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  梢の祖母がどんなまじない師だったのかは分からない。亡くなった以上、彼女の実体を知ろうとするのも難しいことだろう。
 けれど梢がやったことから察するに、祖母は呪いに関わることもあったのだろう。引き継いだものを全て使い、梢は灯の契約に干渉をしてきたそうだが。一体何を、どれほどの覚悟で行ったのか。
「……貴方が思うまじないを行うための対価が、その左手にあったわけですか」
「まじないに引き替えが必要な場合は、ここから血を流しました。心臓に近いと言われている左手の薬指から」
「梢は、だから指輪や絆創膏を貼っていたのか」
「私が思い続ける人は先輩ただ一人です。ここに指輪をはめるなら、先輩相手じゃなきゃ意味がない」
 梢は左手を久幸に見せる。薬指の部分の包帯にはしっかりと血の染みが作られていた。
 傷を付けて血を流しても構わないほどの思いは、他人からすれば狂気に近い。けれど梢にしてみれば純粋に抱き続けた恋心の成せる技なのだろう。
 久幸の表情は非常に固い、脅しとも取れる台詞を突き付けられているのだから無理もない。
 うなじにぴりびりとした危機感を覚えて、灯は深呼吸をする。
「二度とまじないなんてしないで下さい。次はその左手の薬指が落ちるかも知れない」
 今はまだ火傷を負って血が流れている程度かも知れないが、次に逆凪を受けた際はその指が切り落とされるかも知れない。
 契約の反発は、二度目ともなると更に強まる可能性があるだろう。そうなった場合、梢の身体がどうなるのかは、灯にも分からない。
(指が落ちるって言ったけど、その手首ごといくかも知れない)
 自分の言祝ぎの力を信じている。その力が特別であり、自分の能力と言いながらも、自分という器を超えた領域で生きている能力だとも感じている。
 その言祝ぎの力が防衛に切り替えられた時。どれほどの威力になるのか、灯は全く計ることが出来ないのだ。これまで経験してこなかったのだから、予測も付かない。
 灯にしてみれば梢の身の安全を思ったことなのだが、梢にしてみれば癇に障ったのだろう、目が座った。
「貴方に言われる筋合いはない。それよりも先輩との結婚を反故にして」
「出来ません」
「出来なくともやって」
「絶対にしません」
 子どもの頃の契約を打ち消す方法は灯にも分からない。仮に分かったところで決してしない。
 それは今の灯にとって自身の芯となりえるものだからだ。
 この契約を手放して、その先を生きていく想像が付かない。
「貴方が先輩といて何になるの?子どもの頃のつまらない約束で先輩を縛り付けないで」
「梢、止めろ。灯は俺を救ってくれた」
「そんなの気のせいです!子どもの頃のそんなことをいつまでも引き摺らないで下さい!」
「子どもの頃の約束だけじゃない。俺はこれからも灯と一緒に生きていくと決めたんだ!」
「思い込まないで下さい!男同士ですよ!?子どもだって出来ないのに!」
「子どもがいることが人生の全てじゃない!」
「でも欲しいと思うものでしょう!?」
 男同時で子どもが産めない。
 そのことに関して二人で真剣に話し合ったことはない。話し合ってもどうしようもないことだ。そして子どもが出来ないからといって別れるのかと言われれば、首を振るだけだということも分かっていた。
 だが他人からしてみればやはり不完全で、幸せになれると確信出来るような関係には見えないのだろう。
 それが少し、寂しくもあった。
「俺は、それよりも大事なものがある」
 凜とした声音に、灯までもがはっとさせられた。
 迷いが一切感じられない返答に梢の表情が歪む。
「この人が大事ですか!?」
「そうだ」
「どうして!?何が!?特別な仕事をしていることがですか!?他人の結婚を祝福するって、本当かどうかも分からない、詐欺師みたいなことをしている人が、そんなに大事なんですか!?」
「詐欺師呼ばわりか。ろくに見たことも聞いたこともないくせに」
「っ、だってそんなの分からないじゃないですか!祝福したから幸せになれるだなんて!結婚なんて、夫婦なんて二人の問題なのに!無関係の赤の他人がちょっと口出ししたくらいで何が変わるんですか!」
(厳しいことを言うな)
 言祝ぎをしていて、梢が言ったようなことをもっと罵るようにして灯に問いかける人は何人かいた。
 無駄なことだ、口先だけの戯言だと馬鹿にされたこともあった。
 それでも人の幸せを祈ることは気分の良いことだったから、聞き流して自分の成すべき事を粛々と行ったものだが。
 不意に耳にすると、何とも苦い。
 しかし灯よりも久幸の方が憤りを露わにしていた。すっと冷えた双眸は怒りが強まったせいだろう。
(マジでキレると冷えるタイプなんだよな)
「それをまじない師のおばあさんがいるおまえが言うのか。教えられたことを引き継いだ、おまえが」
 突き放すような言い方に梢が言葉に詰まったのが見て取れる。
「……それとこれとは別です」
「本質は違わない」
「先輩はこの人を選ぶんですか?約束があるからって、そこまで頑なに守らなきゃいけないものですか?」
 梢にとってはきっと理解出来ない。子どもの戯言が結婚の約束に直結しては、二人を結びつけた。言い換えれば縛り付けてしまったことなど。第三者からしてみれば到底納得出来ることではないだろう。
