美丈夫の嫁5 8





 泣き出しそうに見えた美丈夫は涙を流すことはなかった。その代わりに淡く微笑んでは俺の頬に触れてくる。泣き笑いを浮かべているその容貌は間近で見るとぞっとするほどに整っている。
 これまで見た中で最上に輝いている、美しさすら滲ませた男前に俺はがっつり意識を抜き取られてはぽかんと美丈夫を見上げてしまった。
「幸せです。他の人から見ても貴方が幸せそうに暮らしていると思えることも。俺の気持ちにちゃんと向き合ってくれたことも。好意があると、伝えてくれたことも」
 幸せだ、と美丈夫はもう一度噛み締めるように呟いた。
 そしてその声は俺の耳からそっと心臓部に流れ込んで来ては、どくりと鼓動を跳ねさせる。
「キスしていいですか?」
「え………、はい」
 突然のお願いに俺は一瞬面食らったけれど、これはそういうことをする場面なのだろう。思いが繋がったところなのだから、キスくらいは交わされてもおかしくない。むしろドラマなどではここで何もしない方が演出家が叱られる。
 雰囲気に添って俺が頷くと、美丈夫は双眸を細めた。
 見る者をうっとりとさせるようなその笑みに目を奪われていると、肩を掴んでいた美丈夫の手が俺の身体を横に倒した。
「はい?」
 ソファに横倒しになった俺の上に、美丈夫はまたがってくる。一瞬で行われたマウントポジションに呆気にとられた。
「待ってくれ、何をされるつもりじゃ」
「キスをするだけです」
 本当だな!?だったらなんでこの体勢を取った!?と混乱する俺の口を美丈夫が塞いでくる。
 それは相互理解があった。だからそれに驚いてはいけない。
 だが美丈夫の舌はいとも容易く俺の口内に入って来ては、固まっていた俺の舌を絡め取ってくる。
「ん、んん……!」
 キスをするのは初めてではない。ディープなものも経験済みだ。しかしこんなに執拗な舌使いには遭遇したことがなかった。
 俺が美丈夫の舌に応える応えないなど関係がない。好き勝手歯列を辿り、口蓋をくすぐってくる。舌を吸い上げる仕草は強引なのに、口の粘膜を辿る舌先はもどかしいくらいに柔らかい。その緩急にじわじわと体温が上げられていく。
「ん……っん、ぅ」
 二人分の唾液が口の端から溢れていく。腰の辺りに欲情が纏わり付いては、そのキスが相当官能的であることを思い知らされる。
 明らかに性行為を彷彿とさせるものだ。
(やり過ぎじゃ!)
 思いが通じましたという喜びで行われるキスはこんなえげつないものではないはずだ。
 俺が美丈夫の肩をばんばん叩いて止めるように促すと、美丈夫は三秒待ってから唇を離してくれた。
(ギラギラしておる……)
 美丈夫は呼吸が少し乱れており、泣きそうだったはずの瞳は別のもので濡れているようだった。
 おそらく欲情しているだろうその眼差しを向けられて肌が粟立つ。
「いった、待て、何故」
 美丈夫はキスを止めたかと思うと俺の鎖骨に噛み付いて来た。歯を軽く立ててはきつく吸い付いてくるその行動に嫌な予感がした。
 そしてその予感を増長させるように、美丈夫は俺のシャツのボタンを外しては唇を下ろしていく。
「何をしておるおまえさんは!」
「キスが許されたので、唇での接触ならセーフかと思って」
「どこもセーフじゃないわい!あと、当たっておる!」
 唇ならば肌への愛撫が認められるなんて、そんな思考回路も驚きなのだが。俺の腰に押し当てられた下半身の一部分が、形状を変えていることにもびっくりさせられる。
 ズボンの上からでもそれが勃っていると分かった。
「当ててます。俺が貴方をどう思っているのか、感じているのか。この方が分かりやすいでしょう」
「思い知らせてくるつもりか!あ、ストップ!無理じゃ!」
