灯だけでなく梢と共に歩くのは久幸にとっては気疲れしたのだろう。夜桜を見ている時も言葉が極端に少なかった。梢に話しかけられても生返事ばかりで、家に帰ってくるとぐったりと座り込んだ。
「身体が重い」
 ローテーブルに突っ伏してそうぼやく久幸の前に、灯はオレンジジュースを置いてやる。
「気が重かったからだろ」
 久幸の腕を梢が引いた時。空気が凍り付いたのをはっきり感じた。
 驚きも勿論あったのだが、それよりも一種の恐れのようなものが久幸に走ったのが見えた。
 どれほど久幸が彼女に対して警戒心を抱いているのか、よく分かる一瞬だった。
「まさかあんなところで会うとは思わなかった。油断していただけに、びっくりした」
 久幸にとっては良い驚きではなかったが、梢にとっては喜びそのものだっただろう。その証拠に花見の最中、ずっと梢は浮かれているようだった。
「可愛い女の子だったな」
「そうか?」
「そうだよ」
 梢という女の子は小柄で優しげな顔立ちの女の子だった。子犬のような瞳は一心に久幸に向けられており、どんな反応も見逃すまいと久幸に全神経を集中させていた。
 他には何も見えない。
 そんな様子は必死さすらも漂わせていた。それが健気だと感じる人もいるだろう。
「あんな女の子に一途に好かれたら嬉しいだろうな」
「おまえはそうなのか?」
「可愛い子と部活で二人きりになれたら、普通はドキドキするだろ」
 それは一般的な感覚であるはずだ。灯も久幸に会う前は可愛い女の子を見れば心をときめかせたことも、良いなぁと好意的な目で見ては近付きたいと思ったこともある。
 そんな子が向こうから接近して来て、二人きりの空間で見詰め合っていれば鼓動が忙しなくなるのも無理はないだろう。
「俺は部活で梢と二人きりになっても、おまえのことを思っていた。まだ見ぬ成長したおまえの顔を想像してたよ」
 目の前にいる可愛い女の子ではなく、十年以上逢っていない灯が、久幸の中には宿っていたらしい。
(一途なのはむしろこっちか)
 どんな相手なのかも分からないのに、健気に気持ちを捧げ続けてくれたらしい。
「ごめんなー、こんな男で」
 小さくも可愛くもなく、また一途に久幸のことを思い続けるという健気さも欠落した男だ。しかも久幸の嫌う、頭が悪いという欠点まで持ち合わせている。
 高校時代、灯に対してどんな妄想をしていたのは知らないけれど、かなり落差があるのではないか。
「充分だ。何の文句もない」
「それはどうも。っていうか、おまえがどうしてそこでふてくされるんだよ」
 顔を上げた久幸はじろりと灯を睨み付けて来る。
「おまえがヤキモチを妬くどころか、梢を気になったみたいな言い方をするからだ」
 梢に対して可愛いだの何だのと言っていることが、久幸は気に入らないらしい。可愛らしいのはおまえの方だと説明してやりたくなる。
「気に入ってない。むしろ、何か引っかかるんだよなあの子。なんとなく変だ」
 久幸の向かいに腰を下ろして、灯は首を捻った。
「変?」
「異様な空気がする。ユキが怖いって言ってたのも分かる。梢って子は、何かを持っているな」
 久幸が梢に対して怖いと零した時、かつて振った子が自分を追いかけて大学に進学して来たことに対する後ろめたさがそう言わせているのだろうと思った。
 人が良い久幸のことだ。後輩の告白を断ったことに申し訳なさがあるはずだという、灯の思い込みもあっただろう。
 けれど実際梢という女の子を見た時、灯も強烈な違和感に襲われた。可愛い小さな女の子だ。だが酷く歪で重たいものが彼女からは感じられた。
 冷たい棘を持った茨が絡み付いてくるような体感に、全身の毛が逆立った。それが何であるのか探りたくて、彼女が花見に同行したいという希望を受け入れた。
「何かを持ってるって、なんだ」
「分からない。何だろう。もやもやする。言祝ぎをしている時にも感じるような、良くないものだ」
 言祝ぐために向かい合った二人を見て、相性の良し悪しを探った時。決定的に相容れないものを感じ取った場合に似ている。
 むしろそれよりもずっと泥のように重く纏わり付くようなものがあったかも知れない。
「普通に暮らしている時にこんな気持ちになることはないんだけど。うーん、何かがおかしいことは分かるんだけど、何がおかしいのかいまいち掴めない」
(久幸のこと、つまり自分のことだからかな)
 仕事で言祝ぐ際には集中すれば次第に見えてくるはずのもやもやの理由が、一向に掴めない。肘を突いて目を閉じて俯いても、ぐるぐると回る意識を闇雲に彷徨っているような不安しかない。
 それどころか憂鬱さが込み上げては灯の気持ちを乱そうとしているようだった。
(あの梢って子の目が、なんか、やだ)
 久幸のことが好きだと、周りに公言している。
 この人が欲しい、この人のものになりたいと躊躇いなく声高に主張するそれを、直視しているのが嫌だった。
「灯?大丈夫か?」
 唸り始めた灯に、久幸が心配そうに声をかけてくる。考えれば考えるほど溜息が重くなった。
「……俺も、嫉妬とかするのかな」
「え?」
「あの子、ずっとユキのことが好きだってアピールしてるから、それを見てて、いつの間にか苛ついたのかな。だからざわざわしてるのかも知れない。ほら、俺たちって一蓮托生だし、間に割り込まれるのは、勘弁して欲しいって気持ちに、どうしてもなっちゃうんじゃないかなとか、思ったり……思わなかったり?」
 喋りながら、もしかして自分は恥ずかしいことを語っているのではないだろうかと薄々気付いてしまう。けれど言い出したものは途中で止めることも出来ない。