 久幸が勝手に自身を縛り付けているだけと言わんばかりに、説得しようとしている。
「結婚の約束は、子どもの頃に何も分からないまま交わしたものだ。だが今だって同じ約束を灯と交わす。一緒に生きていこうと言われれば、俺は躊躇いなくその手を取る。むしろ俺から、そうしてお願いしたい」
 自分を説き伏せようとする梢に対して、久幸はきっぱり言い放った。
 灯にしてみれば実に情熱的な口説く文句に聞こえて照れくさい気持ちになるのだが、梢にとっては絶望に近い響きだろう。
 頬を叩かれたように瞠目しては、唇を震わせた。
「どうしてですか……」
「そうしたいからだ」
「なんで、私じゃないんですか。私はどこにいても先輩を見付けることが出来ます。あの広い大学の中でも私は何度も先輩を見付け出して来たでしょう?なのにどうして私じゃないんですか」
「それは、おばあさんから教わったまじないを使っていたのか?」
「先輩と結び付きを作っただけです。あの人と同じように」
 梢はちらりと灯に、仄暗い視線を向ける。
 自分がやったことは灯がやったことと同じだ。責められるようなものではない、同罪だろうと、その目が言っている。
「私には、先輩しかいないんです」
「梢がそう思い込んでいるだけだろう。これからいくらでも俺より良い人に出会える」
「気休めを言わないで下さい!諦められるなら諦めた!あの時、告白を断られた時に!でも出来なかったんです!先輩が卒業しても、どうしても忘れられなかった!側にいたかった!だからここまで来たんです!」
 好きな人に自分より良い人がいると言われたところですんなり受け入れられる者がいるだろうか。いるはずもないのに、久幸は心からそう思っているのだろう。
 いっそ残酷な台詞のせいで、梢の声は悲鳴のようだった。
「あの大学に来たことは、頑張ったんだろうなと思う。でもその努力はこれからの梢のためになる一つも無駄じゃない。大学で学べることも多い」
「そんなことじゃない。先輩がいる大学に行きたくて勉強を頑張ったのは確かです。でもそれだけじゃなくて」
 梢が左手を右手で再び包む。
「……亡くなった祖母から教えて貰ったおまじないも一生懸命思い出して、試しました。どんな手でも使いました。何を犠牲にしても」
 犠牲、という単語に背筋が冷たくなる。
 一体何を犠牲にして、自分の思いを叶えようとしたのか。知りたくはない。それを口にした梢の瞳が、触れてはいけない何かを見ている。
「それでも先輩を感じることがなかなか出来なくて。行き詰まっていた頃に父が交通事故を起こしたんです。相手は妊婦さんでした。母子ともに亡くなってしまって。遺族の方の怒りは激しいものでした」
「そんなことがあったのか」
「はい。損害賠償を払おうと思っても、到底払いきれる額じゃなかった。父は罪悪感に耐えきれずに自殺しました。母も父が自殺をしたこと、遺族の方々から責められることに心を病んで、今は病院にいます」
 おそらく久幸が知っている梢からは、そんな窮地に立っている印象はなかったのだろう。愕然としている久幸に、梢は俯いた。
「本当なら大学に行けるような状態じゃないんです。でもどうしても行きたかった。先輩と同じ大学に行って、後輩としてまた出会いたかった。進学のために親戚に頭を下げて回りましたが、答えは冷たいものばかりで。奨学金で学費を免除して貰えるほどの学力もありませんでした。合格するだけでも精一杯。だから、お金の工面にとても困りました」
 学費を捻出することに苦悩する学生は多い。家の経済状況が苦しい場合、進学を諦める者も少なからずいるだろうが。現在梢が住んでいるその部屋と、語られている内容が一致しない。
(家賃はどうなってるんだろう)
 内心首を傾げていると、梢が自分の二の腕を掴んだ。自分を抱き締めて、守ろうとしているみたいだ。
「……先輩には居酒屋でバイトをしているって言ってましたが、あれ嘘なんです。私が今バイトをしているのは水商売です。あのお花見をしていた夜、先輩が見たのは叔父さんなんかじゃない、お客さんです」
「水商売って」
「私、意外と売れっ子なんです。この部屋の家賃もお客さんが払ってくれてます」
 疑問に思っていたことの答えが返されて、胸の内側が重たくなる。
 彼女の言っていることがその場限りの嘘であれば良いのにと思うけれど、耳に入ってくる、淡々としているのに悲痛な感情がこもった声音は、真実だからこそなのだろう。
「生きていくには、大学に行くにはお金が必要なんです。でも私が何百万なんてお金、真っ当に稼げるわけもなかった。入学金を作るためには、もっと酷いこともしました。その時はまだ高校生だったから」
「言わなくていい」
「先輩、私は」
「言うな。自分を傷付けるために言おうとするな」
 制止する久幸を見上げて梢はくしゃりと顔を歪めた。灯を睨み付けていた、あの時の険しさも強さもない。
 痛々しい、迷子のような表情に灯まで泣きたくなる。
 細く小さな身体が、何かに押し潰されそうだった。
「好きなんです。先輩が、諦められないんです」
 お願いです。そう顔を覆って懇願する梢に久幸の指先が一瞬動いた。けれど梢に触れることなく、それは拳を握った。


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