11






「諦めて下さい」
 久幸に、恋心を捧げては振り向いてくれと泣きながら訴える少女に、灯は残酷なことを口にした。
 他に告げられることはなかった。
 びくんと梢の肩が震える。そして小さな肩が精一杯の深呼吸をした。
(ああ、切り替えている)
 泣き叫びたい気持ちがあるのだろう。久幸に助けてくれとすがりたいのだろう。けれどこの子はそれを抑えた。きっと矜持がそうさせた。
 そして顔を上げては灯を見据える。真っ赤になった瞳はそれでも心が折れていない。
 この子は芯の強い子だ。弱く小さく見えても、逞しく生きている女性だ。
 だからこそ恋情を恐ろしいほどに深めて、捨てずにする。
 自分を信じ、貫く者は手強い。
 そしてそれほどに久幸を好きでいる気持ちが、灯には苦しいくらいに共感出来る。
「思い続けても貴方の恋は叶わない」
「貴方が先輩を諦めれば、私は報われます」
「それは出来ません」
「だったら私だって出来ない。自分が出来ないことをどうして人に押し付けるんですか?」
 先手を取ろうとするかのように、梢は灯の言葉の先を潰そうと食ってかかる。
 まして正論の殻を被った台詞は言い返すのに躊躇を与えるようなものだった。
 けれど怯めば、梢はもっと厳しい言葉を選び出すだろう。
 灯もまた息を整えた。腹に力を入れるのは、言祝ぎをする時も同じだ。
「俺たちが結婚の約束をしているのは、それが生きるためだからです」
「先輩が健康になったのは本当に貴方のおかげだって?そう言うの?」
「言いますよ。俺にはそれが出来る」
「言祝ぎ?をしているから?」
 どうやら言祝ぎというものは梢にとっては馴染みがなく、また疑わしいものであるという認識が抜けないらしい。ずっと疑問符が取れないままだ。
「そうです。俺には自らの命を縛り付けるくらいの力はあります。そうでなければ代々続けている商売が成り立たない。目に見えないものを売るんですから、信頼と、それに値するくらいの力は必要になってくる」
 詐欺師じゃないんだから、と心の中で付け加える。
「私には信じられない」
「それでも真実です。諦めなければ、貴方は辛いばかりですよ」
「辛くてもいい」
「叶わない恋を抱き続けるんですか?」
「勝手に決めないで!私はたった一人先輩だけが好きんです!これは私の運命なんです!」
「その運命は断ち切って下さい」
 そもそもそれは運命ではない。
 思い込みでしかない。
 だがどこまでも梢を追い詰め続けるのも気が引けた。
 憐れみを抱くのは彼女にとっては侮辱だろうか、どうしても沸いて来る。
「そんなことは出来ません」
「では私が断ち切ります。貴方はこのままでは幸せになれない」
「ならなくてもいい!この恋が叶うならどうなってもいい!」
「いいわけがないだろう!少なくともユキにとっては良くない!」
 自分の気持ち、恋に囚われた梢にとってはその思いだけが全てかも知れない。けれどその先には久幸がいる。
 恋を叶えるということは、久幸の気持ちもそこに深く関わり混ざり合う。それを忘れてしまった梢を、つい怒鳴りつけていた。
 自分が自分が、とつい我が事だけに頭がいっぱいになるのは分かる。梢が置かれた状況を思えば他人を思いやる余裕もないだろう。
 けれど好きな人との恋を実らせるためには自分はどうなっても良いだなんて。それでは思いを向けられた久幸が可哀相だ。
「ユキはそんなの望まない。そしてユキが悲しむことを貴方は望まないでしょう?」
 自分の恋人が苦しんでいることを良しとするような男じゃない。だからこそ久幸が好きなのだろう梢は、灯の問いかけに唇を噛んだ。
(本当に、ユキのことが好きなんだ)
 幸せになって欲しい、笑っていて欲しい。
 そう心から願うほどに、梢は久幸が好きなのだ。
