敷地面積の広い寺院の傍らには大きな公園があり、そこに見事な八重桜が道なりに植わっている。元々名の知れた寺院には観光客がよく訪れるそうだが、春は花見客で賑わう。
 今が盛りだと大学で聞いた時、灯を誘って行ってみようかと思った。夜桜見物なんて風情のあるものをたまには味わっても良いだろう。
 ここのところバイト続きで灯と外で過ごす時間が減っていたという理由もある。
 灯は久幸の提案にすぐに乗ってくれた。どうせだから今から行こうと言っては二人でそのまま電車に乗り込んだくらいだ。
 他の桜よりも咲く時期が遅い八重桜は四月半ば過ぎの今、まさに艶やかに花開いていた。ライトアップされ、群青の夜とほんのりと橙色に染まった明かりが対照的だ。はなびらが淡く光を透かしている。音もなくはらりと舞い散る様は幻想的で、日常から切り離されたような錯覚を味わえる。
 もっとも、周囲はカップルだらけで、桜から少しでも視線を逸らすと俗世そのものといった光景だ。はしゃぐ男女の声にやや趣が削られている面もあり、少し残念ではある。
(静かな場所でこんなにも多くの桜を眺めるっていうのは、無理があるか)
 それこそ山奥にでも行かなければ、静寂の中で花見など望めないものだろう。
 久幸の隣で灯は桜を見上げては無邪気に楽しんでいる。「綺麗だな」と笑みを浮かべる様は、自分のように周囲の騒音を気にしていないのだろう。
「この時期でも満開の桜が見られるなんてな。もう葉桜になってると思ってた」
「八重桜は遅咲きらしい」
「へーそうなんだ。八重桜か。花びらがたくさん付いてて、華やかだな」
 一重よりも八重の方が幾層も花びらがあり、見応えがある。一重の清楚で慎ましい姿も好ましいが、八重の堂々とした婀娜っぽい姿も人目を惹くものがある。
 はらはらと落ちてくるはなびらが灯の髪に触れて、するりと落ちていく様を見ていると灯が視線に気付いたのか久幸に目を向けてきた。
「さっき屋台があったじゃん。後で食おうな」
「おい。一瞬で食い気に走ったな」
 桜が綺麗だと見惚れていたのではないか。はなびらを掌に載せて感心していた、あの情緒溢れる空気はどこにいった。
「やー、だってさ。こんだけカップルに囲まれてるとどんな顔していいか分からない」
 気にしていないと思っていたが、どうやら灯も周りがカップルだらけである現状に思うところがあったらしい。
 しかも気まずいらしい。久幸にしてみれば自分もその内の一つのくせに、と言いたくなる。
「普通にしてればいいだろうが」
「んー、そうだけど」
「手でも繋ぐか?」
 カップルらしいことを一つでもすれば吹っ切れるか。そう思ったけれど灯は照れたように目を逸らした。
「俺が迷子になるからだって思われる。絶対」
「はぐれた時に大変だからな。これだけ人が多いと合流するのに時間かかるぞ」
 そう言いながら灯の手を探った。緩く指を絡めようとすると、灯はその手を引っ込めた。
「マジで?」
「誰も気にしてないだろ」
 カップルだらけということは、彼氏も彼女もお互いしか見えてないはずだ。余所見などしていれば相手に叱られそうなものではないか。
「……それでも、ライトアップされてるし。そういうのは家でいい」
 誰に見られるのか分からないのは恥ずかしいらしい。男同士であることに引け目もあるのかも知れない。
 寂しいけれど、自分たちがマイナーに属する性癖であることは自覚している。それに悪意を向けたり、揶揄する者がいることもまた事実だ。
 下手に傷付くより、人目のあるところでは恋人であることを隠していく。それもまた悪いことではないけれど。落胆する自分がいるのも確かだった。
「家の中で手を繋いでもいいけど。窮屈で、だいぶシュールじゃないか?」
「それより飯食う時困るな。やっぱ駄目だわ」
「おまえは本当に、食い気が勝るな」
 腹が減っているのか、と尋ねると別にと言いながら身体を寄せて来た。歩く度に、少しだけ手が触れる。握らないけれど微かに触れるそれが、灯が自分にくっつきたいという気持ちの表れのような気がした。
 手を握るよりも、くすぐったい。
 顔面がだらしなく緩んでしまいそうで、灯の横顔を確認することが出来ない。会話が不意に途切れたことが更に照れくささのようなものを増長させてしまう。
 桜を見るような振りをして視線を彷徨わせていると、見知った顔があった。
「梢」
「え?」
「梢がいる」
「どこに?」
「あの白いトレンチコートを着てる、スカートの女の子」