 俯いたまま、出来るだけ淡々と喋るのだが。久幸は灯の手を取ってはぐいっと引っ張った。
「嫌だってはっきり言ってくれ。俺は誰であろうと間に入られたくない」
 真剣な声にちらりと視線を上げると、久幸がじっと灯を見ていた。強すぎる視線にまた目を伏せてしまう。
 恥ずかしげもなく自分の気持ちを聞かせてくれることは嬉しいとは思うのだが、一方で同じように振る舞うのは厳しいとも思う。
「あのさ……あ、ユキはあの子に俺のことを喋ったことはある?付き合っている相手は俺だとか、今同居しているとか」
「ない。喋ってもいいことはないだろ。俺は男同士であることは気にしていないけど、偏見を持っている人がいることは知っている。周りにあれこれ言われるのは気に食わない」
「無駄に腹が立つことを言われるかも知れない、そのきっかけを周りに教える気はないってわけだな。俺も同意見だ」
 灯は久幸のことを身内以外には誰にも伝えていない。大学でも一人暮らしではなくルームシェアをしているとは言っているけれど、相手は同い年の親戚と言っている。
 後ろめたい関係だとは思っていない。いずれ結婚する時が来れば、その時は伴侶として久幸を紹介もするだろう。けれど大学生の身分に伴侶を紹介する機会はない。
 無闇に同性の婚約者を見せびらかしても、満たされるものは何もないと判断したのだ。
 そんなことよりも今は、お互いのことをもっとよく知って、ちゃんと向き合って、信頼関係を築きたい。他人のあれこれに構っている暇はないと思っていた。
「じゃあ俺のことは何も喋っていないんだな。それでどうやって高校時代にあの後輩の告白を断ったんだ?」
「遠距離恋愛をしているから、付き合えないって言った」
「へえ」
「俺たちは婚約しているようなものだっただろう?それが五歳の頃だろうが、いつだろうが、契約はされている。それに俺はもう灯に片思いをしているようなものだったから。遠距離恋愛をしている気分だったんだ」
(ユキって、夢見がちなところがあったんだな)
 まだ見ぬ灯に対して、恋愛感情を膨らませていたのだろう。
 灯も似たような感覚はあったけれど、片思いというほど純粋ではなかった。むしろ気が合わなかったらどうしよう、価値観が決定的にすれ違っていた場合、間違いなく同居は苦痛になる。などとこれまで自分が言祝ぎで感じていた夫婦の問題をあれこれ思い出しては、悩んだことの方が多い。
「梢にも片思いだって言う方が正しくはあったんだろうけど、片思いっていうならいっそ諦めて自分と付き合えって言われるのが怖くてな」
「それだけの気迫があった?」
 付き合っているのならばともかく、片思いをしているだけならばいっそその思いを覆すほどに自分を好きにさせてみせる。
 それくらいの強さで、梢は久幸に迫ったのかも知れない。
 久幸はそれを裏付けるかのように黙り込んだ。
「マジで、そんなに強引に迫られたのか?」
「強引ってほどじゃなかったけど。でも告白をされたのは一度だけじゃないんだ」
 告白すること自体相当な勇気が必要だろう。なのにその勇気を砕かれ、恋心は見事に散ったはずだ。
 それなのに望みの薄い相手に再び勇気を振り絞って告白をするというのは、かなりの覚悟と度胸が必要だろう。
(俺なら無理だ)
 一度振られたくらいでは諦められない。その深すぎる恋情に久幸が怯むのも分かる気がする。
「一度目からそんなに間も置かずに二度目の告白をされた時に、梢から相手はどんな人だって訊かれたよ」
「訊かれても、その時は俺のことなんてほとんど知らないだろ」
「そう。だけどまさか何も知らないなんて言えないだろ。一応遠距離恋愛してるって言った手前、何かしらの情報を出さなきゃいけない。じゃないと嘘だと思われるのも困る」
「はい。そこで久幸君はどうしたんですか?」
 冗談めかして挙手をして尋ねると、久幸ははにかんだ。
「可愛い人だって、言った」
「ありきたり!」
 当時はまだ灯のことを女の子だと思っていただろう久幸が選ぶには、無難な言葉の選択だろう。好きな人に対して感じる感情の中で、大変よくあるものだ。
「まあ……間違いではなかったから」
「大きな間違いだと思いますけどね!?俺のどこに可愛さがあるって!?むしろユキの方が可愛いと思うぞ!」
 灯のことを好きだとはっきり言うところも。からかってやると照れるところも。頭を撫でると恥ずかしがるところも。男のくせに可愛いなと思うところがいっぱいある。
 しかし灯がそう言っても、久幸は「はあ?」と言うように非常に怪訝そうな反応をした。
「はあ?は俺が言いたいんだけど。で、他には?俺のことなんか教えた?」
「いや、大学で梢に会ってから灯のことは一切言ってない。当然遠距離恋愛をしていたという架空の設定についても」
「ふぅん。じゃあ後輩は、ユキの恋人は可愛いってことしか知らないのか」
 絶対に灯には辿り着くことの出来ない情報だ。
 これでは夜桜見物で灯に出会っても、本当に久幸の友達だとしか思わなかったことだろう。
「そうだな……高校当時、俺が知っている灯の情報なんてあとは年と名前くらいだからな」
「……名前、教えた?」
「そういえば名前は言ったな。とても綺麗な名前だって」
 綺麗な名前だと久幸に言って貰えたことは嬉しい。だがその喜びよりも大きなものが灯に襲いかかった。
 梢が久幸に声をかける直前、灯は道で躓いて転けそうになった。
 その時、久幸は大きな声で灯の名前を呼んでいた。


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