1 この世でたった一人だけの人と出会うことが出来た。 私はその時、確かにそう思った。 この人が好き。一生この人を見ていたい。他には何もいらない。一緒にいられるその時が、永遠に続けばいい。そうすれば私はずっと幸せでいられる。 笑いかけてくれるその姿は、瞼の裏に焼き付いて、目を閉じればいつでも見ることが出来た。 側にいたい。 愛してくれなくてもいい。 貴方に愛されることなんて望まない。 だから愛することを許して欲しい。そうじゃなきゃ、私はきっと生きていけない。これまで貴方を知らずに、どうやって息をしていたのかも分からないの。 貴方がいない世界がどんなものなのか、もう思い出せない。 愛することは素晴らしいと言っていた人がいた。その時はよく分からなかったけれど、今なら痛いくらいに分かる。 愛することは本当に素晴らしいことだ。それまでの人生を全て変えてしまう革命だ。 変わってしまった私は、変わってしまった世界は、貴方なしでは存在出来ない。 だからどうか、貴方の側にいさせて下さい。 私の愛が貴方の元にありますように。 たとえ貴方がそれを受け取らなくても、私の愛はそこで生きていける。 大学受験のことを思い出すと、自分の結果よりも灯の結果をずっと気にしていた記憶しかない。 模試の結果からして、久幸は志望校を落ちることはないだろうと太鼓判を押されていた。実際試験の手応えは感じていたので、そう不安はなかったのだ。 それに比べて灯は試験が終わった後、繋がっているパソコンの画面の向こうで青ざめていた。不安というより恐怖に近い表情だ。 出来なかったということは問いかけるまでも分かった。滑り止めの大学もあるので、浪人することはないだろうが。そうなった場合、二人で住むための部屋をすでに契約しているために都合が悪くなる。 なにせ灯が通う予定である大学の近くに部屋を借りたのだ。滑り止めの大学に通うにはかなり時間がかかる予定だった。 それに久幸が通う大学からもその部屋は少し離れている。 もし灯が第一志望に落ちた場合、何のためにそこに部屋を借りたのか分からなくなってしまう。だからこそ灯の試験勉強に、久幸は尽力した。それはもう灯が「もう勉強したくない。頭から煙りが出る」と泣き言を口にしても、追い込みの時期は聞き入れなかったくらいだ。 あの苦労が水の泡になるかも知れないという恐れは、久幸にとっても恐怖だった。 その分、合格が分かった時には人目も気にせずに歓喜した。 インターネットで調べることが出来るというのに、二人でわざわざ大学に張り出される合格番号を見て行って、抱き合った。 あの瞬間は忘れることは出来ない。 久幸にとっての大学合格の思い出は、灯一色になっている。そのため自分が通っている大学の合格発表に喜んでいる、高校生と思われる集団を見ても大した感想は沸いて来ない。 大学の図書館に用があって、たまたま通りがかっても横目でちらりと見ただけだ。 彼らの喜びの声も他人事として興味もなかったのだが、不意に後ろから肩を叩かれた。 「先輩」 懐かしさを感じる、高く澄んだ声。振り返るまでもなく誰であるのかは分かった。 同時に衝撃を覚えては、息を呑む。 「梢」 名前を口にして、顔を向けると思っていた通りの少女がそこにいた。 口元を見せるように、ぐるりと首もとに巻いていたマフラーを少し下げる。小さなピンク色の口が笑みを描いては「お久しぶりです」は嬉しそうに告げた。 久幸が知っている彼女は肩に触れる程度の長さをした髪だったけれど、今は肩より伸びている。少し大人っぽくなっただろうか。 「久しぶり。梢、まさかここを受験したのか?」 「はい!無事合格しました!これからまた先輩の後輩になります!宜しくお願いします!」 腰を折って頭を下げた梢に、ぶわりと高校生の頃の記憶が蘇ってくる。 約一年前にこの後輩と共に母校で過ごしていたのだということが、鮮明に思い出された。 自分よりずっと小さな後輩が自分の後ろを付いて来た光景に、後ろめたさのようなものを抱いたことも。 「後輩って、梢は何学部だ?」 「先輩と同じです」 ダブルピースで主張してくる。合格発表見た後なのだ、誰に対してもその喜びを伝えたい気持ちは分かる。だが「そうか」と頷いてやることくらいしか出来ない。 「頭良かったもんな、おまえ」 「それ自慢ですか?」 「あー、そういう意味じゃなくて。ほら、なんつーか……どんな言い方しても、もう無理か」 決して低いとは言えない偏差値を持つ大学だ。その中でもレベルが高いとされている学部に入って来た後輩を褒めるということは。自分の所属している場所を自慢することにもなる。という簡単な構図を読めなかった自分が悪いのだ。 