新入生が入って来て、学内を心許なそうにうろうろしている姿が目に入るくらいで。久幸が梢とばったり出会うなんて出来事はなかった。
 よく考えれば同じ学部といっても同学年でない限り接点もない。むしろ同学年であったとしても関わりになったかどうかも分からないほど、大学には人が溢れている。
 灯にわざわざ梢の話をしたけれど、必要なかったかも知れない。
 だが高校時代、思い詰めた瞳をしていた梢を思い出してしまい、万が一何かあったらと思うと気が気でなくあの時は先走った。
(何もないだろうって、今なら分かりそうなものだけどな)
 怖いと感じたのも、梢がわざわざここに来たことを深読みしたからだ。そしてその日は体調を崩しかけていたらしい。翌日から微熱を出しては気分が悪くなった。
 良くないタイミングだったから、梢に嫌な予感なんてものを感じただけだ。
(気にしすぎだ)
 あれから一年以上が経っている。未だに自分に気があると思うこと自体、自惚れなのだろう。
 梢がこの大学にいる、ということも気にしなくなった頃。一般教養の講義に出席するため、自分が座る席を探していた。
 一般教養は学部、学年のくくりなく大学に所属している学生ならば誰でも自由に受けられる。そのため受講生が多く、人気がある講義は大きな階段教室が使われる。
 久幸が選択したこの講義は開始前からすでに人が多かった。
 出来るだけ教室の真ん中のブロックで、尚且つ端の席が良い。というのはありがちな意識なのだろう。久幸が気に入る席は大抵すでに人が座っていた。
(今日は来るのが遅かったからな)
 どうするかと思いながら階段を上がっていると、不意に手が上げられた。
「先輩」
 こっちですと手を振っては端っこの席から一つ内側にずれてくれる梢がいた。
 この広い教室に受講生がみっちり詰め込まれるほど注目されている講義だ。梢がいてもおかしくはないのだが。目を通すのも大変なくらいの数がある一般教養の講義の中から、よくこれを選択したものだとも思う。
 久幸がこの講義を取るかどうかなど知るわけがない。ただの偶然でしかないはずなのだが、それでも驚いた。
「梢も取ってたのか」
「はい。面白そうだと思って」
 招かれるままに腰を下ろした。まさか呼ばれているのに無視して他の席に座るわけにもいかない。
 梢に対してまだ気まずさのようなものはあるけれど、それは梢が悪いわけでも、久幸自身が逃げ回らなければいけない理由もない。
 下手に避ければきっと、お互い嫌な気持ちになるだけだ。
 こうした方がまだ自然だろう。そう思って、戸惑いを隠すしかなかった。
「大学はもう慣れたか?」
「まだ、毎日ばたばたしてます。一人暮らしって思ったより大変で」
「そうだろうな」
 実家から離れて新しい学校生活を始める上に、これまで親がやってくれていた家事一切を一人でこなさなければいけなくなったのだ。
 新しいことだらけで最初はパンクするものだろう。
 久幸は一人暮らしは知らないけれど、灯と同居を始めた時は毎日あれこれ二人で話し合っていたものだ。トイレットペーパーの種類だって、二人でちゃんと相談した。
(思い出せば、灯の新しい部分を毎日発見していたな)
 ここはこういうものが好きなのか、これは嫌いなのか。そういった情報を毎日頭にインプットしていた。
「ご飯作る気力もなくて、毎日コンビニでご飯を買ってます」
「始めはそれでもいいんじゃないか?栄養なら学食で取ればいい。ここの学食もカフェも安くて美味いし、大学の外にも安くて美味い店はいっぱいあるから」
「先輩のオススメのお店とかありますか?」
「定食屋とかラーメン屋とかしか知らないぞ。女子が好きそうな店は入ること自体ないし」
「私も見た目ばっかり気にしたカフェより、定食屋さんやラーメン屋さんの方が好きです」
