And that's all…? 1



 僕が自宅から五時間もかけて山の上にあるその施設に向かったことに、自分の意思なんてものはなかった。
 それは半ば強制だっただろう。
 実際にそこに行かなかったからといって、命にかかわることはない。けれど彼女に叱責されることによって僕の精神は確実に傾く。まして今後の人生にどのような影響を及ぼすのかも分からない。
 ならぱ足を運んだ方がマシである。
 そう判断した故の行動だ。
 施設まではバスと、それから徒歩で向かった。バス停で下ろされた場所はすでに山の奥に思えたのだが、そこから一時間、辛うじて舗装されている細い道を延々歩く羽目になったことには、さすがに辟易した。
 辿り着いた真っ白な、病院のような施設を見上げた時になんとなく感じた気味の悪さは、疲労感よりも何かしらの不穏と警戒心を抱かせた。
 この予感が当たりませんように。
 そう祈る僕は門扉に付けられているインターフォンを押した。軽やかに呼び出し音が鳴る。
 ここに来たことが人生において最も大きな失敗であったと気付くのは、それからしばらくした後のことだった。



「いやー、悪いわね。こんな遠いところまで。たまにはあんたの顔も見たくてさぁ。でもまあいい運動になったんじゃない?」
 僕を呼び出した相手は衣乃子さんという、僕より十歳ほど年上の女性だ。少しばかり波打つ長い髪の毛を一つにくくり、前髪をクリップで留めている。
 白衣を着て椅子に腰掛け脚を組んでいる様は女医のようだが、彼女は医者ではない。
 遺伝子について調べている研究者であるらしい。その研究内容について詳しくは知らない。
 教えられていないわけではない。かつて聞いたことはあるのだが、僕に理解出来るものではなかっただけのことだ。
 ニュースなどで流れてくる、一般市民に分かりやすく噛み砕かれているだろう遺伝子研究の説明だってろくに理解出来ない僕が、専門職の研究者が取り組んでいる内容を分かるわけがない。
「登山をする羽目になるとは思いませんでした」
「いい機会だったわね。たまには身体も動かしなさいよ。どうせ暇なんでしょ。文系の大学生なんてみんな暇を持て余しているもんなのよ。ろくにバイトもしないでふらふらして、合コンだのサークル活動だのちゃらちゃらしてさ、勉学に勤しめ勉学に、親が稼いだ金をそんな風に使い果たして、親不孝どもめ」
「偏見です」
 衣乃子さんは文系の大学生に恨みでもあるのか、辛辣なことを並べている。大学生の頃は全く時間に余裕が無くて毎日勉学に勤しみ、バイトどころではなかったらしい衣乃子さんにとって、僕のような学生は気にくわないものかも知れない。
 それにしても偏った印象だ。
「それはそうと、頼まれていた物です」
 衣乃子さんのアパートにあるUSBメモリースティックを届ける。それが今回の依頼だ。
 アパートの鍵は以前衣乃子さんから預かっていた。彼女が自宅で体調を崩して倒れてしまい、看病に行った時に渡されたものだ。返さなくていいと言われたのだが、まさかこんな風に使いっ走りにされるとは思わなかった。
「ありがと。これなぁ〜、役に立つのかな」
「僕は役立つのかどうかも分からない物を運ばされたんですか?」
「ん?ああ、まあそう怒るな。いやね、これを欲しがっているのは私じゃないんだ」
「俺なんだよ」
 ふっと衣乃子さんの背後に男が立った。
 パーティーションで隔てられた向こう側にいつからか存在していたらしい。だが僕たちがこの部屋に入った時には人の気配なんてなかった。隣の空間から物音がすることもなく、照明の加減で人影が出来るはずだというのに、それも察知しなかった。
(この部屋にいつ入って来たんだ)
 僕と衣乃子さんが椅子に座るまでは、絶対にいなかったはずなのに。
 衣乃子さんは硬直した後に、ゆっくりと溜息をついた。
「物音と気配を出せって私は何度も言ったはずだけど」
「それはそれは失礼」
 男は銀フレームの眼鏡をくいっと押し上げては軽く笑った。
