキッチンタイマーをセットした。 流れるような作業を背後で眺めながら、俺は買ってきた牛乳を冷蔵庫に片付けた。 俺が出来るのはこれくらいだ。 (こいつには大して何もしてやれていない。勉強を教えているなんて言ったけど、せいぜいテスト前の付け焼き刃程度だ) せめて赤点は取らないように、補修を受けるような真似にはならないように、ギリギリのフォローをする程度しか助けになっていない。 普段から要に飯を食わせて貰っているのに、俺が出来るのはあまりにも微力じゃないだろうか。友達としても、彼氏としても、要に世話になってばかりだ。 (彼氏として最低じゃないか?) 自分の日頃を振り返っては改めて自分に酷さに気付かされた。 next |