 二人が歩いている方向とは丁度逆側から、梢が男の人と歩いてくるのが見える。同じ道ではなく、一本横にずれた道を歩いている上に、間には桜が植わっている。木々の幹の間から見ているので一瞬勘違いかと思ったけれど、注視していると間違いなく梢だと判別出来た。
「あの女の子?一緒にいるのはお父さんかな」
 梢は一緒に歩いている中年の男性と腕を組んで、にこにこと笑顔で何か語りかけている。男性もとても楽しげであり、二人で花見を満喫しているようだ。
「一人暮らしの娘の様子を見に来たのかもな。お父さんとは仲が良いって言ってたから」
「そうなんだ」
 灯は梢をまじまじと見ている。久幸に告白をしてきた後輩がどんな人なのか、興味があるのかも知れない。
 梢とはやましいことは何もない。付き合っていたことすらないのだが、灯に見られていると思うと妙に気まずい。
「声、かける?」
「えっ、いい。なんとなくおまえに会わせたくない」
「俺があの子に嫉妬するから?」
「嫉妬するのか?」
 灯が久幸のためにそんな感情を持つのだろうか。
 独占欲なんてものを灯が見せたことはない。お互いに好意を持っているとはっきり感じるけれど、それが他人に対する牽制に変わったところはこれまで一度たりとも見ていない。
 見てみたいという好奇心と喜びが顔を出すが、灯は首を傾げた。
「さあ。分からん」
「そこはするって言ってもいいんじゃないのか?」
 期待を込めるのに、灯は「いや〜?」と微妙な反応をするだけだった。
「元カノを見られると、やっぱ嫌なもん?」
「元カノじゃない」
 彼女なんてものは一度たりとも作ったことがない。作れないことくらい灯も知っているだろうに。強く言い返す灯は目を丸くした。
「たとえばの話。怒るなよ」
「灯だったら、キスをしようと思っていた彼女を俺に紹介出来るか?」
 五歳の頃、久幸と結婚の約束をしたことが発覚したきっかけは、灯が当時付き合っていた女の子とキスをしようとしたところ相手が気を失って倒れたからだ。
 相手のことなど知らないけれど、もし久幸が会いたいと言えば簡単に会わせてくれるのか。
 灯の気持ちを探るようなことを言うのは良くないとは思ったけれど、つい口から出ていた。
「えっ、無理!」
「だろう?」
「だって絶対ユキにときめくだろ!俺を間に挟んで、ユキを好きになられたら俺の立場がない。彼女になりたいなんて相談されたらどうするんだよ!」
「そんな心配か」
「それ以外何がある」
 元カノが久幸を好きになるかも知れないなんて。久幸を買いかぶりすぎだろう。そもそもそんなに惚れっぽい女の子だったのだろうか。
「……灯が付き合っていたっていう女の子、キスが出来なかった後はどうなった?」
「俺のことを気味悪がって、すぐに別れたよ。未練なんて一切無かっただろうな」
 キスが出来ない理由を灯は正しくは伝えられなかっただろう。
 意味も分からず、灯と接触しようとすれば気を失う。そうでなくとも何かしらの抵抗感を覚えるようになったとすれば、確かに気味が悪いと感じるのも仕方がないだろう。
 だがそう思われた灯は、深く傷付いたのではないだろうか。
 横顔はけろりとしているけれど、当時は泣き暮らしたと聞いたこともある。
「理由が分かったらどうしようもないことだったからさ。俺だって諦めるしかなかったし。それからは女子とは縁のない男だけの生活だ。健全そのものだったぞ」
「俺にとっては有り難いことだな」
 灯を狙ってやってくる人がいないということだ。
(言っていることが本当だったら、の話だけど)
 灯が気付いていないだけで、灯のことを好きだった人はいるのではないか。自分にとっては、どうしても灯は好ましく、心惹かれてしまうからついそんなことを考えてしまう。
「うわっ」
「灯!」
 突然灯がつんのめった。何かに躓いたようで大きく体勢を崩す。とっさに手を掴んで引っ張り、転倒することは免れたけれどひやりとした。
 灯もぎゅっと久幸の手を握っては、身体を強張らせている。深呼吸をしてから足下を改めて確認して見ると、そこには小さな細長いものが転がっている。
「乾電池!?今時!?」
「なんでそんなものがここに?」
 公園の舗装された道に乾電池なんて物が転がっているだろうか。乾電池自体、最近あまり目にすることがないというのに、こんなところで足を取られるとは。
「先輩!」
 体勢を立て直した灯と、手を離した時だった。逆側の腕にしがみついてくる感覚に、ぞわりと背筋が粟立った。
 遠くにいたはずの梢が、そこにいる。
(重い……!)
