四角い夏空 1


 数寄屋が無言で僕のテストを睨んでいる。
 それはもう、不機嫌そうな顔で。
(僕としてはいい点なんだけどなぁ…)
 小さくなりながら、僕はじっと数寄屋の反応を窺った。
 平均点の半分しか点がなかったら、欠点というものになって夏休みに補習を受けなきゃいけない。
 毎年僕は数学、科学の二つは確実に欠点、物理もちょっと危ない感じだった。
 だけど、今年はテスト前に数寄屋が教えてくれたから、なんとか取らずにすんだんだけど。
「数学が後5点で欠点。科学も物理も、英語まで平均点以下。どうなってんだおまえの頭は」
 あれだけ教えたのに、と数寄屋は溜息をついた。
 僕も、そう思う。
(自分のテストだってあるのに、僕に付き合って何時間も教えてくれたんだもん。怒ってるよなぁ…)
 馬鹿。阿呆。と言われるだろうか。
 勉強中に何度も聞いたんだけど。
 事実だから仕方ないんだけど、出来れば聞きたくないなぁ。
 でも、僕が悪いから。数寄屋が言いたくなるのも分かるし。と覚悟していたけど、数寄屋は呆れた目をしたけど怒りはしなかった。
「まぁいい。これで夏休み、おまえの飯が食える」
「毎日?」
「いや、毎日食ってたら、二学期になって地獄をみるからな。せいぜい一週間に二、三回でいい。おまえの都合に合わせる」
 地獄ってなんだろう?
 たまに数寄屋は「おまえの飯に慣れると、後が辛い」と言ってる。
 美味しいから、出来合いの総菜とかじゃ物足りなく感じるみたいだ。
 作り手はとしては、すごく嬉しいんだけど。地獄とまで言われるとは思わなかった。
「お昼は前の晩ご飯の余りとかになるんだけど…」
 父さんと二人暮らしで、夏休みなんか一人でお昼を食べるからいちいち作ったりしない。
 前の日に少し多めに作って、それをお昼御飯にしていた。
「それで十分だろ。つか前の日の晩飯なんか俺は食ってねぇから。余りとか分からねぇよ」
「あ、そっか」
「それはいいとして、知ってると思うが俺は量食うぞ」
「うん。多めに作っておくよ。父さんにも言ってるから。どんどん食べて」
 僕の作る御飯を気に入って、よく食べてくれる人がいる。幼なじみの深川は小学生の頃からうちに御飯を食べに来ていた。
 だから父さんも「友達と御飯食べるなら」って食費に関しては多くくれる。
 でも、数寄屋は一番よく食べるけど。
「怒らないのか?遠慮すんなって言ってるから、がつがつ食ってるが」
「全然。だってそれだけ美味しいってことだから。父さんも喜んでたよ。そんなに食べてくれる人がいるのは、嬉しいことだね。って」
「なんか、おまえの父親ってすげー想像つく」
 数寄屋は苦笑しながら、僕のテストを二つに折った。
 これはもういい。置いとけ。とばかりに。
(僕も、そんなものもう見たくない。帰ったら捨てとこう)
 復習しろ。数寄屋ならそう言いそうなことを考えていた。
「これで、飯にはありつけるわけだ」
「補習あっても、来いって言ってくれるなら行くのに」
「んなことより勉強しろって言いたくなるだろーが」
 もっともなことを言って、数寄屋はテストを返してくれた。
 数寄屋は僕より真面目だ。
「補習のない夏休みなんて、久しぶりだ」
 ぽつりと呟くと、数寄屋が「はぁ?」と呆れ果てたって顔をして僕を見た。
「おまえ…夏休みは俺が補習してやろうか。本当に」
「い、いいですっ」
 ぶるぶると首を振ってお断りした。
 テスト期間中も怒られ続けて落ち込んだのに、夏休みずっとそんな感じだったら、いくら僕でも這い上がってこれなくなりそうだ。
「補習しなくても、課題が出来なくて見ることになりそうだけどな」
「…それは…」
 ものすごく有り得ることだった。
 というか、確実な気がした。
「今年は随分真面目な夏休みになりそうだ」
「去年までは、真面目じゃなかったの?」
「…ま、それなりにな」
 それなり。なんてことは分からなくて首を傾げると、数寄屋がまた苦笑していた。


