And that's all…? 5



 手に持っていたカップを、落としてしまった。
 テーブルの上にコーヒーが零れる。中身はほとんど残っていなかったけれど、それでも黒い水溜まりが出来てしまう。
 大きな音を立ててしまったせいで店員がテーブルまでやってきては、いつの間にかそこにいた由良に驚いていた。
「失礼致しました。お客様、ご注文は」
 店員は僕が零したコーヒーを片付けながら、注文を取りに来なかったことを謝っていた。由良が来たことに誰も気付かなかったらしい。
「コーヒーと、チーズケーキを」
 メニューを開いて由良は躊躇いなくそう言った。
 チーズケーキという単語に耳を疑った。
「……チーズケーキを、食べるんですか」
「それ以外にどうするんだい?ここでチーズケーキを使って遊べと?汚れるからあまりしたくはないな」
 店員が下がっていった後、衝撃が薄れてからそう問いかけると由良は平然と答えた。
 凍えそうな目をした男がチーズケーキという甘くて可愛らしい印象のものを食べるというのは、違和感が強くて腑に落ちない。
「どうやって毎日死んでいる?」
 奇妙な質問に言葉は出なかった。
 あの時、さして何も考えずに口から出たものがこんな形で返ってくるなんて思わなかったのだ。
(どうやって死ぬ?)
 何故そんなことを知りたいのか。
 だがそう尋ねたところで理解出来る言葉が聞けるとは思えない。
 じっと黙って返事に窮していると、由良の分のコーヒーとチーズケーキが運ばれてくる。由良はチーズケーキにフォークを刺しては当たり前のように食べ始めた。
 自分で注文したデザートなのだから、由良が食べるのは何もおかしくないのだが。この男が食事、しかも甘い物を食べているということが僕にとっては酷く奇妙に思える。
 表面を綺麗な狐色に焼かれたケーキが由良の口に消えていく。咀嚼され、嚥下されていく光景が、異様なものに見えて仕方がなかった。
「食事をすることを生きるための行為だと捉える人は多い。栄養を取らなければ人は死ぬ。それは確かだからだ。では死ぬ行為は?」
「……眠ることは、死ぬ行為に似ているという人もいます」
 意識を失い眠りに落ちる行為を死に例えることはそう無茶ではないと感じる。
 動けず、喋れず、目も開けられず、外界からの刺激にも気付けない。眠っている間は自分の身体は無防備に晒される。
 心臓が動き呼吸をしている、内臓が機能しているため生きてはいるけれど、一見死んでいても大差ない状態にはなるだろう。
 何より、意思がないという状況が死に似ている。
「君は毎晩眠る度に死んでいると思う?」
「……分かりません。でも目覚めた時に、生きているとは思います」
 瞼を開けて、光を見て、自分の心臓がまだ動いていることを確認しては生きていると感じる。その瞬間、どうしてなのかと自身に問いかける。
(あの時、僕は死んだんじゃないのか)
 本当はとっくに生命活動を止めて身体は朽ちているのではないか。
 彼らのように。
「生きていることにがっかりする?いや、安心するのかな。君は」
 由良の笑みを直視するのが嫌で、テーブルへと視線を落とした。
 安心なんてするわけがない自分に気付いている。目覚めた時に感じる猛烈な違和感、そして心のどこかにある落胆をこの男は見抜いているのか。
「……目覚めた時に、自分があの時のことを何も覚えていないことに苛立つことはあります。眠りという擬似的な死から目覚めた時、せめて記憶が少しだけでも蘇らないかと、思うことも……あります」
 もしあの時の記憶が戻って来たのならば、少しでも何かが分かれば、僕は闇に葬られたあの時の自分の状況に多少なりとも納得が出来るのではないか。
 何故生きている。
 そう問いかけてくる人々に、何かしらを返せるのではないか。
 自分自身にすら疑問と真っ暗な不安しかない現在を打開出来るのではないかと思ってしまう。
「記憶が蘇れば、君が生きている理由も分かる?」
「分かるかも知れないし、分からないかも知れない。少なくとも、何故彼らは死んだのか、誰が殺したのかは分かる気がするんです」
「犯人は捕まった」
「そう捕まりました。現場から考えてそうするしかなかった。死んだクラスメイトの父親をそこに当てはめるしかなかったんです」
「だが君は信じていない」
「信じたいと思いました。何度もそれで良いと、もう終わらせたいと思いました。でも僕は違うと感じてしまう。何故だが分からないけれど、ずっと、違うと叫びたくなるんです……!」
 そうじゃないのだと声に出して言いたい。
 けれど父親が犯人でなければ誰が犯人なのか。おまえが犯人じゃないのかと詰問されるのはもう嫌だった。
 四方八方からあれこれ厳しい声音で投げつけられて、微かな情報でも絞り残さずに僕から引き出そうとする。周囲の人々に耐えられない。
 だから僕の疑問は口に出してはいけないものだ。
 それだというのに由良の問いかけに、押し殺していた本音が溢れてしまった。
「いつか犯人は君を殺しに来るだろうか。真実を知っている唯一の君を」
「殺すならあの時殺しておけば良かったでしょう!」
「あの時は殺せない理由があったのかも知れない。けれどそれが今もあるとは限らない」
