四角い夏空 2 肌寒さを感じながら、僕はカーテンの隙間から見える夜空を見た。 真ん丸の月。 金色で、優しい感じがする。 花火でもやりたい気分だ。 でも僕がやっていることといえば。 「おまえな、月なんか見てる場合か?」 数寄屋はアイスを食べながら、呆れた顔で僕を見た。 「ごめん…」 数寄屋の部屋で、足の短いテーブルの前に向かい合って座っていた。 机の上には課題がこれでもかってくらいに広がってる。 (逃げたい……) やってもやっても駄目出しされる課題が憎い。 正しくは、やってもやっても正解出来ない自分の頭が、だけど。 今は数学をやっているけど、何度やっても「違う」って言われる。 間違った答えでも提出したら、ある程度点はくれるだろうけど。 正解しておいたほうが点はいい。 風呂上がりで、まだ少し湿っている髪をくしゃと手で掻く。 難しい。本当に嫌になるくらい。 でもその問題を数寄屋は楽々と解いて、今は僕より五ページくらい先に進んでいる。 (なんで、そんなに頭いいのかな) 授業中寝ていることもあるし、バイトだってやってるのに、一体いつ勉強してるんだろう。 上目遣いで見上げると、数寄屋と目があった。 「それ出来るまで、アイスやらねぇからな」 羨ましそうに見えたのかな。数寄屋は的はずれなことを言った。 (別にアイスが欲しいわけじゃないんだけどな…) バニラのアイスは好物ではあるけど。数学の前では食べたいという気持ちも起こらない。 げんなり、だ。 「出来た…」 弱々しく呟くと、数寄屋はアイスを囓りながら「答えは?」と聞いてきた。 「x=5.89」 「はぁ?おまえ相当馬鹿だろう」 また違うのか。と数寄屋は僕の問題集を覗き込んできた。 このやりとりはすでに三回目だ。 どっちも嫌になってる。 溜息混じりの数寄屋の目が問題集の上を滑っていく。 睨むみたいな目つきだから、僕はちょっと怖くなって身体をずらした。 怒るかな。でも数寄屋は呆れるけど、まだ僕に怒ったことはない。 (これだけ間違ったら、我慢の限界…かな) 期末テストの勉強の時に怒らなかったからといって、今怒らないという保証はない。 「っかしいな…。式は合ってるのになんで答えが違うんだ?俺のが間違ってんのか?」 さらっと見ただけでは間違いは分からないらしい。数寄屋は自分が解いた問題集と僕のやつを見合わせた。 内心びくびくしながら数寄屋の様子を窺うと、舌打ちが聞こえた。 「おまえなぁ、足し算間違ってんじゃねぇか」 「え?」 「ここ」 シャーペンが足し算の上にすぅーと細い線を引いた。 「あ…」 もう一度始めからやると、確かに足し算が間違ってる。 「小学生レベルだな」 「ご、ごめん」 「別に謝ることねぇだろ」 数寄屋はアイスを最後まで食べながら、僕がやり直すのを眺めていた。 「x=3」 「正解。ようやくか。やり始めてから十五分は経ってるな」 長ぇよ。と数寄屋は言いながら腰を上げた。 ぽいっと食べ終わったアイスの棒をゴミ箱に投げ入れる。 そして代わりに、また棒アイスを持ってきた。 (もう一本食べるのかな。おなか壊さないのかな) 冷たいものばかり食べるとおなか壊すよ。近所のおばさんに何度も言われた事を思い出していると、そのアイスは僕に差し出された。 「ほらよ。ちゃんと正解したからやるよ」 「あ、ありがと」 そんなに物欲しそうな目をしていたんだろうか。 僕はアイスをもらうと、袋をやぶって口を付けた。 バニラの甘さが口の中に広がる。 頭をずっと使っていたせいか、ほっとした。 「アイス好きなのか?」 「え?」 意外なことを聞かれて、数寄屋を見ると、観察するみたいに僕をじっと見ていた。 強い視線に、思わず目を伏せる。 見られることには慣れてないし。あんまり好きじゃない。 「好きだけど…特別好きってわけじゃ」 改めて聞かれるほど好きかって考えると、たぶん大好き!っていうほどじゃない。 なんでそんなことを数寄屋が聞くんだろう。 「それにしては、うまそうに食ってるけどな」 たぶん、数学が一息ついたから安心してるだけじゃないかな。そう思ったけど口には出さなかった。 「まだ終わってねぇだろ」って呆れる顔が頭の浮かんだから。 アイスを囓るのは歯が冷たく染みる感じがして苦手で、出来るだけ舐めて食べる。 そうすると時間がかかるから、最後になるといつもアイスが溶けて手に落ちる。 べたべたになるから、棒よりカップのアイスを買うことが多かった。 数寄屋はアイスを集中する僕の前で、英語の訳を始めていた。 目が横に規則正しく動いては、英文の下にあるスペースに日本語が書かれていく。 たまに辞書を引いてるけど、僕とは比べものにならないくらい回数が少ない。 (深川と同じだ) 英語が得意で、九十点以下を取ったことがない深川も、こうしてあまり辞書を引かずに訳している。 (数寄屋も英語は得意って言ってたなぁ…。僕なんか日本語だけで精一杯なのに) 日本語といっても現代語だ。