 自分より一回り以上小柄な梢がしがみついてきた、というような重みではなかった。幾つもの鉛を腕にくくりつけられたようなずっしりとした体感に、身体が傾いてしまう。
 何故そんなにも重いのか。理解出来ずに当惑する久幸にも構わず、梢は笑顔で見上げて来た。
「こんなところで会えるなんて!奇遇ですね!」
「梢、どうして」
「たまたま先輩を見かけたので、追いかけて来ました」
 木々の隙間から見ていたのは、久幸だけではなかったということか。目は合わなかったけれど、どうやら異なるタイミングでこちらを発見したのだろう。
「追いかけてって、いいのか?」
「何がですか?」
「お父さんか誰かと一緒だっただろう」
 仲良さそうに歩いていたのに、梢はどうやら一人でここまで来たらしい。彼女の周囲にはあの中年男性の姿はない。
「見たんですか?」
「たまたま視界に入ったんだよ」
「一緒にいたのは叔父です。一人暮らしの私が心配みたいで何かと気にしてくれるんです。この近くに住んでいるから、今日はお花見に来たんです」
 父親ではなく叔父だったらしい。父だけでなく叔父とも仲が良いというのは、親戚からは可愛がられているのだろう。礼儀正しくて大人しい梢なら有り得そうなことだ。
「その叔父さんはどこに?」
「先輩に会いに行くからって、別れてきました」
「いいのか?」
「はい。叔父さんにはいつでも会えますから。それより、そちらの方は、先輩のお友達ですか?」
 梢は灯に興味を示してはにっこりと微笑みかけている。久幸が知っている梢より、愛想が良くなったものだ。大学に入って少し明るくなったらしい。
 灯は梢に微笑みかけられて、一拍おいてから同じように笑みを返す。それは言祝ぎ屋の時によく見られる、整えられた笑顔だ。
 言い換えるならば、身構えたと言える。
 久幸から梢がどんな存在であるのか聞いているだけに、警戒したのだろう。
「ユキを先輩って言うことは、後輩?」
「はい。高校時代、同じ部活でした。今も同じ大学に通ってます」
 それは嬉しそうに語る梢に、久幸は未だに腕にしがみつかれていることに気付く。灯の前でこんな風に梢にしがみつかれているのは、さすがに気分が悪い。
「梢、いい加減離せ」
「すみません」
 指摘すると梢はするりと腕を放した。その際、左手に目が行く。
(指輪じゃない)
 左手の薬指には指輪ではなく絆創膏が貼られている。怪我でもしたのだろうか。
「夜桜見物ですか?」
 久幸の腕にしがみつくことは止めたけれど、梢はぴったりとくっつくようにして隣に立っている。二人きりでいる時はこんな態度は取らないのに、灯がいる時に限ってどうしてこんなにも近付いてくるのか分からない。
 身じろぎをして梢と距離を取るのだが、その分また間隔を縮められた。
 冷たい風が吹いては久幸の頬を撫でる。凍り付きそうな空気に息を呑んでいると灯がそっと二の腕に触れた。
「桜よりも屋台のほうがメインだけど!」
 梢に笑いかけながら、久幸を支えるようにして腕を掴んできた。そのことにほっと息をつく。
「桜よりそっちですか?屋台より、この辺りなら飲食店の方がありそうですけど。この後一緒に食べに行きませんか?」
「ごめん。これから別の友達のところに押しかけて夜中まで映画を観る予定なんだ」
 付いて来ようとする梢に、久幸はとっさに出任せを言った。
 間髪入れずに返事が出来た自分を褒めてやりたい。
「そうなんですか。そこに混ぜて貰うっていうのは……」
「男ばっかりのところに女の子が一人だけ混ざるっていうのはちょっとな」
「ですよね。じゃあそれまでお花見を一緒にしてもいいですか?」
 ほころびがないように偽りを重ねるが、どうしても梢はここで離れてはくれないらしい。花見を拒絶する理由までは思い付かずに、灯を横目で見てしまう。
 灯は嫌な顔一つせずに頷いた。
「どうぞ。可愛い女の子と歩けるなら嬉しい」
 歓迎しているような台詞に梢は「良かった」と安心したような顔を見せた。反対に久幸の心中は薄暗く、また重くなったのだがそれを態度に出すわけにもいかない。
 梢が無理矢理付いてくるのならばともかく、灯が決めたことだ。
 邪険にするのは可哀相だと思ったのだろうが、灯の優しさに憂鬱が押し寄せた。


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