2 「既婚者ってことは……結婚出来ないじゃない」 崎田が呆然と呟いた。 紛れもない事実が空気を凍り付かせる。 「そうです。崎田さんにとって、それはいけないのでは?」 「絶対に駄目に決まってます!既婚者だなんて、馬鹿にしてる!」 穏やかに微笑んでいた崎田は、亀小山が既婚者だと分かると眦を釣り上げた。騙された、しかも結婚だなんて重大な事柄に嘘をつかれていたと分かれば誰だって激高するだろう。 まして言祝ぎという祝福を求めているカップルの片方がすでに別の妻を得ているなんて、明らかな悪意のある詐欺だ。 (そもそもこの男、どういう気持ちでここにいるんだ) 日本の法律では重婚は禁じられている。すでに結婚しているのならば崎田と結婚することは出来ないはずなのに。どうして先ほどまでのように落ち着いてここに座っていられたのか。 その神経が信じられない。 「そんなの、でたらめです!どうして僕が既婚者だなんて言えるんだ!嘘を言うな!名誉毀損だ!」 「訴えられますか?事実が明らかになるだけですよ。既婚者かどうかなんて調べればすぐに分かることです」 亀小山は灯に淡々と諭されて、怯んだ。 灯の言うことが本当にでたらめならば、勢いをそぐこともないだろう。真実を証明すれば良いだけのことだ。 隣にいる崎田もそれを察知しているのだろう、溜息をついては頭を抱えている。 「あんた、なんで俺が既婚者だって断言出来るんだ。探偵でも雇って調べたっていうのか」 礼儀正しそうだった亀小山の雰囲気は一変した。口調も砕け、灯を憎々しげに睨み付けている表情はお世辞にも性格が温和そうだとは言えない。それどころかどことなく俗っぽいな印象が強まった。 (結婚詐欺なんてしようとする男が真っ当なわけもない) 「そんなの見れば分かります。分かり易すぎるくらいでしたよ。そういう生業ですから。大体崎田さんもちょっと怪しんだ方がいい。何かしら引っかかるところはあったでしょう?」 同棲している男が妻子持ちの借金持ちという、結婚相手にこれ以上ないほど相応しくない男だったと、何かしら勘付く時はなかったのか。 灯は疲れたように尋ねるが崎田は抱えていた頭を上げて不機嫌さを剥き出しにする。 「これまで既婚者はいなかったもの!こんなの詐欺じゃない!騙された!」 「騙されてばっかりじゃん、貴方……」 言祝ぎ中に珍しく灯が言葉遣いを崩して呟く。 久幸にはしっかり聞こえていたけれど、頭に血が上っている崎田の耳には届かなかったらしい。 「破談よ!」 そう怒鳴りつけるように宣言して崎田は鞄を手に取る。烈火のごとく怒った彼女に亀小山は慌てて宥めようとしたようだが、崎田の鞄が顔面に直撃しては「うごっ」と鈍い呻き声を上げただけで終わった。 「やってらんない。馬鹿じゃないの」 畳に突っ伏した亀小山にそう吐き捨てて崎田が部屋を出て行く。亀小山は慌てて立ち上がっては顔面を抑えたままその後を追いかける。「待って!」とすがっているらしい。 おそらく肩かどこかを掴んだのだろう「離して!」と崎田の怒声が響いた。 暴行に繋がるのは良くないと、久幸が腰を微か浮かせたのだが、すぐに「いたっ」と亀小山の短い悲鳴が聞こえてくる。 「妻とは別れる!」 「いらない!私は今すぐ結婚式がしたかったの!貴方が奥さんと別れるのなんて待ってられない!」 「そんな!すぐに」 「いちいち手間をかけさせないで!」 厳しく言い放っては、廊下を力強く歩いて行く足音が響く。どうやら崎田はしっかり亀小山を捨てて帰って行ったらしい。 騒ぎを聞きつけたらしい崎田の両親がやって来ては亀小山に詰め寄っている。よくも娘を騙したなという恨み言が届いてきては、同情が沸いてくる。 今度こそはと思っていた両親にとってみれば失望も大きいだろう。 そしてもう一人、この場に落胆している者がいる。 「お疲れ様」 疲労感がのしかかってきたのか、ごろんと横に転がった灯の傍らに膝を突いては慰めるように背中を撫でた。それに灯が深く溜息をつく。 「あの人、本当に懲りないんだ。マジでもう勘弁して欲しい。あんな相手ばっかり連れて来られて言祝ぎをしていたら、俺の商売あがったりだ。だって破局するんだから」 「今回は既婚者だと結婚式をする前に分かったんだから、灯はよく働いたよ。