四角い夏空 数寄屋 1 勉強。そんな理由を付けて誰かを泊まらせることになるなんて、去年までは想像もしていなかった。 泊まっていけば。そう声をかけるだけで良かったからだ。 だが、目の前で唸っている相手には、気軽にそう言えない自分がいた。 情けないことだ。しかもバイトと家、そしてこいつの家に行くだけの生活が続いている。 (大人し過ぎるだろ) 去年までの夏休みといえば、彼女を作って、遊んで、そして夏休み終了とともに別れる。というサイクルをこなしていたのに。 (何が悲しくて、こんなくそ真面目に課題やってんだか) 夏休みも始まって十数日しか経っていないというのに、課題の半分が済んでしまっている。 付き合いでなんとなくだらだらやっていたら、それだけ進んでいたのだ。 (だってのに…こいつは…) さっきから数学の一問をやるのに十四分が経過している。 その前も十分くらいかかっていた。 呆れも通り越して、時間を計ってしまうほどだ。 (期末テストん時にあんだけ教えたのに…その頭に入ってんのは料理のことだけか?) 家事は完璧だというのに、学生としては欠点の要は、長い前髪をピンで止め真剣な目で問題集を見ている。 人と目を合わせるのが苦手なため、普段は前髪で目を隠すようにしているが、料理をする時と、二人でいる時はピンで止めさせていた。 長いまつげに縁取られた、大きめの目を俺は気に入っているからだ。 自分にはない優しさが、そこにあるからかも知れない。 (それにしても…) いい加減正解しないものだろうか。 課題ばかりやっていて飽きた俺はアイスを囓りながら休憩している。 要が欲しそうな顔をしていたが、先に進めないヤツがアイスなんか食っている場合じゃない、ということでおあずけだ。 まして足し算を間違うようなヤツは、休む間もなく勉強したほうがいい。 (小学生かおまえは) 九九から教えてやろうか、嫌がらせで。 そんなことを考えているとようやく足し算をやり直して答えが出たらしい。 「x=3」 「正解。ようやくか。やり始めてから十五分は経ってるな」 その問題の答えが何なのか、もうとっくに頭に入っていたので確認するまでもなく答えた。 立ち上がってアイスの棒を捨てる。代わりに冷蔵庫からもう一本取り出した。 アイスはバニラが一番好きで、いつも箱買いしている。 物欲しそうにしていた要に差し出すと、少し驚いたようだった。 「あ、ありがと」 俺がわざわざ動いて渡したというのが珍しかったのかも知れない。 いつもなら口で言うだけだから。 要は袋を破って、それを一口くわえた。おずおずと小さく口に入れるのは、小心者な性格のせいか、遠慮をしているのか。 ぺろぺろ舌で舐め始めると、ふわりと微笑んだ。 嬉しそうな表情に、身体の奥で何かがざわついた。要の側にいると、よく起こる感覚だ。 「アイス好きなのか?」 「え?」 どうしてそんなことを聞くんだろう、という意外そうな顔をされた。 嬉しそうに笑ったから尋ねたんだが。本人に自覚はないんだろうか。 まじまじと眺めると、要は目を伏せた。真っ直ぐ見つめると、よくこうして目を逸らす。 やましいことがあるわけじゃなくて、本能的なものだろう。 人と接することに慣れていない要の反射的な行動だと、俺はもう知っていた。 顎を掴んで目を合わせれば、恐怖も嫌悪も滲んでいないからだ。あるのは、恥ずかしさのようなものだけだ。 それをすでに学習している俺は、逸らされた目の代わりに要のさらさらした黒髪を眺めていた。撫でると、その質の良さが分かる。 何度も脱色を繰り返してぱさぱさになった女の髪なんか比べものにならないほど、艶やかだ。 「好きだけど……特別好きってわけじゃ…」 「それにしては、うまそうに食ってるけどな」 数学から少しだけ逃げられてほっとしている。といったところだろうが。 