「……好きなんです。苦しくて、苦しくて、死にたくなるくらいに、好きなんです」
 絞り出すような、掠れた声だった。
 自分でも、もはや気持ちの止め方が分からないのかも知れない。
(俺だってそうだよ)
 貴方の気持ちは叶いません、久幸と一緒に生きていくことは出来ませんよ。そんなことを今言われたら、きっと梢と同じように足掻き続ける。
「貴方の思いを、ここで終わりにしましょう」
「出来ない」
「いえ、終わりです」
 終わらせなければいけない。
 自分を傷付けながら、叶わない思いを抱き続けて藻掻き落ちていく。そんな梢を放っておけるわけがない。
 たとえ灯が告げる言葉の全てが、彼女にとっては悪意にしか受け止められなくても。黙っているわけにはいかない。
「貴方には他にもお似合いの人がいる」
「いない」
「いますよ。ユキが貴方にとっての全てじゃない。幸せになれる道が他にちゃんとあります」
「今更ここまで来て諦められない。こんなにも努力して、こんなにも傷付いたのに、諦めたら。私は一体何のために、こんな」
 歩んできた道のりを振り返って、梢は引き返すことを拒絶した。
 自分が抱えているものを一欠片も零したくないとばかりに、訴えてくる。
「これ以上進む方がもっと苦しい。この先は泥沼ですよ」
「貴方に何が分かる!先輩と結ばれている貴方に何が!幸せだろう貴方に!」
 梢が切望しているものを灯は持っている。この魂に刻み付けては久幸と手を握り合っている。
 それは梢にとってどれほど眩しく、恨めしいことだろうか。
 梢の感情を発露するかのように左手に絡み付いた薄暗い縄は長くなっていた。左手だけでなく二の腕近くまで巻き付いている。薬指に引っかかっている鎌は、よく見ると微妙に動いており、その下にある皮膚に食い込んでいるように見えた。
(呪い、いや彼女とってはまじないに、よほど心血を注いだんだろうな)
 心境と絡み合ってしまうほどに根深く、彼女はまじないを繰り返した。そして彼女にはその血と才能とあったのだ。
 だからこそ、その身が蝕まれている。
「必死に守り続けているものには価値があると思いたいでしょう。まして大切にしてきたものを捨てるには勇気が要る。惜しいとも思う。自分のやってきたことが無駄になるかも知れないのが怖いと思うのも当然です。だが、これ以上突き進んでも貴方は歪むだけだ」
 実際にその左手には歪みが纏わり付いている。
 包帯を染めている血の色も、先ほどより広がっていた。それはきっと灯が弾いた逆凪の傷だけではないだろう。
 じきにまじないの具現化である黒い鎌が、梢の薬指を切り落としてしまうのではないかという恐れが過ぎる。
 それほどまでに梢の恋着は、侵食という形で自身を蝕んでいく。
「このままだと左手以上の代償を払うことになるかも知れません」
「死んでもいい!」
「死ぬ程度で終わるでしょうか」
 梢にしてみれば、死は自分にとって最大の代償だったのだろう。
 大抵の人間は死をもっとも恐れるべきものだととらえている。なので梢の感覚は決して間違ってはいないとは思うけれど。灯は死が最大の苦しみだとは思わない。
 久幸の呪いを知っているからこそ。その呪いを解くために自分が行ったことを思い返せば、死のその先にも苦しみや怨嗟は存在する。
 そこに墜ちれば、生きている時よりもずっと永く苦痛を味わい続ける。
 静かな灯の表情と声に、梢はしっかりと意図を嗅ぎ取ったらしい。
 灯の視線に気圧されるように、勢いを削いでは口を閉ざした。
「俺がユキと交わした契約の邪魔をする相手がどうなるのか。俺にも分からない。それは俺の意識とは無関係なんです」
 灯の意思で止めたり、加減が出来るようなものではない。それは無慈悲に、確実に梢へ襲いかかることだろう。
 梢の視線が少し揺らぎ、それから理解したくないとばかりに首を振った。
