And that's all…? 2



「あんな男の言うことは忘れろ。どうせ適当なことを言っているだけだ。大体おまえは気にしすぎなんだ」
 衣乃子さんは部屋を出てから僕の肩を掴んではそう言った。それは諭しているようでも、もう思い込めと脅しているようでもあった。
 それが彼女の優しさから来ているものだと知っているだけに、僕は何も言えなくなる。誰に何を言われても、どうしても頷けない部分があることを自覚しているからだ。
 そんな僕の小さな抵抗に、衣乃子さんも気付いたのだろう。軽く頭を叩かれた。
「思い詰めて何か解決出来るような出来のいい頭でもないだろうが」
「そりゃあ衣乃子さんに比べたら、僕なんてアホに違いないけど」
「だったらそんなに深く悩むことなんてないだろ」
 アホは悩むなということだろうか。子どもの頃から他の追随を許さないほどにずば抜けて頭が良かった人は残酷なことを言うものだ。
 しかしそこまでばっさりと切り捨てられると、食い下がる気持ちにもならない。そもそもそこまで頑張って何かを肯定しなければいけないこともない。
「あの男は人を戸惑わせて、不安にさせるのが好きなんだ。人の気持ちを掻き乱して、好き勝手荒らして、他人が傷付いて堕落していく様を見て面白がる」
「最低ですね」
「そう。人間のクズだ」
 忌々しそうに吐き捨てる衣乃子さんには嫌悪が滲んでいた。そんな人と同じ施設で生活しなければならないというのは、憂鬱なことだろう。
「最もクズだと思うことは、あれは一見人の良さそうな男に見えることだ。見た目がいい、声がいい、優しそうな雰囲気まで滲み出す。女なら特にああいうのに弱い。まして自分に興味を持たれて多少強引に物を訊かれ、接触でもされれば、人によっては一発で恋愛感情を抱くだろう」
「そういうのを見て来たんですか?」
「あき。ここには私以外にも女がいる。そして出入り業者の中にもだ」
 うんざりしたような衣乃子さんは、水沼という男を中心に恋愛問題が発生した現象を目撃したことかあるのたろう。しかも一度や二度ではない、そんな印象だ。
「ましてここは俗世からは離れているからな。こういう締め切った世界の中では、どうしても人間同士のやりとりが他にいる時よりも濃厚なものに錯覚してしまう」
「恋愛感情を持ちやすい?」
「持ちやすいというより、持った場合にその思いが深くなる、過激になる。スピードが速くなる。それが私が体感していることだ。ここだけの問題かも知れないが」
 衣乃子さんが額を抑えた。
「もっとも全部あの男のせいだと言われると何も返せない」
 全てはあの男のせいではないか。
 そんな台詞が喉元まで出かかった。けれどそれを口にするには、いくらなんでも失礼である気がした。
 僕とあの男はさきほど出会ったばかりだ。数分会話をしただけの相手に、あまり毒を吐くのは行儀が良くないだろう。
「衣乃子ちゃん。彼氏?」
 廊下の突き当たりで立ったまま喋っていた僕たちに、左手側にある階段から上がって来た女性が声をかけてきた。こちらも白衣を着ているのだが、その下は真っ白なワンピースであるらしい。
 白衣の下に小綺麗なワンピースを着ている様は、僕に違和感を与えてきた。衣乃子さんがいつもジャージみたいな格好をしているせいかも知れない。
「彼氏じゃない。従兄弟だよ」
「そうなの?可愛い男の子ね」
 ぺこりと頭を下げた。名前を名乗るべきかと思ったのだが、衣乃子さんの顔が険しいのを見て言葉を飲み込む。
「外は雨が降ってきたよ。荒れるらしいね」
「そうなんですか」
 天気予報はちゃんとチェックして来なかった。確かに雲が分厚く、日差しが少ないとは思っていたのだが。それよりも山の寒さに気を取られていた。標高が上がると気温が下がるのだなと、軽装備の自分を後悔していた。
「山の天気は変わりやすいから嵐みたいになって、山を下りられないかも知れない。危ないから、泊まって行けば?」
「いえ、そんな。僕は部外者ですから」
「本当に危なそうなら泊まっていけばいい。部外者が泊まるような部屋もちゃんとあるんだ」
「そうなんですか」
「ああ、おまえみたいに間抜けなやつがいるからな」
 間抜けと言われて、多少むっとしてしまい「帰れる内に帰ります」と言った。その時点ではまだ小雨で、急いで帰ればバス停までさほど濡れずに帰れるだろうと思ったのだ。
 しかし比較的都会に暮らしている僕に、彼女たちは笑みを浮かべた。
「次のバスが来るのは、いつだと思う?」
「えっ」
「あきがバス停に行くまでの時間を考えると、おまえが乗れるバスはおそらく六時のものだ」
 現在が二時であり。山を下りるのに一時間ほどかかるのだが、それでも三時間も待たなければいけないのか。
 一時間に最低一、二本以上のバスが止まる土地に暮らしている僕にとっては、信じられない世界の話だった。



