12 (すっげえ落ち込んでる) 部屋に帰って来ると久幸はローテーブルに突っ伏しては重苦しい溜息をついた。 ずっと肩を落として憂いの色濃い顔はしていたけれど、自宅に戻って緊張も切れたのか、鉛でも背負わされているかのように重たそうな身体で俯いたまま動かなくなった。 そっとしておくべきなのだろうと、灯はローテーブルを挟んで向かいに座ってはただぼーっと久幸の後頭部を眺めていた。 形の良い頭だ。中身も実に優秀なのだから、今後も多くの人間が久幸を欲しがることだろう。 (俺はこれから何度も、誰かの思いを断ち切らなきゃいけないんだろうな) 今日のように胸が痛むこともおそらくあるのだろう。けれど誰よりも何よりも、この手を離すことは出来ない。 ずっと胸を張って、折れることなく立ち向かって行くだけだ。 「綺麗に思いが断ち切れるように、振ってやれば良かった」 久幸はぽつりと呟いた。静寂の中に投げ込まれた独り言に、灯は苦笑してしまう。 「それってどんな方法?」 「……人間として最低なんだぞって、そういうところを出すべきだったとか」 重たい頭をゆっくり上げて、久幸は悩ましげに呟いた。眉間の皺が随分と深い。 「最低じゃないんだから、そんなの出しようもないだろ」 「その場限りでも」 「あの子のために最低な男になろうとしたってのがバレたら、もっと好きになられるだろうな」 「バレなきゃいい」 「絶対にバレるよ。日頃の行いでさ」 どれほど最低なふりをしたところで、久幸は善良で、誠実な人間だ。それは言動の端々にどうしても滲み、無意識にその優しさを滲ませることだろう。 人間の本質なんてそう簡単に隠せはしないのだ。 そして梢はきっと、どう偽ったところで久幸の本質を見抜いた。 灯と対峙した時の気の強さ、そしてほころびを探っては決して見逃すまいとしている怜悧さを持っていれば、相手の性根がどんなものか見極められることだろう。 「だけど、灯が憎まれるなんて」 「俺は平気。ユキと一緒にいることで嫉妬されるのも、憎まれるのも、それは受け入れる。それ以上のものを得ているから」 梢の気持ちがよく分かるように、久幸を欲しいと思う人間の気持ちも自分への嫉妬も理解が出来る。そしてそれを向けられることを、仕方がないと思える。 人の気持ちを止めることは出来ない。 何よりそんな気持ちを向けられても、めげることなど有り得ないだろうと確信出来るほどに、久幸と一緒にいることは心地良い。決してこの居場所を失いたくないくらいに気に入っている。 「俺は灯が憎まれるなんて嫌だ」 「そうか?」 「だって不快だし、気味が悪いだろう。憎まれるなんて」 「全人類に嫌われずにいるなんて無理だ、人には相性ってものがあるんだから。普通に生きてるだけで嫌われることだってある。ユキと一緒にいることでほんの少しばかりその率が上がったところで、俺は構わない。むしろユキと一緒にいるためなら望むところだって感じだな」 「……どうしておまえは強いんだ」 「強いっていうより開き直り」 「開き直り?」 「そう。俺は家族や周りの人たちに大事に育てられてきた。誰に嫌われても、俺のことを好きでいてくれる人がいる。家族とか、ユキとかさ。絶対的な愛をしっかり持ってるから、俺は怖くない」 嫌われても別に気にしない、なんて簡単には言っているけれど。やはり悲しいという気持ちはどこかにはある。嫌われるより好きになって貰った方が気分は良い。 だがそれが願えなくても良いと思えるだけのものを持っている、というだけだ。 この世の誰に嫌われたとしても、絶対自分のことを好きでいてくれる。裏切らず愛してくれる。そう信じられる存在がいるから、自分のことも信じていられる。 自分の言葉に力も込められる。 愛され大事にされてきた経験と信頼が、灯の背中を真っ直ぐ伸ばしてくれる。 「……義姉さんに言った事と、同じだ」 「そう。愛されて育てられた子は強いよ。久幸だってそうだ」 生まれた時から家族の確かな愛を握り締めて育てられた子は強い。絶対的な味方がいるということがどれほど心強く幸せなことか。久幸だって知っているはずだ。 「……俺は、弱いよ。嫌われることが怖いんだ。憎まれることが怖い。俺は憎まれて、疎まれて殺されかけたから」 好きな人の息子。