美丈夫の嫁9 8 佐賀観光など出来なかった。出来るわけもなかった。 俺がチェックアウトの時間ぎりぎりまでベッドで横になっていたからだ。美丈夫は昨夜疲れ果てて寝入った俺を起こすことはなかったし、俺も目が覚めたからといってベッドから出る気力はなかった。 下半身の違和感が俺を苛んだ。特に美丈夫のものを入れられていた後孔から響いてくる鈍痛のような感覚は、俺の身体を重くした。 動きたくないと呻く俺を美丈夫は心配して、これでもかというほど気遣ってくれた。ベッドから下りる時にまで手を貸してくれようとするので、ほぼ介護のような扱いだっただろう。 昨夜はそれだけ無茶をしたという自覚があるらしい。 俺も美丈夫に多少文句を言いたい部分もあったので、世話を焼いてくる美丈夫を止めなかった。それくらいの我が儘は許されると思ったのだ。 ビジネスホテルを出た後、俺はせっかく福岡で一泊したのだからと太宰府へと足を運んだ。有名な観光地である上に、奉っている歴史上の人物も興味深い。 時代物の小説にはその名前が時折出てくる。なので福岡にいるのならば、行って観たいところだった。 その太宰府にお参りをして、ついでに妹の学業上達も願っておいた。あれも一応学生の身分だ。隣にいる美丈夫も同様なのだが、こちらは祈願するまでもなく実力でどうにでもするだろうという安心感がある。 境内を回ったところで、俺は力尽きた。 歩くのに適していない状態だと思い知ったのだ。 呆気なくギブアップした俺を支えて、美丈夫は地元まで連れて帰ってくれた。 佐賀はまた改めて、と昨日話したことと同じ結論に達した。 二人の予定を合わせるのは少し苦労するかも知れないけれど、それ以外何の問題もなく行けるようなところだ。こだわるようなものでもない。 自宅に帰ってきて、俺は顔や手足などを洗ってルームウェアに着替えてからベッドに転がった。しっかりとしたスプリングの効いた、上等なマットレスの感触に懐かしさすら感じる。 たった二日間寝ていないだけで、恋しくなるようなものでもないだろうに。 (こっちの方がずっと馴染んでおるし、寝心地も良いのじゃが。俺はたぶんあのホテルのベッドを忘れられんだろうな) 初めて男に抱かれることになった場所という意味ではなく。自分の心がどうであるのか、どうしたいのか。驚くほど明確に感じることが出来たという意味で、これまでの人生にはなかった経験だった。 「上総さん、大丈夫ですか?」 寝室に入ったきり、出てくるわけでもなく静かになった俺に美丈夫が様子を見に来る。 微かに洗濯機が起動している音が聞こえてきた。二人分の衣類が現在洗濯槽で回っていることだろう。 「少し寝る」 「添い寝をしましょうか?」 「おまえさんの添い寝は、添い寝だけにはなりそうもないからいい」 これまでの関係ならば、美丈夫が隣にいても添い寝だけで終わるだろうと思えた。けれど今はそれ以上のことを知ってしまった。そう簡単に添い寝を許可することは出来ない。 まして美丈夫は確実に昨夜の余韻を引き摺っている。表情が蕩けたままなのだ。 「俺だっていつも欲情しているわけではありません。それに上総さんに手を出す時は必ず許可を求めます。それを違えることはありません」 キスもそれ以上も、俺の許しを得てから。 その約束は美丈夫の中では変わらないらしい。それは有り難いことだが、困ったことがある。 抱きたいと言われて、俺は即座に拒否出来るかどうか分からなかった。 だからこそ、知らぬ顔でシーツに潜り込んだ。 一週間後、俺は志摩の部屋に呼び出されていた。 そして自ら材料まで持ち込んで料理を作らされている。たまには俺の飯が食いたいとねだった志摩のせいだ。そろそろ自分で料理も覚えれば良いだろうに。 (そう思いながらほいほいやってくる俺がまずいか) せめて手伝えと志摩にはジャガイモの皮を剥かせているのだが、台所が狭くて大変窮屈だ。 自宅では美丈夫が横にいてもゆったりとしているので、この部屋に来るといつも自分は昔と異なる環境にいるなと思う。 「佐賀はどうだった?」 ピーラーで皮は剥くのに、ジャガイモの芽は無視しようとする志摩を注意した直後だった。その台詞が飛んで来たことに、一瞬言葉に詰まった。 佐賀に行ったことは話している。