幕間 1 しっかりと窓を閉めてついでにカーテンで外界から目隠しをする。玄関のドアも鍵がかかっているのをチェックして、誰も入ってこない、視線もないのを確認してから気合いを入れた。 久幸がバイトに行っている時間、スマートフォンで動画を観ていた。その中身はとても久幸がいる間に観られるものではない。 掌から聞こえてくる卑猥な喘ぎ声に、溜息をついた。 二人暮らしに概ね不満はない。久幸との暮らしは想像していたよりも楽しくて、一人暮らしをしていたならばきっと手抜きだらけだった家事も、久幸とならば面倒くさがらずに出来る。 何より誰かがいる空間は、落ち着く。 自分で思っているよりも、自身は寂しがり屋だったのかも知れない。 だがそんな心地良い二人暮らしでも、厄介な問題が一つだけあった。 好きな時に自慰が出来ないのだ。 性欲が溜まったと思っても、むらっときた時があっても、久幸がいる限り処理は出来ない。人に見られながら抜く趣味など毛頭無い。それどころか久幸に、そういうことをしていると察せられるのも気まずかった。 なのでお互いが家にいない隙間に、今だ!とばかりに処理をしている。 灯の場合は久幸がバイトでいない時間が珍しくないので、多少性欲が溜まっても処理をするまでそんなに間を置かないけれど。久幸などは大変だろうと思う。 灯が大学に行っており、久幸が自宅にいるタイミングなど一週間で大体二回しかない。 それでちゃんと発散出来ているのだろうか。 (性欲が強くないのか?いや強くなかったら俺にあんなことしないだろ!) うなされている灯に口付けてくれたのをきっかけに、灯の性器を愛撫して、性欲の処理をするなんて。性欲のない人間がやることではない。 (あいつも勃ってたし。性欲は旺盛なほうだろ。いや、俺がイくまで、ユキはそうでもない感じだったか?) どうだったのか。あの時の出来事を思い出そうとして「うがー!」と叫び声を上げた。 「集中出来ない!」 動画の中では全裸の女性が乱れているのに、頭の中では久幸との体験が蘇ってくる。女性の痴態など久幸に触られた記憶が出てきた途端に、あっという間に意識から飛び出していく。 「あいつのせいだ!」 全く縁の無い女性との性行為など、所詮妄想に過ぎない。どれほど鮮明な動画を観たところで柔らかな身体の感触も体内に埋め込まれていく快楽も知らない。 だが久幸の手の感触も、性器を愛撫される快楽もこの身体は知っている。あの強烈な体験が、どんな動画よりも勝っていた。 そもそもこちらは性欲旺盛な十九歳だ。気持ち悦いことがしたい、刺激が欲しくなるのは当然ではないか。より生々しいものを優先してしまうのは、致し方がない人間の本能だ。 「萎えた!」 哀しい宣言と共に動画の再生を止めた。 これ以上見続けても久幸の手や声を思い出して墓穴を掘ってしまうだけだ。 しかし萎えたといっても発散されていない性欲は留まったままだ。近いうちにまた膨れ上がることだろう。その時、ちゃんと抜けるのだろうか。 (また思い出したらどうしよう) 久幸にして貰うことばかり考えてしまうようになったら。その時は処刑台に立たされるような気分になるだろう。 結婚相手とは言っているけれど、性的な関係まで結ぶつもりはなかったのに。久幸だけがその対象に限定されてしまうなんて。異性愛者だと思っていた自分のアイデンティティーが揺らいでしまう。 「ううう……」 呻きながらその場にうずくまっていると、玄関のドアに鍵が差し込まれた。 すぐに開かれたドアから現れた顔に、灯は思いきり息を吸い込んだ。 「俺は負けないからな!」 「何がだよ」 痛い痛い痛い、全身が痛い、何かが巻き付いてきては呼吸が出来ない、苦しい。 もう嫌だ、助けて、助けて、解放して、そう叫びたいのに声が出ない。真っ暗な世界に体内も目の前も押し潰されていく。 痛みと絶望に襲われながら、必死に藻掻こうとした。だが重たい手はろくに動かず、シーツを握り締めようとしても力が入らない。 無力な自分に打ちのめされていた。 けれど不意に、ふわりと何かに包まれては痛みと苦しみが溶けていく。 あ、と声を上げたところで、両手で水をすくい上げるように意識が浮かび上がった。 「……ユキ」 目を開けると久幸が額に手を当ててくれていた。 あたたかな掌が汗を拭ってくれる。心配そうな瞳に、深く息を吐いた。震える吐息は恐怖の名残のようだ。 「最近、減ったんだけどな」 「うん」 祟りを呼び寄せた死霊の気配は薄まり、最近は悪夢にうなされることも減った。毎日のように苛まれていたそれを、前回見たのが十数日前だ。きっとこのまま消えていく。 