梢は通っている大学から一駅ほど離れた場所に住んでいた。大学の近くに住んだ方がいいだろうに、と灯は思ったけれど。家賃の問題かも知れない。
(一人暮らしだと色々金もかかるし)
 灯は久幸と二人暮らしであるため折半をする、もしくはシェアをするという方法で様々な節約が出来ている。一人で暮らしていたらとても今の生活費ではやっていけなかっただろう。
 家賃を抑えるために、大学から少し離れた場所に部屋を借りるというのは充分有り得ることか。
 そんなことを思いながら、教えられた住所に行くと梢は灯が思っているよりもしっかりとしたマンションに暮らしていた。オートロックの綺麗なマンションは大学生が一人暮らしをするには少し高そうな場所に見えた。
「俺たちよりいいところに住んでるな」
「まあ、女の子の一人暮らしだからな。防犯とかに気を付けたら、こうなったんじゃないか?」
「ああ、そっか。男二人暮らしとは違うか」
 マンションの入り口を通り、オートロックを梢に外して貰う。久幸が来たということに、呼び出された梢の声は嬉々としたものだ。
 気がない素振りをしていた先輩が、休んでいると知ったらわざわざ見舞いに来てくれたのだ。梢にとっては舞い上がるような出来事なのだろう。
 嬉しそうな彼女の声に、久幸と目を合わせては溜息をついてしまう。自分たちが酷く悪いことをしているような気分だ。
 そしてその気分は、実際に梢の部屋の前で更に強くなった。
 ドアを開けた梢は満面の笑みを浮かべていた。頬もうっすらと染まっており、喜びに充ち満ちていたのだ。
 けれど久幸の隣に灯がいると分かると凍り付いた。怯えすら感じられるその表情に、あの夜二人に干渉したのはやはりこの人なのだと理解した。
 花見の時にたまたま出会っただけの相手、久幸の友達というだけの相手ならばそれほど恐怖を見せることはない。
(たとえ花見で俺の名前を耳にしてユキの婚約者だと、ぴんっと来たとしても。怒りや憎しみは見せても怯えが出てくるわけがない)
 灯は梢に何もしていないのだから。
 見ると梢は左手に包帯を巻いていた。親指以外の指にまで包帯が巻かれ、見るからに痛ましい姿だ。
「お友達も、ご一緒なんですか?」
「そうだ。梢にどうしても話がある。中に入れて貰ってもいいかな?」
「……どうぞ」
 久幸の願いに、梢は身体をずらして中へと招き入れてくれる。灯がいるからといって久幸を追い返す、なんて発想自体沸いて来ないのかも知れない。それほどに久幸を熱心に見詰めている。
 どうあれ、久幸が自らここに来たことが、梢をときめかせているのかも知れない。
 キッチンと繋がっている六畳ほどのフローリングの部屋は綺麗に整えられている。レースのカーテンや、可愛らしいぬいぐるみの置物が飾られたチェスト、ローテーブルの上には大学の教科書とアロマディフューザーがあり、花の香りが漂っている。
 もう一つドアがあり、寝室はまた別なのだろう。
「お茶とコーヒー、どちらがいいですか?先輩はコーヒーですよね」
「お構いなく。左手を火傷したやつがそんなおもてなしはいいんだよ。それより聞きたいことがあるんだ」
 構わなくてもいいと言うのに梢はキッチンへと向かう。それに久幸が付き添おうとするのを、灯が肩を掴んで止めた。
 左手が使えないから手伝うつもりだったのだろう。純粋な優しさであり、久幸は自然とそういう思いやりが出来る人間であることは分かっているが、現状を考えれば適切ではない。
 灯が代わりにキッチンに行くと、明らかに梢は緊張をしていた。固くなった表情で左手を右手で包み込んでいる。それは自分を必死に守ろうとしている様に見えた。
「私一人で大丈夫ですから」
「その左手はどうなさったんですか?」
「……料理をしていたら、うっかり」
「それは痛かったでしょう。しかも薬指が一番酷いんですね」
 薬指を指摘すると梢は目を釣り上げた。そこに触れて欲しくなかった、と恨みの籠もった声が聞こえてきそうだ。
 完全に灯を敵として認識している。その視線の鋭さにはさすがに灯の身体にも力が入る。
「何が言いたいんですか?先輩だけならともかく、その友達ってだけでいきなり女の子の部屋に押しかけてきて、失礼じゃないですか?しかも火傷のことを詳しく尋ねようとしてくるなんて、どんな神経してるんですか?」
 それまでの怯えを消して気色ばむ梢に灯は呼吸を整えた。
「貴方は俺に呪いをかけましたね」
 そう口にした瞬間、梢の左手からぞわりとする何かが煙のように浮き上がった。細かな暗い微粒子が梢の左指に纏わり付いている。そしてその一点だけ、空間を歪めるような違和感を覚えては、呪いというものはそうして感じられるものなのだと知った。
「は?」
 驚いたかのように梢は一言だけ発する。けれど心底驚いているわけではないことは、その瞳が灯を睨み付けたまま動じていないことから分かる。
 梢は腹をくくった。そう肌で感じる。
「左手を元にして呪いをかけましたね?それは俺とユキのところに送られて来たけれど、二人の契約に障り、効果を発揮することは出来なかった。それどころか貴方の元に弾き返された。その結果が、その火傷だ」
「何言ってるんですか?先輩!一体何なんですかこの人!」
 梢が久幸に助けを求める。完全に不審者に遭遇したような悲鳴に、久幸もキッチンにやってくるのだが、灯の後ろに立とうとした。
 しかし梢は先に久幸の隣にくっつくようにして寄り添った。
「呪いだなんていきなり訳の分からないことを言われても、私、どうしていいか」