勉強に戻りたくない気持ちの表れだろうか、要の食べ方はいつもに増してゆっくりだった。 他の食べ物ならまだしも、アイスはさっさと食べなければどろどろに溶けて流れる。 零すんじゃねぇのか。と見ていると、案の定棒を持っている指に溶けたアイスが落ちていく。 節のある男の指、だが自分のものと比べると少しだけ細く見えた。 その指が汚れていくのを眺めていると、自然と手が伸びた。 手首を掴むと、要の指を舐めた。アイスの甘さが広がる。 「あ」 びくんと肩を揺らして要が目を見開いた。そしてすぐにまた逸らす。 だが赤くなる耳も、潤む瞳も、隠しようがなかった。 天然な上に、かなりの鈍さを誇る要でも、ここまでされるとさすがにセックス中のことを連想するだろう。 個人的にはすでにフェラをしている気分なのだが。 (んなもん、普通女がやるんじゃねぇか?) まぁ、この場合どちらも男なので、効果は絶大だろうが。 要にこれをやられたら、問答無用で押し倒す自分がありありと想像出来る。 「…食わないのか?」 要は動揺しているようで、硬直していた。 「え…」 「食い終わるまでは、待ってやってもいい。でも食わないなら、抱くぞ」 恥ずかしさに小さくなっているだろう要は、見ているだけでも手を伸ばしたくなる。 食って下さい。と言わんばかりの表情を浮かべているからだ。 「は!?な…なんで急に」 驚いて、要は顔を上げる。 分からないんだろうか、自分が見せている顔を。 (こいつは、分からないだろうな) だからこそ、余計そそられる。 とろりと溶けているアイスにかじりついた。要が食わないなら、さっさと俺が片付けてしまえばいい。待っているのは性に合わない。 「期末はテストまで時間がなかったから我慢してたけど、夏休みはまだまだ残ってるからな。我慢してやらねぇよ」 「我慢…なんかしてたの?」 ずっと我慢してたっての!そう言いたかったが、声を張れば要は怯えるだろう。 (突然キスしたり、撫でたりしてたのを、こいつはどう理解してたんだ?) 手を出せば勉強どころじゃなくなり、要は赤点を取る。そうすれば夏休みは補習で逢う時間が少なくなる。飯を食う機会も減る。 それは困る。だから必死の思いで我慢していたのだ。 目の前に無防備な要がいるというのに、キスするだけで自制をし続け、生殺しのような生活だった。 ぶっちゃけ、手を出さなかった自分を意外と理性がある人間なんだと見直したくらいだ。 それを、要は全く分かってなかったわけだ。 (まぁ、こいつはそんなもんだろうが) だがあれだけの我慢を強いられたのに、きょとんとしている要が多少恨めしい。 立ち上がり、問題集やらが乗っているテーブルを横にどかした。 要を引きずって布団に押し倒すのに邪魔だ。 「…えっと…また、ああいうことやるの…?」 「嫌ならやめるが」 と言いながら、要の口からそんな言葉が出てくるなんて思ってはいない。 これが初めてじゃないからだ。 (確か、四度目か) その前にあった三度も。流すような形にはなっているが、無理強いをした覚えはない。 はっきりとした拒絶も、嫌悪も、要は示さなかった。 混乱や、戸惑いは強く見せるが。 だが、さすがに四度目ともなると、嫌気が差してくるか。 (今更正気に戻って、こんなこと止めようって言い出すのか?) 有り得ない話じゃない。これだけ鈍いヤツだ。今まで雰囲気や俺の勢いに飲まれるようにしてセックスをしたが、冷静になると嫌になったってこともありそうだ。 (…だけど、本当に今更だろ) 俺はもうとっくに覚悟したんだ。 男でも、こいつが欲しいって。要を抱きたいと。他の誰でもなく、要を。 どうしてこいつがいいのか、よく分からない。頭は悪い、運動神経は切れてる、家事は抜群だが他のことは何やらせてもとろい。 こいつの何が。 (……優しいからか。