それだけの理由で久幸は生まれたばかりの頃から呪われた。 しかもつい最近までその呪いが続いていたことが、久幸の人格にも深い影を落としているのは、灯も気付いていた。 嫌われるのが怖い。その心理も梢と接している久幸から察してもいた。 「ユキのせいじゃない。あれはユキには何の責任もないことだ」 「分かってる。俺のせいじゃない。でも逆に言えば、どんなきっかけで憎まれて、命を狙われるか分からないってことだ」 (そう考えたか) 自分のせいではない。それをこうして逆に捉えて、全てが理由に繋がると考えるとはネガティブというか。 (それだけ抗い難い、記憶なんだろう) 「だから出来るだけ嫌われないように良い子でいようとした。無害そうな人間でいることでリスクを減らすつもりだったんだ。その方が安全だと思い込んでいた。だけど今回は裏目に出たってことなんだろうな」 「モテるのが裏目に出るなんて珍しいことだからな」 人に好かれることは、大抵は良い方向にいくものだが。そこに恋愛が絡んでくると風向きが変わる場合がある。 今回はそれにかなり特殊な事情が重なった結果だ。 「ユキがそうして良い子でいようと振る舞うのはもう性分みたいなものだろうけど、俺に対しては自由でいて欲しい」 嫌われないように人に優しくしてしまうのは、もう久幸に染みついた習慣なのだろうと思う。育ちの良さもそこに加わって、久幸と善良さや優しさは切り離すのが難しいものになっている。 だが出来ることなら自分の前だけは、良い子でいようという意識も休めて欲しい。嫌われるかも知れないなんて、そんな気持ちは不要だ。 「灯の前では自由でいる」 「本当に?」 「ああ、灯には好かれようとか、嫌われないようにとかあんまり意識してない。もし意識していたら、おまえの学力を知った時に馬鹿だなんて言ってなかったはずだ」 「確かに……」 結婚の約束をしていたことが発覚した後、初めての両家の顔合わせで久幸は灯が男であることに嫌な顔はしなかった。だが灯の学力が低いことに対しては、あからさまなほどに落胆した上に、馬鹿は許せないとはっきり言ったのだ。 「灯といると、ほっとする。身構えなくていいようなそんな気がしていたんだ。だから最初から素直だった」 「それは何よりだ」 久幸の頭をそっと撫でると、くすぐったそうに目を細めた。その様は優しげなのにどこか色っぽくて、こういうところが人を惹き付けるのだと感じる。 「これからは良い人ぶってるのも駄目ってことだよな。素っ気なくしてた方が、逆に安全かも知れない」 「モテないように気を付けるってことか?」 「まあ、そう言えるかもな」 真面目くさった顔でそう言われて言葉に詰まる。久幸にとっては真剣そのものなのだろうが、灯からしてみればとんでもない発言だ。これまでの人生でそんなことを言い出した人はいなかった。 「すげえ悩みだな。モテる術に悩むならともかく、モテないように気を付けるって」 「他に方法が思い付かない」 モテない男たちからすれば贅沢な悩みだと非難されるかも知れないけれど、久幸にとっては重大な問題だ。 そうは思っても、灯にも共感するのは難しいような台詞だ。 「あんまり思い悩むなよ。俺たちの間に干渉をされても、はじき返すことが出来るんだから」 「言祝ぎの契約か」 「言い換えれば呪いだ」 「祝福だ。俺はそうとしか思えない」 言祝ぎの力を呪いだと言い放った梢の声が頭の片隅に残っている。灯自身もそうだなと納得するものだからだろう。 しかし久幸はそれを真っ向から否定してくる。灯の言祝ぎが好きだという男の、真摯な姿勢だ。 「ユキがそう思うなら、そうだな。祝福だ」 二人ともがそう感じるのならば、それは幸福に満ちたものになる。 人の心構え一つで、物事はがらりと見方を変える。 言祝ぎをしている時には当たり前のものとしているその考え方を、伴侶から教えられて笑みが零れた。 久幸が一般教養の講義が行われる教室の一番端の席に座っていると、すぐ隣に誰かか立った。ふと顔を上げると、梢がそこに立っている。 むっとしたような顔はあまり見たことがないものだ。まして自分に向けられたことはこれまでなかったような気がする。 しばらくぶりに見た梢にぎょっとして固まってしまう。 灯と共に部屋に行って以来、ずっと梢とは顔を合わせることがなかった。