 雨は豪雨に変わった。
 次のバスが到着する時刻に合わせて山を下るなんて行為は、端っから無理だと諦めてしまう程度には激しい。
 おかげで僕はこの訳の分からない施設に一晩厄介になることになった。
 部外者が泊まる部屋は、簡易なパイプベッドと小さなテーブルと椅子が置かれているだけの素っ気ないものだった。思わず病院を思い出してしまったのは、この施設が真っ白でみんな白衣を着ているせいだろう。
 研究者たちは各々の研究室に自室を持っており、そこに寝室やキッチンも備え付けてある。僕は晩ご飯を衣乃子さんの部屋で頂いた後に、彼女の部屋でしばらく雑談をしていたのだが、あまり邪魔をするのも良くないと思って夜中になる前に退出した。
 従兄弟とは言っても一応は女性である衣乃子さんの部屋に、夜遅くまで居座るのは良くないだろう。
(暗い……)
 夜になって気付いたのだが、ここの廊下はとても薄暗い。窓硝子の向こうで激しい雨が降っているということもあって、何やら気味の悪い空間になっていた。
(早く戻ろう)
 クーラーでもかかっているのかと思うほどに寒い。衣乃子さんの部屋は暖房器具に守られていたので分かりづらかったのだが、ここはかなり冷えている。
 室内だというのにダウンコートを着ていなければ震えてしまうほどだ。
 足早に廊下を進んでいると、人影が進路を塞いだ。
 すっと伸びた手が目の前に現れて、思わず「ひっ」と声を上げてしまった。
 この年で悲鳴を上げるなんて情けないとは思うのだが、我慢出来るようなものではなかった。
「やあ、お急ぎかな」
 水沼が眼前に現れる。すぐ横の部屋から無音で出てきたらしい。
 ドアの閉口音は聞こえなかったので、開けられたままだったのか。それにしては光が漏れている様子がなかった。
 部屋の中も廊下と同じく薄暗いのだろうか。だが確かめるために水沼の向こう側へと身を乗り出して、内側を覗き込むつもりはない。
 笑っているその瞳が、僕の眼窩に突き刺さる。
 まだ何も言われていないのに、尋問されているような気分になった。
「何ですか」
「雨が降ってて、山を下りられなくなったんだってね。可哀相に。ここは何もなくて退屈だろう」
「いえ。もう寝るだけですから」
「もう?まだ夜の九時だよ?随分早寝なんだね」
「明日は早く起きて、すぐに帰ろうと思ってます」
「一番早いバスで十時だよ」
 えっという顔をしてしまったのだろう。水沼は笑みを深めた。
「もしかしてバスの時刻表を調べていない?ここに来るバスの本数は少ないよ。何時間も間隔が空いてしまうしね。利用者が少ない結果だから諦めて」
 利用者が少ない場所に頻繁にバスを通すことはない。それは合理的な考え方だが、僕にとっては悲しい情報だ。
(朝の十時……)
 どれほど早く起きたところで、時間を持て余すだけか。
 しかも明日になれば天気が回復しているかどうかも分からない。もう一日ここに留まるなんてことは勘弁して欲しい。
(明後日には大学があるのに)
 休みである明日の内に自宅になんとしてでも辿り着きたいものだ。
「君が事故にあったあの日も、こんな雨が降っていた?」
 不意に投げかけられた問いに、僕は窓の外を見たまま、息を止めた。
(あの時)
 事故と言われて、僕に関わりのあることは一つしかない。だがその一つは常に欠落している。
 何も引っかかることのないその単語に、水沼は腕を組んで廊下の壁に寄り掛かった。
「十年前、同級生の両親が保有している別荘に同級生達と遊びに行く途中。乗っていた車がスリップしてガードレールを突き破り、君は車ごと崖の下に転落した」
 雨の音がする。
 それがあの時と同じものであるのかどうかは、分からない。
「車に乗っていた六人の内、五人が死亡。生存したのはたった一人、君だけだった。こう言えば君は奇跡的な確率で生き残った幸運な子だと思われるだろう。神様に特別守られた、寵児であるとも言えたかも知れない。けれど現実はそんな感動敵なものではなかった」
(そういえばここも山の中だ)
 車が落ちた崖に似た場所も、ここにあるかも知れない。
 だがそんなことは今まで思い付きもしなかった。
「車中にいた五人は崖から転落したことによって死んだわけじゃない。全員他殺死体だった。誰かに殺されたんだ」
 水沼は僕を見ている。
 胸の内を見透かして少しの動揺や不安も見逃すまいとしている、鋭く冷めたい視線だ。
 けれどその視線には何も感じない。
「崖の下で誰かが殺したのか。車の中には大人二人、子ども四人。両親と、その子ども。そして子どもの同級生が三人。現場は山の中、しかも崖の下という状況を考えても第三者が入ったとは考えにくい。内部の犯行だ。一人生き残った者がいるなら、その人物を疑いたくもなる。当時十歳という年齢を考えれば、殺人を犯せるかどうかは微妙なラインだ。しかし人によっては生き残った子どもが犯人だと、そんな強引な結論を出すかも知れない」
 廊下が暗い。
 雨音に沈んでしまいそうなほどに、暗い。
