スーパーで賞味期限が近くなっていたため半額になっていた桜餅を食べながら、灯は少し苦そうな顔をした。
 緑茶が濃すぎるというわけではないだろう。
 あんこには濃いお茶が美味しいと言ったばかりだ。
 普段は暢気な表情をしていることが多いせいで、そうした様子を見ると何か悩んでいるのだろうなと分かりやすい。
 久幸が手を止めると、灯は呼吸を整えたようだった。
「最近後輩に会ってる?」
 梢のことは口にしないようにしている。二人にとって愉快な話題でないことは明らかだからだ。
 しかし久幸はここ数日、意図的に梢のことを黙っていたわけではない。
「会ってない。メッセージも来ないけど、忙しいんだろ」
 梢はある日からぱったり姿を見せなくなった。
 大学の構内は広く、毎日数千単位の人間が行き来しているのだ。たった一人の人間を約束もなしに頻繁に見かけること自体無茶がある。まして学年も異なり、取っている講義も被っているものはごく僅かだ。
(これまで構内でたまに会っていたことの方がちょっと変だった)
 正門や学食で梢に何度も見付かっていたことも、奇妙だなと思っていた。奇遇ですねなんて言われていたけれど、よくそこまで久幸を見付けられるものだと、不可解に思っていた。
 それがぱたりと無くなったのは、ある意味正常になっただけかも知れない。
(メッセージが来ないことは、気にはなるけど)
 毎日のように梢は何でもないようなことでもメッセージで送って来ていた。学年は違えど同じ学部ということで、内容は講義内容や大学についての話題、もしくは引っ越して来たばかりなので大学周辺の情報などについてだ。
 たまに久幸のバイトや私生活を尋ねるものもあったけれど、当たり障りのないことしか返していない。
 そんなやりとりまで止まったことに、何やら意図的なものは感じていた。
 しかしわざわざ梢に、最近メッセージが来ないがどうした、なんて問いかけもしない。それではこちらがメッセージを待ち侘びているみたいだ。
(俺は別に梢と親交を深めたいわけじゃない)
 高校時代の梢のままなら、告白される前の距離と節度を保っていた頃ならば多少親しくしようとも思っただろう。大事な後輩という気持ちもあった。
 だが今は、梢にはどことなくもやもやとした不安を抱いてしまうのだ。
 関わってはならない。
 そんな気がして、どうしても梢のことは考えたくない。
 素っ気ない久幸に灯は「そうか」とだけ呟いた。そして桜餅の葉を慎重に外し始めた。
「なんで葉っぱなんか付いてんだろうな」
「塩漬けになってて桜餅の餡と一緒に食べると甘さと塩気が丁度良い味になるからだろ」
「葉っぱだぞ葉っぱ。食ったらざりざりして美味くない」
 ぶつくさ言いながら灯は綺麗に葉を取っては、改めて桜餅に齧り付いた。
「甘いのは甘いのでいいじゃん」
 そう単純なことを言う灯に、久幸はつい口元を緩ませた。
 塩気があるからこそ甘さが際立つ。そんな講釈を垂れる気にもならないほど、実にシンプルで美味しそうな顔をしていた。



 梢に会わないからと言って気にならない。そう思っていたのだが、いつも久幸の隣の席を陣取ってくる一般教養の講義の時間も、梢は現れなかった。
 久幸の隣に来るのを止めたのだろうかと思ったけれど、その翌週にも姿がないことに引っかかった。
 思わず講義中に教室内を見渡して梢を探してしまった。大勢の人間で埋め尽くされているので正確性はないけれど、梢はどこにもいないように思えた。
 講義が終わり、教室の出口に生徒達が流れて行く様も観察していたのだが。やはり見知った顔はどこにも混ざっていない。
「梢は講義に出て来てないのかも知れない。まあ、一般教養の講義を一つ捨てただけかも知れないけど」
 自分が選択した講義の全てに出席しなければいけない、強制されるなんてことは大学にはない。選択した講義であっても途中で放棄することは可能だ。