優しい強さがあるからか) 自分にはない、深すぎるほどの、馬鹿じゃないかと思えるほどの優しさが。 俺には強さに感じられた。 それはきっと、一番惹かれる理由だろう。 要は困った顔をして、視線を彷徨わせている。迷っているんだろうか。 不安がじりっと込み上げて、俺は手を掴んだ。 「あっ」 「人の話聞いてるか?」 「聞いてるよ。聞いてるけど…」 戸惑う要の手を引いて、布団に持っていく。抵抗はない。 「要」 要は他人の目を気にする。俺と仲良さげにすると不思議そうな顔をするクラスメイトの視線を嫌がるので学校では呼ばない。すると自然に呼ぶ状況というのは限られていた。 二人だけの時、まれに口にする名前は、要は俺を見上げてきた。 怯えも、拒絶もそこにはなくて、ふいに唇を落とした。 びくっと震えた肩に怖いのだろうか、と思ったがキスは止めなかった。舌を入れると、冷えた口内を探った。舌に軽く歯を立てると、答えるように少しだけ要の舌が動いた。 それだけで、頭の芯が熱くなった。 「逃げるのも、止めるのも、聞けねぇからな。もう」 額にキスをして、囁いた声は我ながら余裕がなかった。 この関係に疑問を持っていても、嫌になったとしても、手を離すことなんて出来ない。 電気を消し、部屋の中は一気に暗くなった。だが慣れた感覚で布団に膝を付き、要の手を手探りで探す。 そして掴んだ細い手首をくいっと手前に引いた。 バランスを崩した要の背中に手を回し、ゆっくり倒す。 仰向けにすると、瞬きをしながら何を見つけたらしい。 「あ…」と一声もらして、窓の向こう側を見ていた。 目が暗がりに慣れてくると、月の光が要を照らしているのが分かった。 明るい中で抱かれるなんて冗談じゃないとばかりに、電気がついていると首を振って泣きそうな顔をするが、月明かりくらいなら許せるらしい。 こちらとしても色々と見られて好都合だ。 うっすらと開いていた唇を親指でなぞると、要が身体を強張らせる。 処女を相手にしてんのか。と毎度思ってしまう。 要はセックス自体、俺とが初めてらしいから、無理はないのかも知れないが。 (俺も男はこいつが初めてだけどな) ここまでがちがちにならなくてもいいんじゃないか。 これじゃ無理矢理みたいだ。 (趣味じゃねぇっての) 合意の方が気持ちがいい。 さて、どうやってほぐすか。と考えていると要がふと、呟いた。 「…まな板の上の…魚…」 おずおずと口にした言葉に、俺はぷっと吹き出した。 「鯉だろ」 まな板の上の鯉だ。魚には間違いないが。 そう訂正すると、要が顔を染めた。 「え」 「まな板の上にいんのは鯉、だ」 そう教えると、要は驚いたような顔で、瞬きをした。 (ああ…恋か) こい。その響きに別の漢字が思い浮かんだ。きっと要はとっさにそっちの漢字に変換したんだろう。 そう思うとくすぐったい気持ちになった。 「こい、な」 今度は含みを込めた意味で囁き、キスをした。 「ん…」 舌をまた絡ませると、甘えるような声が零れる。 下半身にずしんとくるような声だ。男なのに、どうしてんな声が出せるんだか。 それとも、男の声に反応する俺が変なのか。 「ぁ…」 足を開かせて、服を剥ぎ取る。 下着越しに触れても、ちゃんと熱を持っていると分かるそれに、口元が緩んだ。 サカってんのは俺だけじゃない。 「っん…」 やんわりと手で撫でると、要が息を飲んだ。 どうしていいか分からずに、手が迷ったのだろう。覆い被さって、手を付いている俺の腕に触れてきた。 シーツをぎゅっと掴んで、耐えるかのような仕草ばっかり見せて、促さなければ背中にしがみつくこともしなかったのに。 自分から、触れてきてくれた。たとえそれが腕だけでも、要がとても近くに感じられた。 身体だけでなく、精神的な距離が縮まっている。 そんな気がして囁くようなキスをした。 もっと近くなりたい、深くなりたい。そう願いながら。 next |