「よぅ、飯出来てるか?」
 夏休みに入っても、数寄屋には三日か四日ごとに会っていた。
 コンビニのバイトに行く前や、休みの日に数寄屋はふらっと僕の家にやってくる。
 そして二人でお昼御飯を食べる。
 その後、バイトに行くまで時間があったりすると、数寄屋はそのままうちで何時間か過ごしていく。
 夏休みの課題をやったり、僕に教えてくれたり、テレビを見たりしている。
 まるで自分の家みたいにくつろいで、時には昼寝をしている時もあった。
 初めて数寄屋が昼寝していた時は、人の家なのにこんなにリラックス出来るのはすごいなぁって思ったくらいだ。
 僕なんか、ちっちゃい頃から一緒にいた深川と、健太の家くらいじゃないかな。眠れるの。
 人の家って気を使って、ゆっくり出来ない。
 だから寝てる数寄屋をまじまじと見てしまった。
 しばらく眺めてると、まるで大型犬が寝転がってるみたいに見えてきて面白かった。
 数寄屋はシェパードや、ドーベルマンとか、番犬になりそうなちょっと怖い犬に似てると思う。起きている時は威圧感があるけど、寝てるのを見てるとなんだか安心する。
 突然ぱっちり目が開いて、ワンって言われるとびっくりするから、近寄らないところまで一緒だ。
「まだ湯がき終わってないから、ちょっと待って」
「ああ」
 今日のお昼は素麺だ。もう混ぜる具は出来てるんだけど、肝心の素麺がまだちょっと堅い。
 数寄屋はうちに上がると「ちょっと暑いな」って言った。
(暑がりだなぁ)
 うちのクーラーの設定は二十七度だ。でも数寄屋が来ると「二十七度?クーラー付けてる意味あんのかよ」って暑がるから、最近は二十五度まで下げてる。
 ちょっと暑いくらいが健康的なんだけど。
(そういえば、数寄屋の家に行ったら、いつも寒いくらい冷房が効いてる)
 上着がないと寒くて仕方なかった。
「課題進んでるか?」
 部屋に入った数寄屋から声がする。どうやらテーブルの上に置いたままの、英語の課題を見たみたいだ。
 教科書を訳せって課題なんだけど、その量が半端じゃなくて僕は泣きそうだった。
 辞書を何度も引かなきゃ訳せないから、とても時間がかかる。
「まださっぱり…」
 情けないくらい弱い返事をすると「だろうな」って冷静に言われた。
「……深川が来てたのか?」
「え?うん」
 つい三十分前まで、深川と一緒にテーブルの前に座ってた。僕は課題をしてたけど、深川はテレビを見ながらアイスを食べていた。
 もう課題は八割くらい片付いたんだよね、って涼しい顔をして。
(深川は、夏休みに入る前に手を着けてるんだもんなぁ)
 そして後半になったら長期の旅行に行ってる。
 もちろん課題を全て終わらせて。
 手際の良さが毎年羨ましい。
「課題直されてるぞ」
「うそっ」
 ばたばたと隣の部屋に行ってみると、数寄屋がノート片手に立っていた。
 覗き込むと、僕の字の上に細めのかくかくした字で「日本語おかしい」「ここ間違ってる」「この部分はここに持ってこない」などなどが所々に書いてあった。
「いつの間に……」
 僕がお昼の支度を始めて、すぐに深川は帰ったのに。あんな短い時間で書いたのかな。
 それにしても。
「答え教えてくれればいいのに…」
 間違ってるってことは分かっても、どう訳していいのか僕にはさっぱりだ。
「俺が後で教えてやるから、先に飯をやれ。飯を」
 肩を落とす僕に、数寄屋はそう言ってとんと背中を押してくれた。
 確かに、今は課題よりお昼だ。
(自信あったのに…あそこ)
 間違ってるんだ。そう思うと気持ちが落ち込む。
 湯がき終わった素麺を水で洗いながら凹んでいると、部屋から「これはちょっと…どういう訳の仕方だ?」って不思議そうな声がしてきて、肩だけじゃなくて頭までかくんと下がった。
 自信があっても、駄目なものは駄目。ってことみたいだ。
「出来たよ」
 沈んだ声で数寄屋を呼ぶと「おまえな…」と疲れたような数寄屋が戻ってくる。
「一回、死ぬほど勉強しろ」
「えっ、そんなことしたら本当に死んじゃうよ」
「それくらいの勢いでやれ。まだ間に合う。たぶん」
 キッチンのテーブルに向かい合って座る。うちには数寄屋のお箸があるので、それを手渡した。
 夏休みに入るまではなかったんだけど、一週間の内に二日、三日来るなら使い捨てじゃなくてちゃんとしたお箸があってもいいんじゃないかと思って買った。
 濃紺のお箸だ。
 なんとなく深い色が似合いそうだなぁと思って、僕が勝手に買ったんだけど数寄屋は嫌じゃないみたいで、ほっとした。
「もう駄目だよ…。頭はきっと良くならない」
「弱音吐いてねぇでやってみろ」
「そうだけど…」
 考えるだけでも気が重い。
 硝子の深皿に盛った素麺を箸で摘む。料理みたいに、数学も簡単だったらいいんだけど。
「なぁ、これってつゆねぇの?」
「あ、これ塩味なんだ。トマトのしると塩とがつゆの役目してるんだけど、味薄いかな?」
 皮を剥いて軽く潰したトマトと、オクラ、細切りにした長芋を素麺に絡めてた。
 僕はそんなに味気ないとは思わないんだけど、数寄屋はちょっと濃いめの味が好きだから、どうなんだろう。
「いや、うまい」
 ぶっきらぼうだけど、いつもその一言がすごく嬉しい。
 作った甲斐があったなぁって実感する。
「良かった。夏だから素麺がさっぱりしていいと思ったんだけど、ただの素麺だったら飽きると思って」
 毎年同じ味って、楽しくない気がする。
「飽きるほど食わねぇけどな。素麺」
「そうなの?」
「ああ。作るの面倒だし」
 湯がくだけだと思うんだけどなぁ。素麺のつゆは市販のものが一般的だし。
「おまえさ、来週あたり泊まりでうちに来いよ」
「来週?いいけど…」
「バイトが休みの日があるから。そん時に、課題見てやる。泊まりで勉強したら死ぬかもってくらいの勉強時間は味わえるだろ」
「それは…え…」
(遠慮したい…)
 一晩中勉強するなんて、しかも八月三十一日でも、テスト前でもないのに。
 しかも死ぬくらい勉強って。
(頭から湯気出るんじゃないかな…)
「死ぬほどってのは冗談だがな、考えとけよ」
 相当辛そうな表情をしてたのか、数寄屋が小さく笑った。
「泊まりは、いつでも大丈夫。泊まりなら」
 でも勉強はいつでも良くないんだけどな。
 僕は素麺をずるずるすすりながら、課題に多さにうんざりした。
  

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