And that's all…? 4



 自宅から徒歩十分ほどの位置にある喫茶店で、コーヒーを前に一人で所在なく座っていた。店の一番奥のテーブルで、本を開いているけれどページは進まないまま。ただ持っているだけの状態だった。
 そもそも純喫茶と言える、昭和の匂いを感じさせる少しばかり堅苦しさのある風情を持った喫茶店は僕には居心地が悪い。
 バイト暮らしの大学生だ。コーヒーが一杯七百円というのは懐にも痛い。
 ファーストフードを食べている方がずっと似合っている上に、落ち着くことだろう。
 何故こんなところにいるのかというと、あの人に呼び出されたからだ。
 衣乃子さんの元に頼まれていたメモリースティックを届けに行き、殺人事件に巻き込まれてから、僕は参考人として警察に呼び出されたり、心配する衣乃子さんから度々連絡が入っては近況を報告する日々を送っていた。
 しかし三ヶ月も経つとさすがに衣乃子さんも僕が落ち着いて大学生活を送れていることに納得したらしく、メールも数が減ってきた。
 そんな時、全く知らないアドレスから、今日ここに来るようにという指示が送られてきた。
 名前も何も書いてないけれど、僕はそれがあの男からのものだと思った。
『教えてあげるよ』
 その一行が、僕に確信を与えた。
 この席についてから十分。それは約束の時間丁度を示していた。
 あの男が来るまでに緊張をほぐそうと思ったけれど、むしろ高まっていく一方だ。
 本当にあの男なのか、実際にここに来るのか。来るとすればどうして。
(なんで僕に会おうとする)
 目的が分からない。
 口元に薄く張り付いた微笑みを思い出しては、無意識にページをめくった。一文字も読めていない本をめくって何の意味があるのか。
(無意味だ)
 自分の鼓動が早くなっていくことから意識を逸らすことも出来てないじゃないか。
 いっそ本を閉じてしまおうかと思った時だ。
 コツンとテーブルの端を叩く音がした。
 はっとして顔を上げると男が立っていた。
「やあ」
 人の良さそうな笑みを浮かべる秀麗な美貌。けれどその双眸に宿っているものは笑みのような穏やかさとはほど遠い。背筋を刃物の先端がそっと撫でるような、冷たく恐ろしい鋭利さだ。
 癖のある黒髪、黒のハイネック。そしてモスグリーンのコート。長身の男は僕に声をかけることもなく向かいの席に座った。
 いつこの店に入ってきたのだろう。入り口にはベルがあり、開いた時には高らかに鳴るはずなのに、そんな音は聞こえなかった気がする。
 緊張し過ぎて聞こえなかったのだろうか。
「お久しぶりです、水沼さん」
「初めまして、だ。水沼は死んだ」
 そうだ水沼は死んだ。本来ならばここにいるはずがない。
 だが僕はあの死体を見ても、どうしても水沼が死んだとは思えなかった。検死の結果、それが水沼本人のものであると証明されても尚、僕は水沼が生きていると思い続けていた。
 そしてその愚かしい想像を裏付けるように、僕のスマートフォンには水沼からと思われるメールが届いた。
「どうして僕のアドレスを知っているんですか」
 この男にアドレスどころか電話番号も教えたことはない。そんな話題になることすらもなかった。
 衣乃子さんが僕のアドレスを教えたとも思いづらい。衣乃子さんはこの男を嫌っていたのだ。僕のアドレスを教えるなんて、揉め事になりそうなことをするわけがない。
「あの施設でwi-fiに乗っていただろう」
「まさか、そこから」
「得体の知れない施設にいるということは分かっていただろう。なのにそんなものを経由するなんてあまりに軽率だ。あの時君のスマートフォンのパスワードを引き抜いて遠隔操作することだって可能だった」
 鍵の掛かっていないスポットがあったので、ついそれに乗ってしまった。
 セキュリティがどうこうということは、いつの間にか僕の頭の中から抜け落ちてしまっていた。
「貴方はそんなことも出来るんですか」
