幕間 3 「向かい合った瞬間に、彼女が不安を抱えてることは分かってた。言祝ぎをしてる間中、ずっと俺に何か言おうとして、だけど決心出来ずに揺れてたんだ。だから話してくれた時、なるほどこれだったのかと思った」 灯は言祝ぎから帰宅して、自宅で牛丼を食べ終わるとそう言った。今朝から潔斎の気持ちを込めて白飯と漬物と塩しか食べていなかったので、味の濃いものが食べたかったらしい。 お腹もいっぱいになって、上機嫌で数時間前の言祝ぎを思い出したようだ。 「彼女にとって、それはものすごく大事で、怖いことだったんだ。きっと周りは簡単に乗り越えているのに、なんて思ったんだろうな。自分だけがちゃんと出来てないって後ろめたく感じてた」 言祝ぎが始まる前から依頼人は緊張しているようだった。 勝手も分からないような儀式を受けるのだ。まして目に見えない言葉だけのやりとりが何になるのか、分からなくて気を張っているのだろうと久幸は捉えていた。 けれど彼女はずっと、性行為が苦手だという話を打ち明けるかどうか、迷い続けていたのかも知れない。 (コンプレックスになってたのかもな) 結婚するにあたってそれは避けられない行為だと思い込んでいたとすれば。彼女にとって重圧だっただろう。 「もし行為自体が嫌いで、生理的に受け付けられないなら。彼氏に行為自体について考え直すように助言したけど。彼女は嫌いではないようだった。苦手、正解が分からないって感じだったんだ」 「正解か」 「そう。彼氏も同じ。二人して、正解を探してたんだ。だから上手くいっていない気がして焦ってた。だけどお互いには言えなかったんだよな〜」 「気遣ってたから?」 「そう。相手に悪い気がしてたみたい。行為が苦手だ、よく分からないなんて。相手のことが好きじゃないって思われそうで、不安だったんだろうな」 「まあ、真面目で優しそうな人たちだったからな」 お互いのことを大切にしたいという気持ちは、喋っている間に感じ取れた。 付き合って三年が経っているらしいが、相手に対する配慮を欠かさない様子だった。長くなっていく付き合いに、相手への思いやりがおざなりになる人たちが多い中。二人の形は理想的であるように見えた。 けれど気遣いをしているからこそ、伝えられずにすれ違いも生まれてくるようだ。 「お互いを想い合っていることははっきりしていたから、正解なんてないって伝えれば大丈夫だと思った」 「ゆっくりと?」 「そう、ゆっくりと、手を繋ぐところから始めればいい」 手を繋ぐ。そう灯が言った時に、久幸も少し驚いた。 初歩の初歩、付き合っていなくても出来るようなことだ。 けれどそれは身体の接触の面だけでなく、気持ちの面の意味でもあったのかも知れない。 「久しぶりの言祝ぎだったけど、素敵な二人で良かった」 にこにこと灯は嬉しそうに語る。 あの二人はきっと幸せになるだろうな。そう呟いた灯の、心から人の幸せを自分のことのように思える、素直で情の深い様に自然と手が伸びていた。 そして右手をぎゅっと掴む。 「……何これ」 あぐらをかいていた灯は、ラグの上に着いていた手が久幸に取られたことにきょとんとした。 「手を繋ぐところから始めた方がいいんだろう?ゆっくり進めよう」 久幸としては冗談ではなく、真剣に口にしたつもりだが。灯はぽかんと口を開けた後に、久幸の手を振り払った。 「俺は、苦手だなんて言ってない!」 「でも納得はしてないだろ」 性的な接触について、灯が抵抗感を抱いていることは分かっていた。 いくら結婚相手として決められていたとしても、同性同士で性的な行為に至るのが、灯は納得が出来ないようだった。異性に対してしか恋愛感情を持ってこなかったらしいので、男相手では飲み込めない戸惑いが浮かんでいた。 男とスるなんて絶対に嫌だ。気持ち悪いと言われたならば久幸も諦めた。久幸自身も恋愛も性欲も女性にしか向けてこなかったので、気持ちは分かる。 だが灯は「なんでだよ!」と久幸に文句を言いながらも、キスを受け入れる。愛撫をしても、嫌悪は見せなかった。気持ち悦いと、ちゃんと教えてもくれた。 だが久幸が性的なことを匂わせると、一目散に逃げていく。 困惑が色濃い様に、いつも久幸は深追いはしなかった。 「セックスがどうしてもしたいわけじゃない。だけど、出来ればいいなと俺は思ってる」 「せっ……よく、よく言えるな!」 