幕間 2






 言祝ぎをする。そう灯の口から聞いた時に久幸は「そうか」と至ってシンプルな返事をしていた。けれどその声が喜色に溢れていたのが、自分でも分かる。
 あの女と対峙して、祟りを呼び寄せてから四ヶ月が過ぎていた。季節はすでに秋を通り越して冬を深めている。
 灯の調子は日に日に良くなっており、目に見えないものたちの声も聞こえなくなったと言っていたけれど。言祝ぎを再開すると決断はしなかった。それが灯の中にまだ薄闇が纏わり付いている証のようで、ずっと気がかりだった。
 もしかして祟りを呼び寄せたことで、変調をきたしているのではないか。言祝ぎに支障が出ているのではないか。
 灯に尋ねてもそんなことはないの一点張りだった。けれどそれは久幸を安心させめるための嘘ではないか、真実は異なるのではないかと、悩み始めるときりがなかった。
 けれど言祝ぎを再び行う日が来たのだ。
 灯は言祝ぎをする日は朝から潔斎をする。それに久幸も付き合った。
 言祝ぎには出来るだけ同席出来るようにスケジュールを調整して、灯と同じように身を清めているけれど。今朝は特に神経を研ぎ澄まして灯を見詰めていた。
 前回までと違う部分はないか。灯に不安そうなところはないか。一つの違和感も見逃すまいと注意していた。
(俺のせいで灯の言祝ぎに何か問題が生じたなら、俺はこの先どんな償いをすればいい)
 自分一人で償えるような罪ではないだろう。
 灯の言祝ぎの力は、人を幸せに出来る素晴らしい能力だ。人間一人の努力や命であがなえるものではない。けれどそれでも、自分に出来る限りのことならば何だってするつもりだった。
 久幸の心配と覚悟も知らず。灯はいつも通り落ち着いた様子だった。気負う態度もなく叔父の神社に向かい、そして身支度を調えて依頼人と向き合った。
 障子を通して陽光が室内を明るく照らしている。緑の深い畳は清々しい香りがして、懐かしさを覚えた。二人暮らしの部屋には和室がないからだろう。
 鎮守の森から鳥の鳴き声が微かに届いてくる以外には物音のしない、静かな空間だった。
 俗世から隔離された清浄な空気が満ちている。それは神社という場所がそうさせるのだろうが。白衣を纏った灯の、穏やかながらも凜然とした様子が、その神聖な場を作り出す一つの要素になっているだろう。
 灯は依頼人の前で背筋を伸ばして、優しい声音で彼らの今後を予想した。
 二人から大した情報も聞いていないのに、これから結婚するにあたり、二人が知っておいたほうが良いこと。心構えや注意などを次々述べていく。
 それが全て彼らの性格や、周囲との関わり、環境、人生の大きな転機などに絡めたものになっている。
 言祝ぎを依頼した、結婚目前のカップルは灯の口から聞こえてくる助言に目を丸くしては、次第に敬意を抱くのが見えた。
 灯が部屋に入ってきた時は、明らかに「こんな子どもが?」という詐欺師を見るような顔をしていたのに。今はそれが一変している。
 祟りを呼んだ程度では、灯の言祝ぎの力に影響なんてなかった。
 灯の才能は、揺らいだりしない。そう実感して、自然と目の奥が熱くなった。
 言祝ぎを受けているカップルに面識のない、灯のお付きとして同席しているだけの久幸がいきなり泣いてしまえば、きっとカップルが動揺するだろう。なのでかろうじて涙を零さないように耐えるが、油断すれば頬を濡らしてしまいそうだった。
 それほどに、灯の力を陰らせてしまうのが怖かった。
(良かった)
 灯の横顔に心から安堵していると、不意に女性が前のめりになった。
「あのっ」
 上擦った声には、すでに灯に対する不信感はない。それどころか逆に信用が滲んでいた。だからこそ、その声は部屋に大きく響いた。
「こんなこと、貴方のような若い人に訊くのは、すごく迷惑だろうし。失礼かも知れないんですが」
「大丈夫ですよ。何でもどうぞ」
 十歳近く年下の灯に訊くのは抵抗のある話題。何だろうと久幸は内心首を傾げるのだが、灯は堂々としたものだ。
 依頼人の突飛な質問には慣れているのだろうか。
「私、その、夫婦生活が、苦手で……」
 最初は意気込んでいた女性はすぐに失速して、最後まで言い切る前に声は消えてしまった。
(夫婦生活……)
 性行為が苦手と言いたいのだろう。
 思わず灯の横顔を窺ってしまった。
 灯は夫婦生活どころか、性行為自体したことがない。
 全くの未経験で、助言など出来るのだろうか。
 言祝ぎで夫婦の事柄は読み取れるらしいが、夫婦生活についてまでアドバイスを渡す機会など、これまであったのか。ハラハラする久幸とは違い、灯は一切動じていないようだった。
