And that's all…? 3



 目を開けると、雨音は止んでいた。
 部屋はまだ暗い。スマートフォンを見ると午前六時になったばかりだった。この時期ではまだ外は暗いのだろう。
(寒い……)
 山は底冷えする。煖房を消して寝ていたので、朝には極寒に近い室温になってしまっていた。これでは到底まともに活動など出来ない。
 手探りでエアコンのリモコンを掴み、起動をさせる。
 暖かな風で部屋が満たされた頃にベッドから起きよう。
 そう決意して布団の中に顔を埋めると、甲高い悲鳴が聞こえてきた。
(なんだ!?)
 暗がりの部屋で起き上がる。寒さよりも緊張感に襲われては、部屋の電気を付けようとした。
 その時、再び悲鳴が上がる。今度は男の声だ。
 何か異様なことが起こっているのは間違いない。
 声はそう遠くないところから聞こえている。ここでじっとして警戒心を募らせているよりも、現場に行ったほうがまだましだろう。少なくとも状況を把握して、対処が出来る。
 そう思って廊下に出ると、廊下の先にある部屋から女が一人飛び出して来た。
 昨日見たことはない女性だ。黒く長い髪を一つにくくっている女性は廊下を走ろうとしたのだろうが、すぐにつんのめっては前に倒れ込む。
「いや、いやぁ!!」
 女性は廊下に倒れ伏したまま泣き出した。黒髪が乱れては白い廊下に流れ落ちる。一体何を見たのか。
 僕は女性を抱き起こすよりも自分の好奇心を優先した。何よりあまりにも取り乱した女性を落ち着かせられる力はない。
 女性の横を静かに通り過ぎては、部屋の中を覗き込む。
「…………………」
 真っ白な壁に絵の具のように赤茶色の液体がぶちまけられていた。それが何であるのかは、部屋に転がっているものが示している。
 骨が透けて見えるほど顔面の肉をそがれ、容貌が完全に分からなくなった人間の身体が無造作に捨てられている。
 仰向けのそれは四肢も欠損している。切断された肘下と膝下は周囲は見当たらない。どこかに持ち去られたのだろう。
 死体が着ている白衣はすでに赤黒く色を染め変えられている。生々しい鉄の匂いが鼻孔を刺激しては陰鬱な空気を漂わせていた。
 死んでいる人間。
 これから腐り落ちていくだろう肉。
(また死体を見ている)
 死体の中にいることはこれが初めてではないはずだ。なのにやっぱり何も思い出せない。
 もう動かないる
 死んでいる。
 腐っていく。
 ここには何もない。
 それだけしか分からない。僕の中には何も生まれてこない。
「水沼さん!!」
 部屋の中に女の声が響いた。昨日階段で衣乃子さんと喋っていた女だ。
 言われてみれば死体が着ている服は、昨日水沼が着ていた物に見える。
(あの男が死んだ?)
 これがあの男の死体だというのか。
 猛烈な違和感に襲われる。けれど女は死体にふらふらと近付いては、死体の首からぶら下げられているカードを裏返した。そこにはあの男の顔写真と名前が載せられている。
 そのカードを女は引き抜いては胸元に押し付ける。それだけは生きているかのように、大切そうに抱えている。
 部屋にはもう一人男もおり「ひぃ」と悲鳴を上げた。
 女は水沼の名前を繰り返しながら死体にすがっている。
 あんな姿になっていたとしても、女は抵抗なく触れられるのか。あれが水沼に思えるのか。
 死体ではなく、水沼という人間という認識をしているらしい女に僕は一切の共感が出来なかった。
「何があった!?」
 次々の施設にいた人間たちが駆け込んでくる。中の惨劇を目にすると悲鳴を上げたり、嘔吐する者が出ては地獄のような状況だった。
 部外者である僕は呆然とそこに立ち尽くしていた。
 血の匂いが身体に纏わり付いては肺から体内に染み込んでいくようだ。
「あき!」
 衣乃子さんの声がして、僕は腕を引っ張られた。
 青ざめた衣乃子さんを見ることは滅多無い。珍しいものを見たと思っていると部屋から引きずり出される。
「あんなものは見るな!おまえが見ていいものじゃない!忘れろ!ここにはもう入るな!」
「衣乃子さん」
「いいか!何もなかった!覚えていないものは無かったものなんだ!」
 衣乃子さんが必死に僕をそう説得している。
 あの事件のことを思い出すのではないかと心配してくれているのだろう。
 警察に何度も問いかけられて、疲弊していく僕を不憫にに思い、警察を怒鳴りつけてくれたこともある人だ。優しい、思いやりのある人だと思う。
 だがそんな人の温情に対して、僕は何も返すことが出来ない。
(だって不安ですらないから)
 死体を前にしても沸き上がる感情など何もない。
「大丈夫。何も、思い出さないから」
「それなら、いいけど。でもあんなものはまじまじ見るようなものじゃない」
 首を振って、衣乃子さんは部屋から僕を遠ざけようと歩き出す。だが僕はそれを止めた。
「近くにいた方がいいと思いますよ。これから警察を呼んで大騒ぎになる。混乱を避けるためにも関係者は一所に集まっていた方がいい」
「だからって」