けれど簡単に、ぷつりと途切れるようには終わってくれないのだろう。忘れるのは許さないとばかりに悪夢が訪れる。 「……おい、だから」 久幸が顔を寄せてくるのに予感がして、ストップをかけようとした。灯の言いたいことなど分かっているだろうに、久幸は唇を重ねてくる。 ふに、と押し付けられる柔らかな感触に苛立ちではなく、ドキリと小さな動揺を覚えてしまう。その動揺がどんな種類かなんて、考えたくなかった。 「吸い上げられないって、言ってるだろ」 「分かってる」 口付けたところで、灯を苛んでいる悪夢を吸い取ることは出来ない。久幸にはそんな術はなく、また灯も唇から自分の中にある暗がりを誰かに渡す方法を学んでいない。 それでも久幸は、灯がうなされて目覚める度に口付けてきた。そうして、痛みや苦しみの残滓を分け合おうとしているみたいだった。 (……もしかすると、あの痛みは久幸だったかも知れない) あの女に殺された動物たちに灯は共鳴してしまった。その影響で彼らの怨嗟を感じ取ってしまっていたのだが。今夜の夢はいつもの怨嗟というより、痛みと寂しさを訴える人間のように聞こえていた。 呪いに蝕まれている頃の、久幸の名残かも知れない。 招木の実家の離れで、一人痛みと恐怖に耐えていた久幸を思い出してはたまらない気持ちになった。 今すぐあの時の久幸に駆け寄って、その身体を抱き締めたい。久幸を脅かすもの全部から守ってやりたい。 あの女がいなくなって、解放された今も、久幸の中には恐怖と激痛の記憶が刻まれている。それは一生、消えない。 (無かったことには出来ない) そう思うと久幸の首に、腕を巻き付けた。そして自然と久幸を引き寄せては自ら口付けていた。 呪いも悪夢も何も吸い取れない。唇を重ねても互いのぬくもりが混ざるだけだ。 けれど心は軽く、救われていく。 怖いものなんてない。 そうあっさり言える気分になった。 「ユキ、それは駄目だって」 「うん」 頷くくせに、久幸は灯の口の中に舌を入れてくる。くちゅりと水音がして、恥ずかしさが込み上げてくる。けれど口内の粘膜を刺激してくる熱い舌を拒む気になれなかった。 それどころか舌先が触れ合うと、挨拶をするように絡めてしまう。そうすると気持ちが悦いからだ。 「……死霊や魔的なものは性行為で退けられるだろう」 「知ってるけむど」 「だからこうしてるのも、意味があるんじゃないか?」 性交は元々神聖な行為としての面を持つ。人間同士が混ざり合い、新しい生命を作り出す神秘的な行為であるからだ。同時に強く生命力を生み出すものであり、死霊やこの世に形を持たない曖昧模糊としたものたちを退ける力もあるとされている。 性欲自体も、生命力を感じさせる力強い要求であり。性欲を煽る、刺激することも、灯を悩ませている死霊の残滓を消し飛ばせるのではないかと久幸は言いたいのだろう。 「……おまえ、理由を付けるのが上手だな。キスがしたいだけじゃないのか」 「理由を付ければやりやすくなるだろ」 キスがしたいだけだろうと、灯からしてみれば羞恥心を誤魔化すような文句に、久幸は冷静に答えてくる。 悪びれることがないどころか、心配そうな瞳ですらあった。 もしかすると久幸は、効果が無いと分かりながらも「もしかして」という微かな希望を抱いているのだろうか。心底灯の中にある悪夢を口付けで吸い出したいのか。 (無理だって散々言ってるだろ!こっちはキスされる度に、悪夢云々よりも、性欲を刺激されて頭が馬鹿になりそうなんだよ!) 卑猥なことで頭がいっぱいになりそうなのに、久幸は追い打ちとばかりにまた唇を重ねてきた。舌が入ってくる前に、灯は強引に久幸の顔を引き剥がす。 「これ以上は、マジで駄目だから」 下半身がまったりとした熱を帯びている。これ以上されれば性器が形を変えてしまうだろう。かたくなったそれを久幸に悟られるのはだけは勘弁したい。 「そうか」 久幸は灯が本気で止めると、あっさりと引き下がる。 どこまでも平静だ。灯のように、快楽を引きずり出されそうになったという焦りはどこにもない。平常心を保っていてるのかも知れない。 (こいつは引き返せるんだ) 舌を絡めるようなキスをしても、心も身体も乱されずに平気でいられる。その証拠に久幸は再び隣の布団に身体を横たえては「眠れるか?」なんて優しい心配をしてくれる。 悪夢が怖い、もしくは気持ちが沈んで寝付けなくなったのではないかと、灯を気遣ってくれる。けれどその気遣いに多少の憎らしさと後ろめたさを覚えた。 「頑張って、眠る」 灯にとって一番の問題は、むくむくと込み上げてくる性欲をちゃんと抑えられるかどうかだった。 next |