「ユキのことを忘れろとは言いません。でもこれ以上自分を追い詰めるように恋をするのは止めて下さい。貴方はユキ以外の人を選ぶことが出来る」
「出来ない」
「幸せになることが出来ますから」
「信じられない」
「そう言祝ぎましょう。結婚に対する祝福だけじゃない、その人にとって良い縁を引き寄せるように祝うことも出来ます。貴方が最良の相手と出会うことを祈ります」
 結婚しても幸せにはなれないだろうと思われる二人を目の前にした際には、そうしてそれぞれの良縁を引き寄せようと勤めることもある。
 引き合うことが出来ない二人を無理に結びつけるのが灯のやることではない。幸せになれるように、結びつけるのが役割だ。
 梢にだって、そういう方向で役立つことが出来る。
 だが梢は更に大きく頭を振った。
「そんなの祝福じゃない!私にとっては呪いだ!」
「梢!」
「いや、祝福です。いつか幸せになれる」
 今よりずっと幸せだと思う瞬間が来る。
 力を込めて断言すると梢が大きく息を吐いた。そして血走った瞳を向けてくる。
 そこにあるのは憎悪以外の何物でもない。
「貴方が憎い。どうして貴方なの」
 この世の全ての憎しみを灯にぶつけようとしている梢に、それでも灯は胸を張って目の前に立っていた。
 微かな迷いすらも梢は見付け出すだろう。引け目などあろうものなら、鬼の首を取ったかのように灯を言葉で攻撃してくる。
 それではここにいる三人にとっての悲劇だ。
 だから凜と背筋を伸ばした。
「憎んで下さって結構です」
「ええ、憎みます」
「止めてくれ梢。俺のせいだ。灯は悪くない。憎むなら俺だろう!」
「ユキは黙ってろ」
 灯を憎むという梢に久幸が顔色を変えた。
 自分がそうされたことを思い出したのだろう。恐怖を顔に張り付かせた久幸が梢と灯の間に立とうとするので、肩を掴んでは横に避けた。
「だが!」
「ユキが何を言っても無駄!この子がおまえのことをもっと好きになるだけなんだよ!自分を憎めとでも言うつもりだろ?そう言われてこの子がおまえのことを本気で憎むと思うか?絶対憎まないに決まってるだろ。むしろおまえの優しさが分かるだけだ」
 梢を責めることなく、灯を庇っては自分が悪いことを全部引き受けようとする姿に、梢が「はい、そうします」と憎しみを久幸に切り替えるわけもない。
 むしろ自己犠牲を厭わない久幸がもっと魅力的に見えるかも知れない。
「おまえは確かに優しいよ。でもその優しさが必要な時と、傷になる時があんの」
 灯があれほど諦めろと、幸せになれない、恋情を捨てろと散々言っても梢は怒りと憎しみを深めるばかりだった。自分の正しさを、強さを握り締めていた。
 だが久幸が灯を庇って自分を差し出そうとしたことに、梢は大きな瞳に涙を浮かべてしまった。吐息が震え、嗚咽が漏れ始める。
 ぽろりと涙が一つ零れると、それが合図だったかのように次々と涙が流れ始めては白い頬を濡らす。
 それを血が滲んだ包帯で拭う様は、あまりにも痛々しい。
 膝を折ってへたり込んだ梢は、もう小さくか細い一人の女の子でしかなかった。
 それまでずっと精神を張り詰めて、自分を大きく見せていたのだということが、灯の目にも直視するのが躊躇われるほどに分かる。
 泣かないで欲しい、慰めたいとも思う。けれどそれは梢をもっと辛い気持ちにさせる。
(きついなぁ……)
 人を好きになる気持ちは素晴らしい、幸せになれるものだ。同時に地獄に落ちるような苦しみも持っているとは知っていた。
 だがそれまで自分が渦中に立ったことはなかったのだ。
 今そこに置かれて、これほどに報われないものなのかと不条理さに言葉も出ない。
 人を好きになるということはこういうことなのだと。初めて知った。


next 




TOP