「大したことじゃない」
 おまえが間抜けなだけだ。そう言われたような気分だった。
 そもそも目の前にいる男は一体何であるのか。
 警戒心を剥き出しにして睨み付けても、男は涼しい顔だ。自らを語るつもりはないらしい。
「貴方は、誰なんですか?」
「俺の名前は由良千凪という」
「片代彰人です。初めまして」
 嫌味を込めて自己紹介をするのだが、男は笑みを深めただけだった。
 美しい形をしているだけに不気味なそれに、僕は深呼吸をした。
「あの死体は、誰なんですか?」
 死体を見た時から感じていた疑問を口にすると、由良はテーブルに片肘を突いた。
「教えてあげよう。あれは水沼本人だ」
 あの夜に聞いた、今度会った時に教えてあげようという言葉が今意味を成しているのかと思うと、ぞっとした。
 あの時にはすでに、由良はあの死体の主が殺されることを予言していたのか。
「水沼は貴方だったはずだ。施設の人たちはそう呼んでいた」
「そう、俺はあそこではそう呼ばれていた。だが本物の水沼という男は別にいた。あの死体が本物の水沼だ。俺は代わりにあそこにいただけ」
「どうして」
「俺と水沼との間でその方が都合が良かったからだ。成り代わっても特に支障もなかった。ましてあんな閉鎖された場所では、誰が誰になっていても大差ない。問題は研究結果だけだ」
 その点由良は問題のない結果を出していたのだろう。
「……貴方が、本物を殺したのか」
「犯人は警察が逮捕していただろう」
 水沼を殺したのは、水沼を慕っていたあの女だった。死体にすがりついて泣いていたあの女が、痴情のもつれで殺人を犯したというのが警察の見解だ。犯人もそれを肯定しているらしい。
「彼女は貴方と付き合っていたんでしょう?」
「交際していた記憶はない」
「でも彼女は貴方を恋人だって言っていた」
「肉体関係はあったが、恋人だと口にした覚えはない。恋人を持つつもりはないと言った覚えはあるが」
 それでは彼女の思い違いということか。
(でも肉体関係はあるって)
 それでも恋人にはならない、というのは残酷ではないだろうか。そんなことを思うのは僕がまだろくに恋人を持った経験がないからか。
「彼女は貴方だと思って殺したんですか。それとも本物の水沼だと知っていて、あの男を殺したんですか?」
「殺す際、顔を確認して殺していただろうね」
 由良ではなく、本物の水沼だと分かって殺したのだ。あの女は自分が殺した本物の水沼にすがって泣いていたのか。
(あの時……死体が首からぶら下げていた顔写真が付いたIDパスを、彼女は引き抜いていた)
 あそこに映っているのは由良の顔だ。それを抱いて、殺人者として逮捕される覚悟でもしていたのたろうか。
 目の前で悠然と笑んでいる男のために、そこまでする必要があるのか。
「何かしらの脅迫をして、彼女に殺人を強要したんですか?」
「まさか、そんなことはしない。ただ俺はあそこにいることに飽きたんだ。だから外に出たいと言った。だが周囲はそれを認めないだろう、特に水沼と所長はね。いつまでも付きまとってくるに決まっている。それは嫌だと言ったんだ」
「だから彼女は水沼を殺したんですか?」
「永遠に俺を追いかけてくることがないように」
「彼女は自分の命をかけて貴方を逃がしたってことですか。それでも恋人ではないと、貴方は言うのか」
 薄情だと睨み付ける僕に対して由良は肩をすくめた。
「そうしてくれとお願いしたことはない。もしそんなことを願えば殺人教唆になる」
 決して自分が罪に問われることはないように。だが自由を得るために彼女をそそのかしたのだ。
「最低だ。人でなし」
「どこが。俺は何もしていない。あそこから逃げただけだ。それは確かに良くない事だろうが、罪ではない」
「水沼本人だと言っていたんだから詐欺でしょう」
「双方の利益のためだ。俺が水沼を騙り、何か不都合があっただろうか。彼が殺されたのは彼女が本人だと分かった上で殺したからだ」