古典もやっぱり苦手だった。 じーっと数寄屋が勉強しているの眺めていたら、ふと顔を上げた数寄屋と目があった。 「とろいな」 「え」 「アイス溶けてんだろ」 数寄屋は何を思ったのか、僕の手首を掴んだ。アイスを持っていたほうだ。 アイスを食べるのかな。そう思ったけど、数寄屋は全く違うことをした。 「あ」 棒を摘んでいる指に唇を寄せては、溶けて指を汚していたアイスを舐めた。 あたたかくて、ぬめりのあるものが指をすぅと這う。 ぞくりとしたものが背中を走って、僕は数寄屋から目をそらした。 指を舐められた。ただそれだけなのに、心臓の音がばくん、と大きくなった。 (は…恥ずかしい…) 理由は分からない。でも無性に恥ずかしくなって、顔に血が上る。赤くなっているんじゃないだろうか。 「…食わないのか?」 「え…」 「食い終わるまでは、待ってやってもいい。でも食わないなら、抱くぞ」 「は!?」 僕は妙な声を上げて、数寄屋を見た。 冗談を言っている目じゃない。真剣そのものだ。 本気で、数寄屋はそういう行為をしようとしてるんだろう。 「な…なんで急に」 さっきまで勉強してたのに。どうしてそんなこと言い出すんだろう。 戸惑う僕なんて知らない顔で、数寄屋は残り少ないアイスにかじりついた。 「期末はテストまで時間なかったから我慢してたけど、夏休みはまだまだ残ってるからな。我慢してやらねぇよ」 「我慢…なんかしてたの?」 期末テストの勉強中も、突然キスされることがあってびっくりした。 その後数寄屋は何かに苛ついてるように僕から離れたけど。あれが我慢していたってことなんだろうか。 でも、何を我慢?抱くって、僕? 「…えっと…また、ああいうことやるの…?」 アイスがなくなり、ただの棒になってしまったものを握りながら僕は恐る恐る尋ねた。 二回、三回は、そういうことをしたことがある。 どうして僕なんか相手に、とかなんでやりたがるのか、未だに分からない。 ただ数寄屋は今みたいに突然言い出して、僕がどうしていいのか分からずに混乱している間に、押し倒してしまう。 手慣れているんだと思う。僕には経験がないからはっきりとは言えないんだけど。 「嫌ならやめるが」 と言いながら、数寄屋はノートや問題集が散らばったテーブルを横へと移動させた。 万年床が僕の視界に入っては、やけに物言いだけに見えた。 布団はちゃんと片付けないと、湿気が畳みに寄るのに。そんな主婦みたいなことを思っていると数寄屋に手を引かれた。 「あっ」 「人の話聞いてるか?」 「聞いてるよ。聞いてるけど…」 数寄屋は僕を立ち上がらせると、布団まで引っ張った。 (に…逃げたい…) 勉強から逃げたいけど、これからも逃げたい。嫌とか、悪いとか、そういう問題じゃなくて。 (死ぬほど恥ずかしいんだって…!) 数寄屋はどう思っているのか知らないけど、僕からしてみればあの行為は恥ずかしいし、分からないことだらけだし、パニックになるし、出来れば避けて通りたい。 「要」 二人だけの時にしか言わない名前。 そう呼ぶ数寄屋の声は特別、優しく聞こえた。 ちらっと見上げると、きついくらいの視線で僕を見てくる。だけど怖いというより、それは熱があるってことなんだろう。 自然に落とされたキス。慣れなくて、びくっと肩を震わせる。 唇をこじ開けて入ってくる舌は、熱かった。 僕の口の中がアイスで冷えていたせいだけど、その舌に何かが溶かされる気分だった。 舌を絡み取られて、歯を軽く立てられる。何か探すみたいに数寄屋の舌が口の中で動き回る。 腰のあたりにじわりと静電気みたいなものを感じて、僕は数寄屋の肩を掴んだ。 「逃げるのも、止めるのも、聞けねぇからな。もう」 切羽詰まったような声で、僕の額に唇を付けて囁いた。 そして僕から離れるとすぐに電気を消した。 照明がなくなり、暗がりに目が慣れなくて視界が黒に染まった。 そんな中で、数寄屋が動いた音がしたかと思うと、くいっと腕を下へと掴まれて僕は膝を折った。 布団の柔らかい感触に当たると、すぐにゆっくりと倒された。 仰向けにされると、窓が見えた。 四角に切り取られた夜空にいる月の光だけは、よく見える。 「あ…」 その光を遮るみたいに、数寄屋が覆い被さってきた。 ぎくしゃくして身体が強張ると、数寄屋が苦笑した。 唇を親指でなぞられ、僕はまるで自分が今から調理されるみたいな気分になった。 (こういうの何て言うんだっけ…) 確か、まな板の上の。 「…まな板の上の…魚…」 言ってみたけど、なんか違う。 すると数寄屋が小さく吹き出した。 「こいだろ」 「え」 「まな板の上にいんのは」 鯉、だ。 一瞬別のものに聞こえて、心臓が跳ね上がった。自分に向けられるには、似合わない単語だって分かってるのに、数寄屋の口から聞くとびっくりする。 「こい、な」 もう一度言った数寄屋に口を塞がれた。 耳に残る響きに、ざわりと心が揺れた。 |