「だが唯一の生存者である君は発見された際、ローブで拘束されていた。それは自らでは出来ないだろう拘束であり、他人を殺害できる状態でないことは明白だった」
 たった一人残された生存者。
 身動きが取れない子ども。
 手足に食い込んだローブ。
「警察は一体何が起こったのか、生存者である君に尋ねた。しかし君は答えなかった。答えられなかったというほうが正しいかな。君は事件が起こった前後の記憶を失っていた。殺された同級生の顔や名前すらも思い出すことは出来ず。何を問いかけても分からないと繰り返した」
(だって分からないんだ)
 凄惨であると同時に不可解な事件だった。
 ただの事故であるはずだった。少なくとも子どもたちの親から通報を受けて、車を捜索していた警察官たちは、崖の下に車を発見した時に間違いなく事故だと思っただろう。崖から落ちて不幸な結果になったのだと、そう同情を覚えたかも知れない。
 けれど車の中にあったのは、どう見ても誰かの手によって命をもぎ取られた無残な死体だった。
 その中に一人だけ、僕だけが生きていた。
 誰かに身体を縛られて、殺されていく人々を見ていた。血を流し、切り裂かれた肉を晒し、絶命している人間たちを眼に焼き付けていたはずだ。
(でも僕は何も覚えていない)
 瞼を開けていても、それは見えていなかった。何も聞こえていなかった。脳味噌の中には何も刻まれなかった。
 それどころか事故に関係することは全て、僕の中から綺麗に消えていた。
「事件を目撃してしまったショックで、君は自分で記憶を封じ込めたのだろうと警察は判断した。無理に思い出そうとすれば精神に異常をきたすかも知れない。そう君の両親は警察に訴えては、事件のことについて執拗に問うことを止めて欲しいと懇願したそうだね」
「……衣乃子さんから聞いたんですか」
「いや、僕があの事件について前々から興味があったんだ。君を見た時にぴんと来た。あの子じゃないかなと。大当たりだったみたいだね」
「事件は、無理心中だと結論が出ました」
「そう。父親が無理心中を図った。それに君たち同級生が巻き込まれた。そういう筋書きだったね。でもそれならばどうして殺された全員が他殺に見える?父親は自分の死を他殺に偽装したとあるが、そんなことをする人間が果たして崖の下に車ごと突っ込むだろうか。まして同級生まで巻き込む必要がどこにある。警察は同級生を巻き込むことによって、殺された母親が同級生の母親たちの間で疎外感を覚えていたことに関する復讐だと考えたが。それならば心中するのは母親の行動だろう。何故父親が実行している」
 警察の見解に説得力がないことは、無理心中の可能性を出した時からずっと言われていた。不可解な点だらけではないかと指摘する人も多々存在していたのだが、可能性を否定することは出来ても、他にどんな可能性があるのか説明出来る者はいなかった。
「まして君を生かす理由などないはずだ。縛り付けて、動けなくして、君だけがそこに置かれた。言い換えれば君にこの事件の全てを見せていたはずだ。君は犯人を見ている。犯人は見られることを君に望んでいた」
 誰かが、記憶の中にいるはずの何者かが。僕に人殺しの痕跡を刻み付けた。
 こうしている今も、僕の中には人殺しがいる。
 だが誰なのか分からない。どれほど探っても僕にはそれが掴めない。
 真っ暗な中でずっと、生きている限りそれを抱えているしかない。
「君は殺された人間たちの中で約二日間、どうやって過ごしていた?」
「分かりません」
「変わり果てた同級生たちの中で、どんな気持ちを抱えていた?息絶え腐敗していく人間の死体に囲まれ、自分もこのままでは死んでしまうだろうという状況の中、拘束されて動くことも出来ず、ひたすらにじっと、死と向き合っていたはずだ」
 たった十歳の子どもが体験するにはあまりにも残酷な現実だっただろう。
 家族は、親戚たちは口々に僕に憐れみを向けた。
 だが僕はそれに何も返すことが出来なかった。
 恐怖も悲しみも絶望ですらも、僕には残されなかった。
 死にかけた実感すらもない。
「君は何を見ていた」
 雨が降っている。
 窓に叩き付けられる水音が頭に入ってきては、僕の中に染み込んでいく。

「僕はあの時、死にました」

「死んだ」
「生きてはいませんでした」
「では今ここにいる君は何?片代彰人は生きているじゃないか」

「今も死んでいます。死にながら、生きている」

 死体に囲まれ、腐り落ちていくそれらに囲まれて。呼吸をしながら、心臓を動かしながら、僕は死んだのだ。
 だから何も覚えていない。何も知らない。
 死体は何も感じない。
 そしてその死体のまま、僕は生きている。死ななかったのだから仕方がない。
 生きている死体。死んでいる生き物。
 男は僕に対して、とても嬉しそうに微笑んだ。


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