梢と同じ講義に出席するのが精神的に辛いと思うようになっていた。
 一週間の内、被るのはたった一つだ。けれどその一つを思うと胃が痛い。
 梢に対しても灯に対しても後ろめたいことなどない。不誠実な態度を取っているとは思わないのだが、どうしても気になる。
 梢に無意識に気を持たせるような素振りをしているのではないか。
 灯には梢に対して悩まされていると言えば心変わりを疑われるか、嫉妬させようとしているのではないかと誤解されるのではないかと思うと、あまり口にも出せない。
 はっきりと拒絶して梢を傷付けるのも本望ではないが、親しくするのはもっと不本意だ。だから梢のことは出来るだけ避けて、教室で座る席も出来るだけ目立たないところや、講義が開始するぎりぎりのところを狙って入るのだが。梢はそれでも見付けてくる。
 そして強引に割り込んでくるのだ。衆目があるだけに、冷たく追い払うことも出来なかった。
 今日も梢は久幸の隣にちゃっかり座っている。百人以上は余裕で収容出来るこの教室で、よく毎回久幸のことを見付けられるものだ。
 機嫌良さそうに講義を聴いている梢の手に、今日も銀色に光るものがはめられている。梢はいつも指輪を付けたままだ。外していたのは叔父と歩いていた時だけ。
「それ、彼氏がいないのになんで付けてるんだ?何か意味があるのか?」
 講師はマイクで喋っているので、小声で会話をしたところでさしたる騒音にもならない。幸い今日は前の席に人もおらず、周りの邪魔になる可能性が低かった。
 いちいち指輪のことなん尋ねてくる男は鬱陶しいだろうが、梢に多少引かれたところで問題はない。むしろ逆にこうして鬱陶しい質問などをして、自然と距離を置かれたほうが良いだろう。
 問いかけた久幸に梢は嫌な顔一つせずに指輪を見せてくる。
「これはおまじないなんです」
「おまじない?」
 小さな子どもが言うならば他愛もない遊びだと微笑ましく思ったかも知れない。けれど梢ほどの年齢になった者が告げるそれは、嫌なものを久幸に感じさせる。
 まじないは、呪いと酷似している。
 かつて自身を殺そうとしたものが蘇っては、自然と気分が陰っていく。
「どういう、おまじないだ?」
「言ったら効果が無くなってしまいます」
 なんてありがちな方法だろう。まじないも呪いも、何を願ったのか他者に知られれば効果を失ってしまう。それを梢は本気で信じて、そして実行しているのだろうか。
 梢の双眸からは戯れではないものを感じ取って、思わず目を逸らした。
 教室は煖房が効き過ぎているというのに、急に背筋が冷たくなった。
 講義が終わると一目散に教室を出ようとした。梢はいつも何か話したがるのだが、律儀に付き合うつもりはない。
 荷物をすぐに片付け、鞄を手に取ったタイミングですぐに歩き出そうとした。けれど梢に手を掴まれる。
「先輩」
 すがりつくような視線を向けられて、胸が痛む。梢のことが嫌いではない、だが優しくし続けて、気を持たせるような行動を取っているほうが残酷な気がする。
 腹をくくって、その手を外させようとした。だがその気配を感じ取ったかのように、梢は両手で久幸の手を握る。
「避けられているのは分かってます」
「梢」
「私、二人目でいいです」
「は?」
「先輩の彼女にしてくれなんて言いません。遊びでいいんです。先輩の気が向いた時に、ちょっと振り返ってくれるだけでいいんです。私を少しだけ、ほんの少しだけでいいんです、先輩に、見て欲しい。諦められないんです……」
 梢は小さな声で、だが切実に訴えてくる。瞳にはうっすらと涙が浮かび、今にも泣きだしてしまいそうだ。
 教室の端にいる上に、学生たちはみんな教室のドアから廊下へと流れ出していく。おかげで誰も二人を気に留めない。
 こんなにも必死で、崩れ落ちてしまいそうな梢の姿を、久幸以外は誰も知らない。
「……彼女になりたい。それがおまえの本心じゃないのか?」
「叶わないことは分かってます」
「それが本心だと分かっている相手を、粗末に扱うなんて真似は出来ない」
 自分を一心に好いてくれている相手の気持ちを知りながら、遊びとして扱うなんて真似は到底出来ない。考えたくもないことだ。
 たとえ梢がそれでいいと言っても、久幸にとっては拷問のようなものだ。
「大体二人目だなんて、それは不誠実だ。俺にはそんなことは出来ない。付き合う相手は一人だけだ」
 真剣に向かって、恋をする相手は一人だけがいい。その人、灯のことだけで心がいっぱいになっている状況が久幸にとっての願いだ。
 灯に対して申し訳なさを覚えるようなことはこれ以上持ちたくない。何より誠実さのない人間が久幸は嫌いだった。そんな人間になりたくない
「先輩は、そういう人ですよね。誠実で、真面目で、優しくて……だから私、いつまでも好きでいるしかないんです」
 梢は久幸の手を握ったまま、声を震わせた。いっそ泣いた方が楽になるのではないかと思いたくなるほど、痛ましい声音だ。
「俺のことをずっと好きだなんて、決め付けるなよ。これからもっと多くの人に出会うんだ。俺なんかよりずっと良い人だっている」