大学に来ていたかどうかも分からない。メッセージが送られてくることもなかったからだ。 「びっくりしないで下さい」 「梢、おまえ」 「席詰めて下さい」 奥にはまだ席が空いている。詰めてと言われて、思わず身体が動いていた。久幸が座っていた席に梢は当然のようにして腰を下ろす。 そして荷物を膝の上に置いては、溜息をついた。 「いきなり先輩のことを諦めろって言われても無理です」 「だが」 「分かってます。またこんな目には遭いたくありません」 梢は左手を久幸に見せてくる。まだ包帯を巻いているけれど、指先は露出していた。多少は良くなったのだろう。 「左手は、少しは良くなったのか?」 「はい。お医者さんで薬を貰って、少しずつですが治ってきてます」 「……本当に、火傷なのか?」 逆凪は一体どのようにして梢に降りかかったのか。 部屋に行った時には何も問わなかったけれど、薬で治りつつあるということは普通の火傷と大差ないものなのだろうか。 「ガスコンロに火を付けた時、いきなり左手に燃え移ったんです。すぐに水に付けたのになかなか消えなくて、おかしいとは思ってました。おまじないを返された代償だと言われた時に、不思議と納得してました。そう思うしかないほどに不自然な燃え方をしたので」 水に付けてもなかなか消えない火が普通であるはずもない。おそらくその時に、何か自然ではないものが働いていることは、梢にもぴんと来たのだろう。 「もう二度と、あんなことはしないでくれ」 誰もが傷付くだけだ。 心から願う久幸に、梢は凜とした眼差しを向けてきた。 それは将棋盤を間に置いて対局をしている時にも見せてきた、理性的で芯の強い、強さそのものだった。 「私、先輩への思いを大事に育てて来たんです。花を育てるみたいに、水をやって光を浴びせて、肥料もたっぷりあげてようやく蕾をつけたかも知れないってところだったんです。それがたとえ花開かなくても、いきなり枯らすことなんて出来ません」 言い切った梢はどこか晴れやかですらあった。 灯に諦めろと言われてからずっと、梢は自分の恋と向き合って考えて、悩みもしたはずだ。そして導き出した答えが、これなのだ。 その答えはきっと梢にとって最良なものなのだろう。 迷いが一切ない梢に、久幸は棘を幾つも飲み込むような心境だった。 「花が開かなくても、まだ育てるのか」 「はい。それに花じゃなくて木かも知れません。花が開かないことは何も、そんなに悲観することじゃないって思ったんです。成就することが、全てじゃない」 「そうか……」 「はい」 諦めた方が楽になれる。そう分かりながらも諦められない。その苦しみを梢はこれからも抱える覚悟を決めたということだろうか。 (もし俺が梢の立場だったら、灯が別の人と付き合っていて、その人が運命の相手だと言われたら。俺はやっぱり駄目だろうな) 付き合えないと言われて、その場で綺麗に引き下がれる気がしない。 梢のように堂々と、気持ちを抱えて生きて行くと宣言する未来の方がずっと身近だ。 「先輩。そうやって優しい目で見るから、女の子が好きになっちゃうんですよ」 同情とも憐れみとも付かない、ある種の共感を抱いていると梢が苦笑を浮かべてはそう苦言を呈す。どんな目をしていたのかは分からないけれど、きっと梢に気を持たせるようなものだったのだろう。 「先輩のそういうところ、たちが悪いと思います」 「すまん」 慌てて目を逸らすと梢がくりすと笑ったようだった。 それは灯を憎むと言った時とは随分雰囲気が異なる。薄暗い表情は抜け落ち、その代わりにどこかどっしりとした落ち着きを持っている。 心境の変化が表に現れているのだろう。 「私、二人の間に割りこめないかずっと考えてます。あの約束に弾かれないように、怪我をしないように、どうやって割りこむか」 「無茶だ」 灯との契約は強固であり、邪魔なものはおそらく一切許さない。おおよそ人知を越えた部分で結ばれる契約というものは、譲歩や例外を認めないものだ。 その証拠が未だに左手に残っているというのに、梢は顎を引いては久幸を見据えた。 「無茶は承知です。でも私、強いので」 その言葉に違うことなく、梢の声は力強い。 恋をした女はどこまで逞しくなるのだと、眼前に突き付けられた。 了 |