「そういえばラーメンが好きって聞いたことあったな。正門から出て割とすぐのところに店があるぞ」
 その店は味噌ラーメンが美味しくて、灯を連れて行ったこともある。灯は久幸が勧めた味噌と、自分が好きな塩と迷っていたので、灯が塩、久幸が味噌を頼んで分け合って食べた。
(思い出したら食いたくなったな)
 また灯を連れて行こう、と思っていると梢がぐいっと肩を寄せて来た。
「この後、連れて行ってくれませんか?」
 講義の後は昼休憩に入る。店の場所を説明するより、連れて行った方が分かりやすく、ついでに腹も満たせるのだが。久幸は「いいよ」と言えなかった。
 これ以上近付いてはいけない。
 そんな気がして、反応が遅れてしまう。
「駄目ですか?」
「この後、友達と約束してて」
「残念です。じゃあまた今度。来週のこの講義の後とか」
 口から出任せを言った久幸に食い下がってくる梢に、罪悪感を刺激される。
 同じ講義を取っているということは来週のこの時間、梢はまたこの教室にいる。次の機会が幾らでもやってくるだろう。
 毎回避けられることではない。
 一度ラーメンを食べに行くことくらい何でもないだろう。相手は気心の知れた後輩だ。
 けれど抵抗感が、久幸の声を留めてしまう。
 返事をしなければいけない。だが嫌だとも、良いとも言えずに「あー」とよく分からない声を出すと教室の前の入り口から講師が入って来た。
「あ、来た」
 梢は講師へと視線を移した。これで話題を完全に逸らすことが出来る。そうほっとしてしまった。
(安心したこと自体、酷いことかも知れないけど)
 講師が喋り始めると、ざわついていた教室も静まりかえる。マイク越しに講師は抑揚を付けて講義を開始した。大きな階段教室で講義をするだけあって、講師は人の耳を引き付ける、スパイスの利いた面白い語り口調だ。
 だが久幸は隣に座っている梢が気になって、あまり講義に集中出来ていない自覚があった。
(梢が正面じゃなくて、隣にいるのは変な心地だ)
 久幸にとって梢は正面にいることが多かった。まして二人ともじっと黙り込んでいる時は、いつだって間に将棋盤があった。
 次にどんな手を打つか、もしくはどんな手が来るか。頭の中で様々な未来を予測していた。そして梢はその中を擦り抜けてくることがあった。
 大人しい見た目と言動に反して、将棋については大胆な攻め方をする人だった。そして無謀だと思ったやり方でも、後々になればそれが久幸の首もとに刃を突き付けてきた。
 将棋盤という小さな世界の中で、駒を動かすというだけの動きで、空手をしていた時と似たような緊張感と興奮があった。心臓は随分と忙しなくて、めまぐるしく景色が変わっていくような錯覚に襲われたものだ。
 楽しかった。
(梢は、あの時何を思っていただろう。将棋のことだけを考えていただろうか)
 先輩が好きです、と触れたら火傷をしてしまいそうなほどの熱情を宿していた双眸は。いつから久幸に心を傾けていただろう。
 将棋盤の向かい側で、勝負の行方だけを見ていたわけではないのだろう。
(梢といるのは、正直楽だった)
 基本的に物静かで、年の割に落ち着いていて話が合う。好きな本や映画の話も盛り上がった。まして同じレベルで将棋が指せるということが久幸にとっては好ましい部分だった。
 幾度か、部室に二人きりになって将棋を指していたこともあった。
 部活動は気儘で、放課後も毎日来なければいけないというものではなかった。出席率は人によって異なり、久幸もあまり勤勉な部員ではなかった。
 だが梢はいつも部室にいた。聞けば放課後は大抵ここに来ていたらしい。
 そのため、二人きりになる確率も、ごく希にあったのだ。
 しかし他に部員がいようがいまいが、やることは将棋だった。