「言えるだろう、別に」 セックスという単語を言うだけでも灯は抵抗があるらしい。中学生かと思ったが、ここでからかってへそを曲げられても困る。 「次に休みが被った日は、ぴったりくっついて過ごしてみるか?少しは意識も変わるかも知れない」 特別なことは何もなくていい。二人で一緒にいられるならば、丸一日部屋でぼーっとしていても構わない。 あの女の呪いが戻ってくるまでは、一日家で何をするわけでもなくぼんやり過ごすなんて、時間が勿体ないと渋っただろう。けれど灯が呪いを解いてくれてからは、灯の側にいられるならば、時間なんていくらでも費やせるのだと気が付いた。 側にいたいという気持ちが、久幸の中に息づいているからかも知れない。 灯の傍らは居心地が良い。もしかすると初めて口付けた時に、身体がそう理解したのかも知れない。 灯は久幸に見詰められて、次第に頬を染めていった。 「おまえは、きっと平気だろうけど!」 「は?」 「こんなことしても!べたべた触っても!どうせおまえは平然としていられるんだろうけど!俺は違うんだよ!」 何故か灯は威嚇するように声を荒らげる。しかし赤面しながら怒られても、さっぱり怖くない。 「違う?」 「おまえより俺の方が性欲があるってこと!」 「は?なんて?」 突然性欲の話になって、久幸は耳を疑う。 聞き間違いかと思ったが、灯は赤くなった目元で睨み付けてきた。 「おまえはそんなに抜いたりしてないだろ!だけど俺はおまえがいない間に結構頻繁に抜いてんだよ!おまえより性欲があんの!」 そんな告白をされて「はあ」と曖昧な返事をしていた。 自慰をする間隔の話をされて、一体何が始まるのか、話の矛先が見えずに迷子になる。性欲が強い弱いなんて、考えたことがなかった。 そもそも自慰について、追求したいと思ったこともない。そこは触れないのがマナーではないだろうか。 「だから!手を繋ぐだけでも!変な気分になるだろうが!」 「なるのか」 「いやならないけど!たぶん!手を繋いでるだけなら大丈夫だと思うけど!だけど手を繋いだ後に、エロいことしようと思ってるかも知れない。これはエロいことへの第一歩かも知れないと思うと無理!」 「エロい気分になるのか」 「たぶんなる!まして一日べたべたされてみろよ!もしかしてなんて思うだろ!」 「興奮するのか」 これまでだって手を繋いだり、べったり身体が密着することは多々あった。 お互いスキンシップにはそれほど抵抗がない。プロレス技をかけあったことも、柔道の真似事をしたこともある。大体男子大学生二人なんて、それくらいドタバタと馬鹿なじゃれ合いくらいするだろう。 それでも灯との間に気まずさなんてなかった。勿論性的な雰囲気もない。むしろ小学生の昼休みの方が近い。 なのにここに来て、手を繋いだり、ぴったりとくっついて過ごすだけで、性的な気分になるとは。衝撃的な変化だった。 (やっぱりお互いのものを手で愛撫するのは、衝撃的な変化になったんだな) 灯の中では革命のようなものだったのかも知れない。 「ユキの阿呆!馬鹿!なんでこんなことになってんだよ!俺はエロ動画よりおまえとの記憶で抜く羽目になってんだぞ!」 「へえ。エロ動画観てないのか?」 まさかあの夜の記憶が灯のオカズになっているとは。男に興奮されているという話はあまり愉快ではないものだが。それが灯だと思うと、妙にわくわくしてくる。 そうなればいいのに、なんて心のどこかで企んでいたのかも知れない。 「エロ動画だって観てるよ!だけど思い出すだろ!ああ、ユキはこんな風にはしなかったなとか。こういう手付きがいいのかなとか!」 「俺も思い出す」 アダルト動画を観るのは何も灯だけではない。久幸も、そういう気分の時には使うのだが。灯に触れてからは、あまりアダルト動画に魅力を見出さなくなった。 「エロ動画より、思い出した時の方が抜ける気がしないか?」 「抜ける」 「そういうことだよ!」 「だったら俺たちは、同じだな」 感性が似ていて良かった。 そう久幸は何でもないことのように口にしたのだが。灯はそれに撃沈した。 「こんなことになるなんて思わなかった……!」 (まあそれには概ね同意するが) だが久幸にとっては全く悪くない、それどころか自分がこれまで思い描いてきた人生の図より、ずっと眩しいものに思えた。 next |