「子どもは欲しいので、しなきゃいけないんですが。分かってるんですが……。そもそも私たちに子どもは出来ますか?出来るなら、頑張ります」
 それは言い換えれば子どもに恵まれないのならば、性行為はしたくないと言っているに等しい。
 隣で彼氏は青ざめていた。彼女の発言は寝耳に水だったようだ。
「なるほど。これが気がかりで、言祝ぎにいらっしゃったのですね」
 灯は腑に落ちたとばかりに頷いた。
 女性は酷く緊張した様子で膝の上に置いていた手をぎゅっと握った。
「急ぐから、心と身体が追いついていないのかも知れません。ゆっくり歩いて行きましょう。やらなきゃいけない、子どもを作らなきゃいけない。そう思うと心も身体も固くなります。義務も強制も、気持ちを頑なにしてしまう」
 灯は二人を交互に見て、微笑んだ。
「手を繋いでください」
「手を、繋ぐ?」
「一日、ずっと側にいて、手を繋ぐことから始めましょう。隣にぴったりくっついていると楽しい、嬉しい。そこから進んでいきましょう」
 それは付き合い始めたばかりの恋人のようだ。
 初々しい時間の過ごし方に、女性は表情を陰らせた。
「それは平気なんです。だけどそこから、そういう空気になると、意識しすぎて、気まずくなっちゃって、逃げたくなるんです」
 女性は次第に泣き出しそうなほどに不安な表情になった。それが彼女にとってどれほど深刻な問題であるのか、如実に伝えてくる。
「僕のせいなんです!僕が下手だから!」
 こんな告白はぎょっとさせられるものがあるけれど。二人とも切なくなるくらいに真剣だった。もしかすると彼らは言葉にはしなかったけれど、ずっとこの問題に悩み続けていたのかも知れない。
「彼女が、初めての人なんです。だからスマートに、出来なくて」
「それを言うなら私も、彼が初めてお付き合いをした人なんです。この年まで、誰とも。だからよく分からなくて……」
(なるほど初めての人同士での結婚なのか)
 手探り状態でここまで来たのも知れない。
 真面目そうな印象通り、きっとお付き合いというものも正しく真っ直ぐに進めようとしてきたのだろう。だからこそ、上手く出来ないことを悲観しているのかも知れない。
 灯はそんな二人の前で笑みを深くした。
「お二人がしたいように、なさればよろしいかと思います。正解なんてないんです。二人が幸せだと思うように、過ごせばいいんです。他人の関係に当てはめる必要なんてないんです」
「そうかも知れません……でも」
「彼氏さんを意識して気まずくになってしまうのは、彼氏さんが嫌だからではないでしょう?」
「はい」
「ならきっと恥ずかしいんです。逃げたくなったら、恥ずかしいとそう伝えてみてはどうでしょう。彼氏さんも恥ずかしいと思ってるかも。気持ちが同じだったら、逃げたくなくなるかも知れません」
 彼女は灯ではなく、隣にいる彼氏に視線を移した。するとそこには不安を徐々に薄め、代わりに頬を赤くし始めた顔がある。
 今まさに恥ずかしいと言わんばかりの彼氏に、彼女もまた白い頬を染めていく。
(似たもの同士だ)
 真面目そうなところが似ているだけでなく、恥ずかしがり屋なところも似ているのではないだろうか。
 微笑ましい気持ちになって、口元が緩んでしまう。灯がずっと穏やかな眼差しで二人を見ていたのは、こんな二人の姿をすでに察していたからだろうか。
「思ったことを、そのまま伝えてみてはいかがでしょう。気遣いはとても大事ですが、伝え合うことも大切だと思います」
 大切なことを黙っていたと、ほんのついさっき発覚したばかりだ。
 そしてこれまで言わずにいたことがあるのかも知れない、二人は心当たりを思い出すように顔を伏せた。
「お子さんは、お互いを想い合いながらゆっくり進めていけば自然と会えると思います」
「本当、ですか?」
「はい。なのでたくさん言葉を伝え合ってください。お二人とも恥ずかしがり屋のようなので」
「……仰るとおり僕たち、あんまりお喋りなタイプじゃないんです」
 彼氏が苦笑を浮かべる。
 大人しい外見に違わずといったところだ。
「無理せず、自分たちのペースでいいんです。少しずつで構いません。これから長いお付き合いになりますから」
 その言葉の意図するところを、二人はきちんとくみ取ったらしい。
 目を合わせては、ここに来て一番の笑顔を見せてくれた。
 そしてどちらからともなく手を伸ばしては、彼氏がその手をぎゅっと握った。両手ともを繋いでは、彼女がその手を驚いたように見下ろして。そして照れくさそうに笑った。
 幸せだと聞くまでもなく分かるような二人の姿を、灯までも幸せそうに眺めていた。


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