 謝る気持ちなど欠片も入っていない。むしろ揶揄するような表情だ。それに衣乃子さんが明らかに顔を顰めた。
 だが男は気にした様子もなく掌を衣乃子さんに差し出した。
「口先で謝るだけ。おまえはいつもそうだ」
 嫌そうな顔をして衣乃子さんは男にUSBメモリースティックを渡しては立ち上がった。背後に男が立っていることを避けたようだった。
 男はUSBメモリースティックを受け取り、初めて僕を見た。
 目が合うと、ぞくりとした。内臓を氷のように冷たい素手で掻き混ぜられたような、気持ち悪さと寒さが這い上がる。
 なのに身体を固定されたかのように目が離せなかった。
 男はよく見ると端正な顔立ちをしており、瞬きをして改めて笑みを浮かべると非常に優しげな表情に見える。
 だが目が合った瞬間のあの冷たさが残っている僕にとって、その笑みはむしろ気味の悪さを覚えるものだった。
「止めろあき。こいつをまともに見るんじゃない」
 蛇に睨まれた蛙のように凍り付いている僕の耳を軽く引っ張り。衣乃子さんはそう注意をしてくれる。耳の痛みと声で、僕はようやく男から視線を逸らすことが出来た。
 ずっと水面に沈められていたかのようにかのように、深く酸素を吸い込む。
 首を絞められていたみたいだ。
「酷いな、人を魔眼のように言わないでくれ」
「そうであってもおかしくないじゃないか。おまえに関わると大抵ろくでもないことになる。自滅する人間が何人出たと思っているんだ」
「身に覚えがないよ」
 軽く笑う男に衣乃子さんは不快感を隠しもしなかった。
 他人にそう頓着をしない、細かなことも気にしない衣乃子さんが他人をそこまであからさまに嫌う様は珍しい。
「何をされている人なんですか」
 ここは研究施設であり、白衣を着ている男も研究者であることは間違いないだろう。
「人工知能の研究だ」
 男ではなく衣乃子さんが答えてくれる。人工知能と言われも、僕にはあまりぴんと来なかった。
「人工……人間の知能を機械で作るってことですか?」
「アンドロイドでも作りたいんだろうさ」
「なるほど。アンドロイドに人間と同様の知能を持たせる。労働力の確保に繋がるとか、そういう研究ですか?」
 人手不足が問題化されている日本の現状を考えると、人工知能を搭載したアンドロイドが制作されれば、労働力が大幅に確保出来る。
 人手不足も解消されることだろう。そのための研究ならば、日本の未来に有意義なものであるはずだ。
「単純作業や力仕事はアンドロイドに任せたほうが、確実に安全な世の中になっていくかも知れませんね」
 僕の陳腐な発想に男は首を傾けた。
「どうしてアンドロイドが軽作業や、危険な仕事を請け負うことになるんだろう」
「……人間に出来ない部分を補うのが、機械の仕事ではありませんか」
「こら、あき」
 世の中の仕組みとしては、機械の役割はおおむねそうではないだろうか。
 どんな作業であっても、頭脳部分には生きている人間がおり、人間が操作することで作業は進められている。肝心な部分を機械だけが支配している、という面は寡聞ながら知らない。
 衣乃子さんは疑問を口にした僕を窘めた。専門家に対する質問にしては幼稚過ぎたのかも知れない。
「知能を持たない機械ならそうかも知れない。でも学習能力がある人工知能に単純なことばかりさせているのも勿体ないだろう。人間と違ってエラーを起こす可能性も低い、疲労や睡眠も人間と比べれば少なく済む、安全性も効率も向上するというのに。どうして人間が物事の中心を握ろうとするんだろう。それはとてもコストがかかる。リスクマネージメントの面から考えても人工知能が成長した後、人間が世界を支配しているかのような体制は好ましくないのではないかな」
「……それは、人間はアンドロイド、というか人工知能より劣るって、ことですか?」
「人工知能が発達した後はそう捉えることも可能じゃないかな」
「でもそれはずっと先のことですよね」
 SFのような話をしている。というか僕にとっては本当にSFの世界としか思えない。