それも言祝ぎ屋として重要な役割じゃないか。不幸になるのを止めたんだ」 あのまま灯が亀小山が既婚者だと指摘せずにいたら、崎田は籍を入れるまで事実を知らずにいただろう。万が一結婚届を出す前に結婚式をやってしまったら、どれほどの被害が出たことか。 金銭的にも、名誉の面からしてもかなり辛い目に遭ったはずだ。それを灯は防いだのだから、十分に言祝ぎ屋としての仕事を成功させている。 「あの人は自ら不幸に突っ込んでいくんだよ。本人もさ、分かってるんだよ」 なのにさー……と力なく零している。きっと灯は崎田に対して結婚相手以外でも見えているものがあるのだろう。 だが何であるのかは口に出さない。言わない方が良いと思ったのか、本人が分かっているらしいので、人が指摘するような内容ではないのか。 「数分しか喋ってないのに、精神力を全部持っていかれた。今日の俺はもう駄目だ」 「ああ、今日はもう休め」 言祝ぎは集中力がいる。背後に座っているだけで、灯が全神経を依頼者に向けていること、感覚を研ぎ澄ませていることは感じられる。 ただでさえ精神的な負荷が強い行為のようだが、その上にあの二人の相手をしたのだ。根こそぎ気力が奪われてもおかしくない。 「アイス食べたい……」 か細い願いに苦笑が浮かぶ。 「買ってきてやるよ」 「ハーゲンダッツがいい」 「今日だけな」 比較的金額の高いカップアイスは滅多に手が出ないものだ。金銭的に苦労しているわけではないけれど、両家の親から仕送りを貰い、二人で自由に暮らしている立場だ。無駄な金の使い方は許さないと久幸がきつく財布の紐を締めている。 なので灯からお菓子類の催促をされても断るか、金額を下げることが多いのだが。今日ばかりは多少の我が儘も聞ける、というより率先して叶えてやりたい気分だった。 灯は許可が出たことにようやく身体を起こしては気が抜けたように笑った。 ショッピングモールを灯と共に歩いていた。休日ということもあって多くの人が行き交っている。 買い物をする際には必ずエコバッグを持って行かなければ行けなくなったこの国で、二人は新しいエコバッグを探していた。 実家から出て二人暮らしをしている以上、食料品、日用雑貨の買い物は毎日の習慣だ。 男が持っていても浮かない、シンプルで落ち着いた色のエコバッグ。しかし無地で素っ気ないのもつまらない。という灯の好みに合わせるのは難しく、エコバッグが売っていそうな店に片っ端から入店していた。 その内の一つ、インテリア雑誌を取り扱っている店に立ち寄った時だった。 可愛らしい雑貨や家具たちは女性向けだろうなと思いながら、灯とふらふら見回っていると「寿君」と灯の名字を呼ぶ声がした。 聞き覚えがある声に視線を送り、久幸は固まった。 軽く手を振っているのは先週、灯が言祝ぎをした崎田だ。言祝ぎの際は貞淑さを感じさせるワンピース姿だったけれど、今日は肩が露出しているざっくりとした編み目のサマーセーターにワイドパンツ。髪の毛も一つに結んでいるせいか、お淑やかというより健康的で活発という印象だ。 表情も大人しそうな雰囲気は消えて、積極的なものに変わっている。 (女性は彼氏に合わせて見た目が変わるって言うけど) 表情や印象も随分異なる。自分を彼氏のタイプに合わせるのが上手な人なのだろう。 「こんなところでお買い物?隣にいるのはこの前の言祝ぎの時に後ろに座っていた人だよね。仲良いんだね。まるで彼氏みたい」 (みたいも何も、本当に彼氏だからな) 灯と歩いていても友人と見られるのは百も承知だ。そんな振る舞いしかしていないので友人と思われるのも当然だが。本質は友人より、彼氏のほうがずっと近い。 「羨ましい、いいなぁ。私もそんな風に仲良くお買い物がしたい。新しい彼氏欲しい。結婚したい」 「崎田さんはもっと落ち着いてください。彼氏彼氏ってどんだけ彼氏探してるんですか。そんな風に早く欲しがるからろくでもない男捕まえるんですよ」 年下の灯の辛辣な注意に崎田はけろりとした顔で「たまたまだよ」と応えている。 (たまたまで三回も離婚して、四回目に結婚しようとした男があれなのか) もしかしてこの女性は精神的にかなりタフなのではないか。 そんな予感がした久幸の隣で、灯はそれを後押しするかのように憂鬱そうな目をしていた。 next |