 まして一般教養の講義に必須単位は割り当てられていない。一年生の時点で、一つの講義を捨てたところで何の問題もありはしないだろう。
 だから梢があの講義に出席しなくても、そう注目するべきことではないかも知れないのだが。久幸は引っかかりを覚えては灯に相談していた。
 バイト帰りに買ったカップのアイスを渡して、自分の疑問を語る。
 灯はカップアイスにスプーンを差し込んだ状態で止まった。そして一口も食べることなく、カップアイスをテーブルに戻す。
 久幸からアイスを受け取った時の、あのはしゃいだ様子が消えていく。
 表情が強張り微かな緊張が漂い始めたことに、久幸もまたアイスを食べるなんて気持ちが萎んでいく。
 それは桜餅を食べながら梢のことを尋ねてきた時とよく似ていて、だがあの時より硬い。
「ユキ、おまえに謝らなきゃいけないかも知れない」
「何を?」
 久幸はカップアイスの蓋を開けることもなく、スプーンを蓋の上に置いた。真面目に聞く姿勢を取ると、灯が視線を落とした。
「後輩は、さかなぎを受けているかも知れない」
 さかなぎ、逆凪は呪った相手からその呪いを跳ね返された際、呪いはその力を増している現象だ。呪いが強ければ強いほど、返された時の反動は膨れ上がっている。
 呪った者には相応のリスクが伴うという仕組みだ。
 灯がそれを梢に対して口にしたことに、久幸はとっさに言葉が出なかった。
「……待て、、何の?」
 逆凪を受けるということは、梢が誰かを呪ったということだ。
 特別なものは何も持っていない、普通の女の子としか思っていなかった後輩には無縁のものではないのか。
「十日ほど前に、俺もユキも変な夢を見たことがあっただろう?ユキが何の夢を見たのかも分からないのに、サカってたやつだ」
「あったが、それが?」
「俺は、ユキと俺に誰かが何かを仕掛けたと思った。あの感覚は誰かの干渉だ」
「それを梢がやったってことか?」
 二人ともが同時に奇妙な夢を見たのは異常だとは思った。だが誰が何のためにそんなことをするのか、見当が付かなくて忘れようとしていたことだ。
 灯が口を閉ざしては触れたくないという雰囲気を漂わせていたから、尚のことだった。
「分からない。ただ俺の予感ってだけだ」
 言祝ぎという、生まれながらに特殊な才能がある灯の「予感」は決して笑い飛ばせるようなものではない。
「干渉を受けたと思った時、なんとなく後輩が思い浮かんだ。それだけなんだ」
「あいつは一般人だ。そういう血筋とか、聞いたことがない。俺が知らないだけかも知れないけど……」
 梢がどんな血筋で、どんな能力があるのかなんて聞いたことはない。
 だが久幸とて少しばかり変わった血筋を受け継いでいるけれど、他人にそれを喋ることなどなかった。
 自分の血筋や家柄に関して、親戚以外に口にすることは良くない。秘めることだと親に教えられたせいもある。
 本当に特殊であるのならば、そうしてぺらぺら他人に語ったりはしないと身に染みて分かっているだけに、梢が特殊な才能を持っていたとしてもおかしくはない。
(でも俺はそんな目で見たことはなかった)
 いきなりそんな可能性を問われて、さすがに当惑してしまう。
「……逆凪は大きいものか?」
 あの時、もし二人に呪いがかけられていて、灯がそれをはね除けたとすれば。相手の元に送られた逆凪はどれほどの威力があるのだろう。
 梢が見えなくなった期間と、あの夢を見た時間はきっちり当てはまる。その十日間という長さに深刻さが増していく。
「分からない。昔、俺とキスをしようとしただけで相手は気絶したから……俺たちの間に割り込もうと意図的に何かを行ったとすると、逆凪の大きさは想像も付かない」
「悪い意味で、ということか」
「そう」
 灯にとっても全く予測が付かないものであるらしい。
 自分から梢に連絡など取るべきではない。そう思い続けてきたけれど、話を聞いて躊躇いが生まれてくる。
(もし本当に逆凪を受けていたとすれば)
 梢はどうなっているのか。