 遠くで運動部が声出しをしているのが聞こえてくる。廊下では通りすがりの女子が小さな声でくすくす笑っている。だがそれらも次第に消えていき、残されたのは二人が静かに、だが激しい心理戦を繰り広げている将棋だった。
 あの心地良い緊張感の中で、もしかすると梢は久幸のことを思っていたのかも知れない。
(でも俺は、灯のことを思っていた)
 まだ見ぬ人と過ごす時間は、梢と過ごすような穏やかさはあるのだろうか。そんなことを、考えていた。
 当時は灯の名前しか知らなかった。その名前の響き、結婚の約束という内容から女性だと思い込んでいた。
 自分と同い年だという灯はどんな女の子だろう。こうして一緒にいても息が詰まることなく、心穏やかに過ごせる相手だろうか。
 何が好きで、どんなものを見てきただろう。自分のことをどう思っているだろうか。結婚の約束をしていたことは忘れていたらしい、しかも付き合っていた人がいたそうだ。
 自分を好きになってくれるだろうか。結婚どころか、恋人になれるかどうかもまだ分からない。それぞれ異性に対する好みがある。趣味は正反対だったら、その時はちゃんと灯に合わせられるだろうか。
(これから一生を共にしていく灯に、毎日色んなことを想像していた。馬鹿みたいにつまらないことにも悩んで、憧れていた)
 自分を救ってくれた人に夢を描いていたようなものだ。
 そして嫌われたくもないなと、怖がっている部分もあった。
(まさか男だとは思わなかったけど)
 だが今思えばそれが逆に良かった。灯に対しての想像を膨らませすぎて、久幸はがちがちに身構えていたからだ。こんな子だったら、こんな風に振る舞ったほうが良いだろうなんて、シミュレーションを山ほどしていた。
 それが全部無駄になったおかげで、久幸は何も取り繕うことなく素のままの自分で灯に接することが出来た。そして灯のことも、素直に見ることが出来た気がする。
 自分たちが本来の自分たちのままで接することが一番しっくりきた。それは同居を始めたことによって痛感した。
 無駄に緊張したり、身構えたり、自分を隠している必要なんてない。そうすればきっと後々苦しくなる。
 何より偽りのない、飾っていない自分を灯に見て欲しかった。触れて欲しいと思った。我が儘でもあるその気持ちを灯は受け入れてくれた。
 そして灯にもそんな気持ちでいて欲しいと伝えている。
(灯と過ごす時間は、梢と過ごすものとは違って騒がしい時が多いし、呆れることも、怒ることもあるけど。でも、嬉しい)
 楽しいだけではない。二人でいられる時間が嬉しいと感じる。
 思えば、ずっと灯に片思いをしていたのかも知れない。
 梢を前にして別の人間を思い続けていたことは失礼だろう。言えないことばかりがあるなと思っていると、梢の指にあるものに驚いた。 「……彼氏、出来たのか」
 梢野左手の薬指にリングがはめられている。銀色の、幅のあるそれはペアリングだろうか。女性のリングは細い物が多いと思っていただけに、華奢な梢の指にそれは目立っていた。
「違いますっ……!」
 梢は久幸に指摘されると声量を上げてはっきり否定した。講義中の教室に、それは思ったより大きく響く。
 講師までは距離があり、講師がマイクで喋っているために講義の邪魔にはならなかったけれど、周囲からは注目を浴びてしまう。
「っ、すみません」
 視線に晒されて梢は身体を小さくして謝るけれど、左手を右手でぎゅっと握り締める姿は切実さを滲ませていた。
 ペアリングではないのか。彼氏がいないならどうしてそこにリングをはめているのか。そう尋ねることが出来る様子ではなかった。
 周囲は梢が謝り、黙り込んだことで視線を外しては元通りの空気へと戻って行く。だが久幸は言いようの無い重たさを感じては、そのリングが示す意味も分からないのに顔を逸らした。


next 




TOP