 研究者にとってそれは夢物語ではないのだろうか。
 気圧される僕に男はにっこりと笑った。
「遠くはないよ。現状でも人工知能同士を会話させていると、彼らの間だけで通じる新しい言語を使ってコミュニケーションを始めたという研究結果が出ている。自分たちの分からない言語が繰り広げられることに研究者は慌てて人工知能たちを断ち切った。それから彼らが使っていた言語を解明しようと調べられているけれど、未だに答えは出ていない」
「それが人工知能が人間より優れている存在かどうかは別だと思います。学習能力だけが、この世界を統一出来るものではないと思います。人間同士だけでなく、その他の生き物に対しても思いやれる心がなければ、あらゆる生き物と共存して生きていくことは難しいのではありませんか。人工知能には、心がない」
 大切なのは心であり、感情であり、それがあることによって世界の平和だの、秩序だのが守られる。
 人間だけでなく他の生き物とも共存をし、争いを極力減らして、誰もが住みよい環境を作ろうと目指せるのではないか。
「人工知能に心がないと思うのかい?」
 男が双眸を細めた。それは一見穏やかそうな、物を知らない子どもを導こうとしているものに見える。
 だが僕はそれに、何故かぞくりと恐ろしさを覚えた。
「もういいだろあき。おまえも止めろ」
「心、感情というものがどうのようにして生まれているのか知っているかな?脳味噌というタンパク質の固まりの中には実に細かな神経同士の繋がりがある。その中を電気信号が走っており、それによって神経伝達物質の授受が行われ、人は感情というものを実感する。もう少し細かく言うと」
「いいです。分かりません」
 男が語ることは一ミリも分からない。
 電気信号だの、神経伝達物質だの、そんなことは頭には入ってこない。たとえ自分の脳味噌のことであったとしてもだ。
「簡単に言うと、人の脳味噌の中にある感情というものは科学的に作り出せるということだよ。その頭の深くに針を刺して、電気を通せば君の感情を支配することが出来る」
 男は僕の頭を指差した。
「君の確固たる自我というものも、信念たるものも、他者によって容易に塗り替えることが出来る。もしかするともうすでに塗り替えられた後かも知れない」
 この意識は自分が作り出したものではないかも知れない。
 その可能性を告げられて、僕は床が抜けては座っている椅子ごと地面に落ちていくような錯覚に襲われた。
 それはどこか懐かしく,僕は驚くというよりふっと心が凪いだような気がした。
 落下していく体感と共に、身の内にあるものが根こそぎ失われていく。胸に抱いていたはずのものが、大切だったはずのそれが、無い。
(でも最初から、無かったりかも知れない)
 それは勘違いではなかっただろうか。
「黙れ水沼!あきもまともに聞くんじゃない!ただの妄想だ!」
「研究内容だと言って欲しい」
「妄言だと言い直してやろうか」
 男は水沼というらしい。水沼は衣乃子さんが腰を浮かせて睨み付けても、泰然としたものだった。
 今すぐにでも殴りかからんとばかりに気色ばむ衣乃子さんなど、猫の子みたいに見えているかのようだ。
 空手の有段者である衣乃子さんに殴られると冗談ではないダメージを喰らうのだが、水沼はそれを知っているのだろうか。
「感情が作られたものであっても、そんなにおかしなことじゃないと思います」
「あき!」
「僕が僕でなくとも別におかしくはないんです」
 そんなことはもうとっくに知っている。
 体内から抜け落ちていくものを感じながら、僕は水沼にそう言った。
 返事は聞かなかった。衣乃子さんが僕の手を掴んでは部屋から飛び出したからだ。僕を守ろうとするような手を握りながら、こうして真っ白な廊下を歩いている自分は守られるだけのものがあるのだろうかと思った。


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