 ただそれだけの理由だと、由良は言い切る。罪悪感など欠片も見えない。そんなものなどあるわけがないと、誰の目からも明らかだ。
「そこまでしてあそこから抜け出して。貴方は今何をしているんですか」
「自宅で研究を。あとは食事をして、睡眠を取って、たまに面白いものを見付けにふらりと出掛けている」
「優雅な隠居生活ですか」
 それで一体どうやって生計を立てているのか。
 胡散臭い男だ。詐欺師でもしているのかも知れない。
「そういう君はどうやって暮らしているんだい?」
「大学に行って……バイトをして」
「バイトは何を?」
「コンビニですけど」
「ああ、自宅から近いバイト先を適当に選んでみたら、自分が接客に向いていないことを痛感しては日々神経をすり減らしている。だが辞めるというのも面倒な上に次のバイト先を探すのも手間だからそのまま惰性で続けている。というところかな」
 言い当てられて絶句した。そんなことはないと言いたいところだが、虚勢を張るだけで終わってしまうだろう。
 僕の顔にはきっと図星だと書かれているはずだ。ショックを顔に出してしまったことは、自覚出来ていた。
 残り少なくなっていたコーヒーを飲んでは、溜息を一つついた。
「何が目的ですか」
 どうしてここに呼び出されたのか。
 最も訊きたかったことを由良に投げつけると、由良はふっと笑いのこもった吐息を零す。
「君は今も死に続けているのかと思ってね」
 雨音に沈んでいたあの薄暗い夜の廊下が蘇ってくる。
 じっとりとした冷たさが蘇ってくる。煖房がきいた店内で寒さは無縁のものであるはずなのに僕から体温を奪っていく。錯覚でしかないそれは、僕に懐かしくも新しい喪失を植え付けていくようだった。
「生きています」
「そう君は生きている。どう見ても生きている。何故死んでいないのだろう」
「失礼じゃないですか。他人に向かって、どうして死んでいないのかなんて。まるで死ぬことを望んでいるみたいだ」
「だが君は自分にそう願ったのでは?事件の後、一緒に死んでいるべきだったのだと、多少なりとも思わなかったかな?」
 ゆっくりと優しく問いかける由良に、僕は急激に事件の後の記憶を引きずり出された。
 周りの人々はみんな「何故」という視線を浴びせてきた。
   両親は不安の色濃い瞳で僕を見ていた。いつ僕の中から恐怖にまみれた記憶が蘇るのではないか。そしてどうして我が子だけが生き残っているのか。何かしら非道なことをされたのではないか。そんな目で僕を見ていた。
 僕の中にある、殺人者の残滓を探していた。
 警察はもっと露骨だ。事件を解決することが彼らの仕事であり、義務なのだから。そのためのきっかけならばどんな手段を使ってでも欲しいところだろう。
 確実に真実を知っているはずの僕を前にして、追求が厳しくなるのも致し方がないことだった。
 どうして記憶を失っている。
 何故生きている。
 本来なら死んでいるはずだったのに。この子の一体何が死を回避したのだ。
 生きていることは喜ばしいことだと言いながらも、理由の分からない生存に怯えているようでもあった。
(本当なら死んでいるべきだったのかも知れない)
 僕はあの頃からずっと、心のどこかではそう思っていた。
 その方が自然だからだ。
「僕が生きているのはおかしい。そうは思います。ですが死んでいるべきだというのは、飛躍しすぎです」
「だが君自身はそれが当然のことだったのにと悔いている。でなければ毎日死んではいないだろう。生きている自分に対する違和感が、気味の悪い事実が君を苛む。そしていつか自分を殺しにくる者がいるかも知れないという恐怖から、逃れられない」
 あの時の犯人に殺されるかも知れない。
 誰にも言えなかった悪夢を言い当てられ、首を絞められたかのような衝撃に襲われた。


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