「でも心は決まってます。きっと変わらない」
「梢」
「もし動かせるものなら、初めて告白して振られたその時に変わってました」
 自分の気持ちを自分で勝手に固めるな。
 そう説得する自分を間違っているとは思わない。
 だが告白を断られても、それでもずっと好きでいた梢の涙に言葉を失った。
 破れた恋を捨てることが出来ず、思いを抱き続ける苦しさと強さに太刀打ち出来るだけのものなんて。今の久幸にはなかった。
「好きなんです」
 どうしても、と梢は涙を落とした。
 その雫に動けなくなる。
 ごめんと言うことも、きっと梢を傷付ける。けれど慰めることなんて出来るわけがない。梢の気持ちに応えられないのだから、優しさはきっと苦しさに変わる。
 迷っている間に、梢は久幸の手を握っていた指をほどいた。そして弾かれるようにして荷物を纏めては早足で教室から出て行った。
 目元を拭っているだろう背中を見送って、久幸は深々と溜息をつく。
 人を好きになる気持ちは素晴らしいものだ。
 恋愛は人を幸せに、喜びに充ち満ちた時間を与えてくれる。久幸にとってそれはまさに実感していることではあるのだが。
 報われない思いほど、辛いものもないのだろう。



 久幸が帰ってきた時の顔色を見て、灯はちょっとまずいなと思った。
 今日は後輩と講義が被っている日だ。毎週この曜日は憂鬱そうだが、それでもこれほど憂いを色濃くしたことはなかった。
(何かあったのかもな)
 だが久幸は黙っている。
 言いたくないことを無理矢理に引き出すつもりはなかった。言いたい、言わなければならないと思った時に、久幸から自発的に聞かせて欲しい。
(それも体調を崩すまでいったら、口も腹も割って貰うことになるけど)
 それまでにはちゃんと教えてくれるだろうか。
 静かに祈りながらいつも通りの顔をして久幸に接しては、結局そのまま就寝した。
 少しの寂しさを抱えながらまぶたを閉じた後、眠りと共に奇妙な感覚が押し寄せてきた。
(……どこに、行くんだ)
 とても心地良い波に包まれていた。傍らにはあたたかくて柔らかいものがずっと寄り添っていてくれて、灯にとっては最高に安らぐ状況だった。
 なのに何かが灯をここから引っ張っていく。
 力任せにこの場から引き摺り、どこか冷たいところに放り出そうとしている。少しずつ指先が冷えて、目の前が薄暗くなっていく。
(ここにいたい)
 ずっとここにいたい。なのにどうして連れて行こうとするのか。
 抗おうと思うと更に強い力で引き摺られ、車の騒音のようなものが耳元で大きく響き始める。鼓膜を破ろうとするほどの大きな音に苛立ちが沸いて来る。
 それまでも音はあった。だがそれは穏やかな、優しい音だった。
 久幸の鼓動や、呼吸の音だった。
(なのにどうして、俺を剥がす)
 久幸の元から自分を離そうとしている。
 そう気付いた瞬間、内臓を焼き尽くすような怒りが突き抜けた。
 視界が真っ赤に染まってしまいそうな激情に、脳裏に自分の声が広がっていく。
(許さない)
『絶対に許さない』
 自分の声は何故か一つではなかった。自分のものであるはずなのに、別の何かと混ぜられ重ねられたもう一つの声が、反響していく。
(俺たちを引き裂こうとするなんて、認めない。この契約に障る者は全て許さない)
『それは許されない』
 強くそう思った時、何かに叩き付けられるように弾かれた。いや、おそらく弾かれたのではない、何かを弾いたのだ。
 その威力が大きいために、反動でまるでこちら側が弾かれたような錯覚に変わってしまっただけのことだ。
 ぱっと目を覚ますと、電気が消えた薄暗い自室にいた。眠る前と何ら変わらない。隣では久幸が目を閉じて眠っている。
(……なんだったんだろう)
 夢を見ていた、生々しい感覚が全身に残っている。反動の衝撃のせいで心臓も忙しなく脈打っている。
 ここにさっきまで何かがいて、灯に影響を及ぼしていたとしか思えないような余韻がある。
 嫌な気分に溜息をつくと、久幸もまた深く息を吐いたようだった。
 見詰めていると、ゆっくりと瞼を開いては灯に焦点を合わせてくれる。自分を見てくれた、そう分かるとつい手を伸ばさずにいられなかった。
 だが手を伸ばすだけでは少しばかり届かない。その少しばかりの距離に無性に胸が締めつけられた。
 引き剥がされそうだった体感が残っているせいだろう。焦る必要なんて何もないのに、身体を起こしては久幸の傍らへとにじり寄った。
 寝ていたくせに妙に動作の速い灯に久幸は驚いたらしい。暗い部屋の中でも目が丸くなったのが分かる。
「灯?」
 掠れた、ほとんど音になっていない声。だが久幸の声だと思うと、呼んでくれたことが嬉しくなって、つい久幸の頬に触れていた。
 掌で感じるぬくもりに、やっぱりこの人と一緒にいたいと当たり前のことを実感していた。
 

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