なので次会った際に志摩が旅行のことを尋ねてくることは分かりきっていたのに、動揺してしまった自分が恥ずかしい。 「良いところじゃった」 「ふぅん。写真撮った?」 「ああ」 手を洗ってからスマートフォンを取ってくる。ジャガイモを持っている志摩に代わり、写真をスクロールしてやった。景色ばかりしか撮っていないけれど、その光景の穏やかさと美しさはよく伝わるだろう。 「へー、いいとこみたいじゃん。自然が多い感じ?」 「そうじゃな。歴史的建造物もある。行ってみると面白いところだった」 志摩は賑やかなところが好きなので写真だけでは物足りなく感じるかも知れないが。城や海の美しさなどには興味を引かれたようだった。 「福岡にもう一泊したんだよね?」 「したな」 「福岡の写真は?」 「太宰府天満宮がある」 境内の写真を幾つか撮ってきた。美丈夫の背中が映っているものもあるのだが、あの男は背中だけで絵になるのだなと理解するに十分な出来だった。 志摩も同様のことを思ったらしく「モデルか」と呟いている。 「他は?」 「ん?」 「三日目は太宰府しか行ってないの?」 「早めにこっちに帰ってきたからな」 何故かと訊かれてもまともなことは答えられない。俺が歩きたくなかったから、なんて言おうものならその理由を知りたがることだろう。 かといって上手い言い訳も思い付かない。 顔は平静を装っているのだが、内心焦っていると志摩は首を傾げる。 「誉さんはそれでいいの?せっかく福岡に行ったのに、ここしか回ってないなんて」 「構わんとさ。また二人で行けば良い」 次の予定が出来たことのほうが、美丈夫は嬉しそうだった。 その顔を思い出しては、本当に次の予定を立ててやろうかという気持ちも沸いてくる。 「新婚旅行の下見?」 「は?」 我が妹は何を言ったのか。 耳を疑うのだが、志摩はしれっとした顔をしている。ジャガイモの皮を剥き終わったので人参を手渡そうとしたところだかったのだが、完全に硬直してしまう。 志摩は固まった俺の手から人参を抜き取っては「それっぽいじゃん」などと恐ろしいことを口にしている。 (新婚旅行……) まだ結婚していない。 しかし自分たちがやったことを思えば、そんなことを言われてもおかしくないようなものだったかも知れない。 志摩が見透かしているはずもないのに、俺は妙な汗をかいてしまう。 「あー、でも誉さんなら福岡とかじゃなくて、ドバイとか行きそう」 「縁起でもないことを言うな!あんな金持ち大集合みたいなところに誰が行くか!札束が飛び交う魔窟のような場所じゃろうが!」 「それはさすがに偏見じゃない?治安良いらしいし、ドバイいいじゃん!行ってみたい〜」 「自分の新婚旅行で行け!俺はあんな金が吹き飛びそうなところは行かん!」 ドバイだなんて、アラブの金持ちたちが作り上げた金持ちを集合させるためにあるような場所に行くなんて俺には出来ない。きっと貧乏人にはどうにも性に合わないだろうところだ。 高くそびえ立つビルたち、豪華な建築物、派手なイルミネーションと演出。観光に特化したあの都市の景色をテレビで初めて見た時、自分には縁のないところだと思った。 大富豪が豪遊しているシーンばかり画面から流れていたせいかも知れないが、そこは膨大な金が動いている土地に思えたのだ。 そんなところに行けば自分の財布からも金が出て行く予感しかしない。 「誉さんなら大丈夫だと思うけど」 「俺は人の財布などあてにはせん。慎ましく生きて行くのが俺の信念じゃ」 美丈夫のお金だろうが、蔭杜のお金だろうが、俺には何の関係もないことだ。 嫁と言われていようが戸籍には何の変化もなく、俺が部外者であることは結局のところ変わっていない。 たとえ心情的に、とても近くなったとしても。そういう金銭だの権利だということは深く結び付いていない。 それが俺にとっては楽でもあった。 「じゃあ、新婚旅行はどこに行くつもりなの?」 「……馬鹿馬鹿しいことを言うな」 一瞬「佐賀」と言いかけた自分がいて、我ながらびっくりした。 そもそも新婚旅行という単語を軽く聞いていたこと自体、異様なことであるはずだ。 (いかんいかん) 心を引き締めなければ、と自分に言い聞かせる。 新婚旅行などするつもりはない。けれど佐賀には、美丈夫と共に行きたいなと、何度目かの思いが抱いていた。 了 |