 一度気になると、どうしても無視は出来ない。久幸は溜息と共にスマートフォンを取り出した。
「念のため、梢にメッセージは送ってみる」
 気を持たせるようなことはしたくない。しかし万が一、梢の身に何かが起こっているとすれば、自分たちにとっても無関係ではなかった。
 恋愛感情を刺激しないように、必要最低限の文字だけを打ち込む。
 厳選に厳選を重ねた、本当に短いメッセージを送ると、返信はすぐだった。
『お久しぶりです先輩。実は体調を崩してしまって、先週からずっと大学をお休みしてます』
 悲しむスタンプと共に送られたメッセージにひやりとしたものが背筋を走った。
 灯が語ったことが、信憑性を増していく。
 もしかして本当なのか?そんな思いが喉元まで迫り上がってきた。
「……梢は体調を崩しているらしい」
「どんな状態?風邪を引いたとか、そのレベルか?」
「そこまでは書いてないな」
 詳しい状態を知るために『どこが悪い?』という五文字のみを返す。
 これまで梢とメッセージのやりとりを行ってきたけれど、これほど短い文章を打ったことはなかった。
 心配はしているけれど、梢に妙な期待を持たせるのは良くない。自分なりに細心の注意を払った結果だ。
『左手に火傷を負ってしまい、しばらく動かすことが出来ません。とっても不便で困ってます。どうしましょう先輩』 (左手!)
 梢のメッセージに書かれている、その部位に息を呑んだ。
 火傷を負ったということも衝撃的だが、久幸はどうしてもその左手という場所に嫌な予感を抱いてしまう。
 それはかつて、梢が異常なこだわりを見せたところではないか。
「どうした」
 灯が怪訝そうに久幸の手元を覗き込んで来る。メッセージを読むと灯もまた顔を陰らせるけれど、久幸はそれを深める情報を口にしなければならなかった。
「……梢は左手の薬指に指輪をしていた。あの叔父さんといる時は指輪じゃなくて絆創膏だったが、何か意図があるみたいなことを言っていた」
 そして火傷を負ったと言っている手も左だ。
 何かしらの理由がそこにあるのでは、と疑いを抱いてしまうのは無理もない。
(逆凪が梢の左手に火傷を負わせたのか?)
 そんなことがあるのか。
 灯は久幸の隣で真剣な様子で黙り込んだ。そして髪の毛をくしゃりと掻き混ぜては肩を落とす。
「もしこの火傷が逆凪だとすれば。そして後輩が逆凪だということに気付いていなければ、また同じことをするかも知れない。そうなると事態はもっとやばくなる。下手をすれば命に関わる可能性もある」
「そんな」
「……後輩の家って、分かるか?」
「まさか行くつもりか?止めろ。俺は、灯には関わって欲しくない」
 梢が何かしらを仕掛けたとすれば、これ以上灯には深入りして欲しくない。それは灯に危害を加えようとするものである可能性が高いのだ。
 自分が引き起こした問題だ、もうこれ以上迷惑はかけたくない。
 かつて呪いを解いて貰った時に、どれほど灯を苦しめたことか。それを思えばもう似たようなことに近付けたくもなかった。
  「火傷の状態がどんなものか分からないけど、状況を確認したいんだ。このまま放置するとどうなるか分からない。もっと酷くなっていったら、俺は嫌だと思う」
「それは俺が確認に」
「逆凪かどうかは、俺が見た方がいいと思う」
 久幸には分からない。ぐさりとその事実が胸に突き刺さった。
 はっきりと才能の差を思い知らされる。
 自分が灯に比べてあまりにも無力で役に立たないことが悔しい。
「これは俺たち二人のことだから。久幸だけに背負わせるわけにはいかない」
「違うだろう。俺だけの問題だ」
「二人の問題。俺だって、後輩の気持ちが分かるから」
「梢の?」
「おまえを好きだって人の気持ちだからな」
 分かるさ、とそう灯はぽつりと言った。
 灯を梢から遠ざけたい。自分だけで解決したい。
 そう願った久幸を独りよがりだと痛感させる、静かで切なげな響きだった。


next 




TOP