 それは僕が抱いてる恐怖そのものだった。
「殺すならあの時、殺して欲しかった」
 いつ殺されるかも分からない。そんな暮らしを続けさせるくらいならば、彼らと一緒に無残に殺害して欲しかった。
 平穏なただの大学生の日常を過ごしながら、僕は時折命を狙われているのかも知れないという妄想に取り憑かれる。そしてそれが妄想ではない可能性が、1パーセントでも存在してしまっているのだ。
「記憶が戻れば、犯人が分かるかも知れない?もし犯人が分かったら君はどうする?」
「探し出します」
「そして警察に突き出す?だがあの事件はもう別の人間を犯人として解決してしまっている。君は犯人に何も出来ない。むしろ接触することで死の危険が高まるかも知れない」
「それでもいい。あの時僕を殺さなかった理由が知りたい」
 背負い続ける疑問から、解放して欲しい。
 殺されることでこの疑問から自由になれるのならば、それはそれで悪くないのではないか。
「水沼の死体を見て、何か感じることはなかった?あの時と多少は似ている状況だっただろう?」
「何も感じませんでした。何も思い出さない」
「がっかりしたね」
「……分かりません」
 誤魔化したが、実のところ由良の言う通りだった。
 再び死体を目の前にしても、結局は何も思い出すことが出来ないのか。では何を見れば、聞けば、どこに行けば記憶を取り戻せるのか。
(僕の中にあるはずなのに)
 殺された人々、腐敗していく死体、気が狂いそうな光景の中に、殺人者の顔があるはずだ。
 僕を殺さなかった。これから殺しに来るかも知れない人間の姿を知っているはずなのに。僕は掴み取ることが出来ない。
 無様に暗闇の中で怯えることしか出来ない。
「思い出したいかい?だが犯人の顔だけじゃない。友達が殺されるところも思い出さなければいけない。もしかすると君は殺された方がましだと思うような目に遭っていた可能性もあるだろう。身体は無事であっても、精神的な苦痛をどれほど味わわされたのかは分からない。むしろ精神的な傷を深く付けられたから、君は記憶を手放したのだと思うほうが正しい気がするが」
「そうです。僕もずっとそう思って自分を宥めていました」
 思い出さない方が幸せだ。
 そう口にする大人はみんな優しい瞳と声をしていた。だから信じたのだ。
 それが自分にとって一番楽な手段だと感じていた。
 けれどその楽な手段はゆっくりと僕の首を絞めていった。
「今は知りたいと思う」
「………はい」
 生きていることが間違いではないか。もしくは自分には分からない何かを刻み付けられ、殺人者に弄ばれているのではないか。
(生きている、それだけのことが、酷くおかしなことに思える)
「手伝ってあげようか?」
「え?」
「記憶が蘇るように、君に刺激を与えてあげようか」
「刺激って……どんな」
「あの時のことを思い出して貰えるようなもの。生と死を感じて貰えるようなことを俺は君に与えることが出来る。」
 チーズケーキを食べながら、由良はにっこりと笑った。
 何も考えずに見れば穏やかなものだろう。
 けれど僕には、これまで会ったどんな人間よりも残忍な表情にしか見えなかった。
 由良が僕に与えると言ったものは、狂気でしかない。普通の人間が決して求めるわけもないものだ。
(それが記憶に繋がる?)
「単純に死体を見るだけでは効果がなかったということは。もっとそれに関わる感情の機微なども知らなければいけないんじゃないかな。もしかすると君は犯人が人を殺しながら何かを語っていることでも聞いたのかも知れない。精神的なものの方が効果があるのかな」
 凍り付く僕の前で由良はさも面白いことを思い付いたとばかりに楽しげに語っている。これから僕に何を与えるか、すでに由良の中では動き出しているのかも知れない。
「与えるまでもなく、君は引き寄せられるかも知れないけどね。あれだけの事件に招くことが出来たんだから」
「僕はあんなの望んでいない!」
 あれを起こしたのが僕であるかのような言い方をされて、テーブルを荒々しく叩いてい由良の口を止めた。
「子どもだった僕がどうやってあんなものを引き寄せるんですか!」
「生まれながら、そういう性質の人間はいる」
 おまえのようなものが。
 そう断言する由良に、僕は荒々しく立ち上がっていた。そして鞄を掴み取ってはテーブルの端にあった伝票を引き抜こうとした。
 だが由良の手に抑えられる。
「呼んだのは俺だ。俺が払うのが筋だろう」
 こんな男にコーヒーの一杯であっても奢られるのは嫌だった。だが由良の力は強く、無理矢理に伝票を抜くことも出来ない。
 諦めて、鞄を抱えて喫茶店を飛び出した。
 あれ以上由良と同じ空間にいることは危険だと思ったのだ。あの男の前にいると、自分がどんどん崩れていくのが分かった。
 これまで自分はこういう人間だと認識していた、信じていたものが壊れていく。
(今日あったことは忘れよう)
 こんなことは覚えていても無駄だ。あの男のことも、無かったことにしよう。でなければきっと、恐ろしいことになる。
 硬くそう決めた。

 けれど数日後、僕の自宅にあの日喫茶店に置き忘れた本が届けられた。





TOP