事実久幸は自分の頭の出来が悪くない、世間で言うならば良い部類に入ることは理解している。 ただ鼻にかけるような言い方をしたのは失敗だった。 「先輩に憧れて、記念受験のつもりで試験を受けたんです。でも無事に受かりました!」 「そうか、良かったな。でも実家から通うのは難しいだろ。一人暮らしをするのか?」 「はい。学生寮に入るつもりです。先輩も学生寮ですか?」 「いや、俺はちょっと離れたところに部屋を借りてる」 「離れたところに?どうしてですか?」 「んー、まあ色々」 久幸がバイクで通学しているのに、親元から離れていることを知ると大抵の人は不思議がる。どうせなら大学の近くに住めば良いのにと、至極当然の質問をされるのだ。 親戚と同居しているから、家賃を折半した方が経済的だから。なんてことを説明しているのだが。梢にはそんな説明をするのも憚られた。 なんとなく、今の自分のことはあまり語らない方が良いような気がしたのだ。 「事情があるんですね」 「大したことでもないけど」 「先輩って秘密主義なところがあるから、そのリアクションは慣れてます」 自分のことを他人に教えるのは好きじゃなかった。 余計な感情を持たれたくなかった。それに自分のことを教えるということは、なんとなく自分の弱みを見せるような気がしていた。 幼児の頃から命を狙われていたせいか、何事に対しても警戒をしてしまう性格になってしまった。 だが最近は灯に対して自分のことをあれこれ細かく喋っているから。去年までの自分は自分のことを語らなかった、ということすらもどことなく遠いことのように思えていた。 「でも大学のことは教えて下さい。どこの学食が美味しいとか、先生のこととか、学科のこと、あとサークルのこと。先輩はサークル入ってますか?」 「入ってないな。バイトばっかしてる」 「バイト……どんなバイトですか?」 「ドラッグストアだよ」 「へー……」 ドラッグストア、と梢は小さく呟いた。 「この辺の店じゃないから」 悩んでいるような素振りを見せた梢に、まさか同じところでバイトがしたいなんて言い出すんじゃないだろうな、とひやりとした。 慌てたような言い方に聞こえたのか、梢はくすくす笑った。 「押しかけたりしません。そりゃあ先輩がいるところでバイトをしたら、楽しいと思いますけど。でもやりたいバイトがあるので」 「へー、どんな?」 「飲食店です。居酒屋さんとか。ほら、まかないが食べられるって言うじゃないですか。私一人暮らしをするのにお金がかかるから、少しでもお金を浮かせたくって。それに料理も覚えられるだろうし」 「ああ、なるほど。梢は料理上手だし、向いてるかもな」 部室に手作りのお菓子を持ってきて、部員たちに振る舞ってくれていたのを思い出す。焼き菓子が多かったけれど、手間がかかるだろうパウンドケーキやチョコレートを持って来ていたものだ。 弁当もたまに手作りをしているらしく、中身を見せて貰ったことがあるのだが美味しそうなものだった。小さな弁当箱に彩りのある品を幾つも詰めて、可愛らしいピックやバランを使っていた。女の子らしい子なのだと印象に残っている。 「上手ってほどじゃないです」 小さく顔の前で手を振って照れる梢の様は、高校時代はよく見ていたものだ。 (変わってないな) そう思って、苦いものが込み上げてくる。 本当に変わっていないのだろうか。 「これからもまた、先輩と同じところに通える。勉強が出来ると思うと、楽しみです」 「そうか」 「どこかのサークルに入るつもりはないんですか?バイトが忙しいですか?」 「うん。今のところは考えてないかな」 「そうですか」 本当はバイトが忙しいせいなんかじゃない。残念そうな梢には申し訳ないが、サークルに入ると何かと時間の拘束をされそうだから嫌なのだ。 特に土日祝日などに、サークル活動をすると言われても到底参加する気持ちにはなれない。 (言祝ぎに付き合いたいから) 灯が言祝ぎをするならば、極力その場にいたい。何が出来るわけではない。ただ見ていることくらいしか出来ないけれど、灯が言祝いでいる場にいたい。 祝福をしている灯の有様が好きだ。そして言祝ぎによって幸せそうな顔をしたり、これからのことを真剣に相談している依頼人たちを見ていると、夫婦というものだけでなく、人生や、人の営みや、繋がりについて考えさせられる。 あの空気を感じると、ぴんっと張り詰めたものが自分の中に出来る。それを感じるのが、心地良かった。 「良かったです。先輩と同じ大学に通うことが出来て」 心底嬉しそうにそう告げた梢に、決して本人には言うことが出来ない感情が過ぎった。 next |