「もう入りませんから。僕は大丈夫です。何も感じません」
 淡々と語る僕に衣乃子さんは眉を寄せた。
 何も感じないことが安堵ではなく、それはそれで不安に感じるのかも知れない。
「殺されたのは水沼さんらしいです」
「ああ、あれだけ叫んでいれば分かる。恋愛関係にあったらしいからな。嘆きたくもなるだろう」
 衣乃子さんはダウンコートの前を合わせて溜息をついた。よく見るとパジャマにダウンコートを羽織っただけの格好だ。
 急に悲鳴が聞こえて大騒ぎになったので、寝ていたところを慌てて起きて来たのだろう。
「誰があんなことをしたんでしょうか」
「……さあな。だがこんな山奥にある閉鎖された施設だ。第三者ということはあまり考えられない。セキュリティはしっかりしてるんだ」
「となるとここにいる人間の犯行になりますが」
「そうだな」
「そんなあっさりしてていいんですか。一応同じ職場で暮らしている人間が、同僚を殺したかも知れないって状況なのに」
 衣乃子さんは水沼が殺されたことに関する動揺が少ない。
 同僚が殺された、しかも殺したのはそれもおそらく同僚であり、身近な人間が人殺しになっているという事態に恐ろしさはないのだろうか。
「あの男は人を殺すことも、殺されることも、あるだろうなと思うような男だった」
 昨日水沼に対して冷たい態度を取っていた衣乃子さんは、ぽつりとそう口にした。彼女の目からして水沼という男は、異常だったのだろう。
「こうなるのも仕方がないって、思ってるんですか?」
「仕方がないとは思わない。少なくとも日本国では死刑が執行される以外の理由で他者の命を奪うことは認められていない。けれど仕方がないと思ってしまう、そう思わざるを得ないという推測の話だ」
 そう話していると老人が何かわめきながら走ってくる。その傍らには中年の女性が寄り添っているのだが、二人とも常日頃から運動はしていないのだろう。随分走るスピードが遅い。
「さて、荒れに荒れるぞ」
「あれは誰ですか?」
「この施設の所長だ。水沼に随分目をかけていた。盲目的なまでに可愛がっていたとも言えるだろう。その男が殺されたんだ。卒倒するかも知れないな」
 総白髪の小柄な老人は、部屋に入るとすぐに声を失い、それからすすり泣きを始めたようだった。
 周囲の人々が口々に状況説明や今後の対策、警察を呼んだことなどに関して喋っているけれど、一切返事はしていない。
 水沼の死以外、何も認識出来ないかのように嘆き悲しんでいる。
(死んでいることを認知した人間の、当然の反応だ)
 老人は泣き声を次第に怒声に変え始めた。
「誰が殺した!!こんな残酷なことを誰が!ここにいる誰かだろう!いや違う、一人部外者がやって来ていたな!あの男か!!」
「うわっ」
 そういえば僕にとっては水沼を殺したのは施設の人間で第三者の侵入はないと思っていたけれど、施設の人間にとって僕が第三者に当たるのだ。
 身内の犯行だと思うには心理的に抵抗が強いだろう。そんな時、余所者がいればそこに猜疑心が集中するのは当然だ。
「また僕が疑われるのか」
「あき!」
「殺人が起こると、そこにいたってことで僕が疑われるのは今に始まったことじゃないから」
 あの事件でも、一人だけ生き残ったということで僕を殺人犯だと言う人もいたのだ。十歳の子どもが大人二人、子ども三人を殺すというのは随分大がかりな仕事だ。
(やってのけないことはないだろう、そう言っていた)
 あの時、僕を糾弾した人たちはこの状況ならば真っ先に僕を指差すことだろう。やっぱりおまえが、なんて罵るのだろうか。
「馬鹿なことを言うな。今から黙らせてくる。おまえは大人しく警察が来るのを待っていろ。警察が来れば、ここも多少は落ち着く」
 衣乃子さんはそう僕に言い聞かせて、部屋に戻って行く。
 半狂乱になって口汚いことを叫ぶ老人に対して、冷淡な口調で僕の身の潔白を喋ってくれている。聞き入れられないことは分かりそうなものだが、足止めをしているつもりなのかも知れない。
 もしくは老人の耳には入らずとも、周囲にいる人々の耳には入り、僕に対する危機感を薄めようとしてくれているのか。
 有り難いことだと思いながら、僕は冷たい掌を合わせては吐息をかけてぬくめる。
『ここはもう飽きた』

 あの男は雨音の中で、そう言った。

『今度君に出会うのは、ここではない別の場所になるだろう』

 死んでしまった男は笑っていた。楽しそうに、これから起こるだろうことをすでに予感して、胸を躍らせているかのように陽気だった。
 あんな男が殺されるのか。
 どこかでまだ笑っているのではないか。
 パニックを起こして、泣き喚いている人々を愉快そうに眺めているのではないか。

『再会した時に教えてあげるよ』

 男の声が頭にこびりついて離れない。
 忘れてはいけないことを全て手放したはずの脳味噌に、巣くっている。


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