 久幸の斜め後ろに立って、梢は身を縮める。声は大人しくなるけれど、その視線は針のように尖ったまま、灯を突き刺してくる。
 ぎゅっと握り締めた左手の包帯に、灯は目を止めた。
「薬指から血を流していたのが、貴方の呪いの代償。もしかして何度も繰り返してきたんですか?一度や二度じゃないほど、何かが絡み付いている。恋愛成就?にしては物騒だ」
 自分に関わることだからだろうか、梢の左手を注視していると歪みのようなものが次第に形が作って行く。暗い微粒子は縄のようにはっきりとしたものになり、左手に絡み付いていた。そして縄の先には鎌が付いており、それが薬指に引っかかっている。
 実際に今、斬り付けているのか。薬指の部分の包帯が赤く染まり始める。
 痛みがあるのだろう、梢が左手を握り締めては胸元に押し付けている。
(こんなにはっきり見えたことは、なかった)
 まるで実在している物であるかのように、目に見えないはずの現象が目視で確認出来る。自分に関わる呪いだからだろうか。
「先輩!この人どうかしてます!」
「灯は特別な人だから、見えるんだよ」
「信じるんですか!?」
 突然呪いだの何だのと口走ったあげく、左手の火傷は呪いが弾かれた結果だと言われて、鵜呑みにしろというほうが無茶だということは灯にも分かっている。
 たとえ本当に呪いをかけていたとしても、これまで目に見えないものを体感したことがない人間ならば、妄言としか思えないだろう。
 こんなことはおかしい。そう同調して欲しかったのだろうが、久幸があっさり灯の言い分を認めたことに梢は久幸の腕を引っ張った。
「信じるよ」
「先輩!」
「俺は身をもって知ってる」
「契約ってやつですか!?先輩とあの人の間にそんなものが本当にあるって言うんですか!?」
「ああ、えっと、それはな。子どもの頃に交わしたもので」
「結婚の契約ですか!?男同士でしょう!?しかも子どもの頃に交わしたそんなものを間に受けて先輩のご家族はどうかしてます!先輩もどうして反対しないんですか!?そんなものを思い込んで、こんな人と付き合ってるなんておかしいです!」
 灯との契約をどう説明したものかと、迷った久幸に対して梢は怒りと共にそれをぶつけてくる。
 一度も語ったことがない契約を、まるで全て知っているかのように。
「梢……どうして結婚の契約だと知ってる」
「調べました。先輩が私と付き合ってくれない理由を」
「付き合ってくれない理由って」
「遠距離恋愛をしてるなんて言っても、相手の人のことを全然言わない。先輩は教えたくないって言うより、分からないみたいなリアクションでした。それがずっと引っかかってて、私調べたんです」
(よく見てる)
 遠距離恋愛をしているなんて言っていた頃、久幸は灯のことを何も知らなかった。誤魔化し方が下手だったというのもあるだろうが、まさか恋愛をしている相手のことを何も知らない状態だと感じ取る、というのはよほど久幸のことを注意深く見ていたのだろう。
 何一つ取り零したくないという、彼女の恋心の深さか。
「どうやって調べたんだよ」
「お正月、先輩のおうちには親戚の方々が来られますね。どこにでもお喋りな人っているんだなって思いました」
 親戚がべらべらと自分と灯の契約を喋ったのだと察して、久幸は顔を歪めた。不快感を露わにした様子に、梢は少しばかり気まずそうに目を逸らす。
「すみません。でも知りたかったんです」
「親戚は、なんて言ってた?」
「先輩は子どもの頃はすごく身体が弱くて大変だったって。でも結婚の約束をしたらあっと言う間に元気になった。言祝ぎ?か何かを使うことが出来る妙な子どものおかげだって」
「その通りだな」
 久幸は不快感はそのままに、梢の言っていることを全面的に肯定する。梢にとってはその肯定は不本意なのだろう「そんなこと!」と再び声を荒げる。
「子どもの言った適当なことで健康になれるなんて、そんなことがありますか!?病気や体質が、言葉だけで回復するなんて!」
(この子はそこまでは知らないんだ)
 久幸が何故子どもの頃病弱だったのか。
 だからこそ有り得ないと感じるのだろう。
 どこの親戚かは知らないけれど、久幸が身内から呪い殺されようとしていたことまでは喋らなかったか、もしくはそれを知らない程度には縁の薄い間柄だったのか。
「梢が信じられないのは無理もないと思う。だが俺にとってはそれが事実だ」
「正直馬鹿馬鹿しいと思いました。でも頭ごなしに否定することは出来ません。もしそういう不思議な力があるのなら、私にも出来るんじゃないかって思ったから。先輩と結婚するのはその人じゃなくて、私でもいいんじゃないかって」
「待て。さっきも言ったが、灯は特別な人なんだ」
「私だって特別です!」
 その人ばかり見るのではなく、こちらを振り向いて。
 そんな悲痛な叫びにも聞こえる声だった。
「私の亡くなった祖母は、まじない師です。その道では名の知れた人だったそうです」
(……だから)
 ただの人間が灯の契約に干渉出来るとは思っていない。何かしらがあるだろうとは思っていたけれど、血に引き継がれたものがあったらしい。
 まじない師というものがどのようなことをするのかは分からないけれど、彼女がしたことを考えればおおよその見当は付く。
「祖母から教わったことや、実家の書物をあさって調べたことを全部試しました。先輩への思いが成就する方法は全部」
 そう口にした梢の双眸には怒りよりも深く、重いものが滲んでいた。


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