 こんな卑猥な手段を執るつもりかと焦る俺のシャツを、美丈夫は剥ぎ取ろうとしてくる。露わになった腹に俺はすぐさまシャツの死守に動いた。
 美丈夫は拒もうとする俺に首を傾げた。
「どうしてですか?いきなり挿入はしません。でもその手前くらいはいいでしょう」
「良くない!今さっき思いが確認出来たばかりじゃろうが!そんな、いきなり!」
「全然いきなりじゃありませんし、俺は前々からそうお伝えしていました。肉欲を抱いていることもご存じでしょう。大体俺たちは夫婦です。セックスをしても何らおかしくありません。むしろ遅すぎました」
「俺にとっては早すぎる!」
 貴方が好きですと、おぼろげに認めた途端に身体を求められては精神がついていかない。数分前までの俺は美丈夫をどう認識しているのかすら謎だったのだから、配慮が欲しい。
「俺はずっと待ち続けたんですが」
「おまえさんはそうでも、俺はついさっき開始されたばっかりじゃ!」
「認識の違いですね。しかしここでまた引き下がって貴方の気持ちを待つとなると、次のきっかけが来るのがいつになるのか俺は怖い。貴方は考えすぎるんです。理屈など、通るわけもないものを見たがる」
 最初から理屈など通るわけがないのだと、そう二十歳の男に達観したようなことを言われて俺は完全に形無しだった。
「……性分じゃ。面倒じゃろう」
 そういう性格なのだ。そんな俺と付き合うならば、この人はこれからも苦労を強いられることだろう。それを想像すると嫌気が差すのではないだろうか。
 窺う俺に対して美丈夫は試されているとでも感じたのか、長い息を吐いては力なく肩を落とした。
「そうですね。でもそれもまたいいと思う俺がいます。貞操観念がとても固いということでもありますから」
 美丈夫は俺の頬にキスを落として、渋々と言うように身体を引いた。腹の上から退いてくれた美丈夫に心の底から安堵した。さすがに駄目かも知れないと思っただけに、まだ貞操が無事であることが本当に有り難い。
「今日は引きましょう。貴方が嫌だということはしないというのが約束です」
「ああ」
「ですが、これから頻繁に貴方を求めることだけは先にお伝えしておきます。覚悟して下さいね」
「恐ろしい予告をするな!」



 ある意味、美丈夫に思いを伝える前よりも緊張する生活になったと思う。
 相手は俺に手を出してくる気満々の男だ。いつどうなってもおかしくはない。しかし緊張はするのだが、重苦しかった空気も消えては穏やかな雰囲気が戻って来た。
「怯えなくても大丈夫ですから。ちゃんと寝ましょう」
 深すぎるキスをされたその夜、寝室のベッドを前にして横になるのを躊躇っていると美丈夫がそう宥めてきた。
(本当にか?あんなことして来た人が、本当に何もせずに寝てくれるのか?)
 これまでも美丈夫はベッドで俺に何かしてくることはなかった。それどころか触れてくることすらもなかったのだが、ソファでは俺の上にまたがって鎖骨や首回りに噛み付いて来た。
 それどころか服を脱がそうとしたのに、ベッドという性行為に適した場所で無害でいてくれるのか。
 半信半疑だったのだが、美丈夫は身構える俺の横ですぐさま熟睡した。いつも通り十分もかかることなく眠りの世界に飛び立った人に、俺は一種の才能を感じてしまった。
 電気も付けずに薄暗い部屋の中で、寝ている時も崩れることのない美丈夫の顔面を眺めながら「この人が俺をなぁ……」と呟いてはしみじみ趣味が悪いと思った。
(というか、俺が抱かれる側だと決められておるような状況がおかしくないか?)
 同性なのだから、性行為がしたいというのならば俺が美丈夫を抱くという選択肢もあったはずだ。だがこの人は数時間前、挿入はしないと言ってきた。あれは間違いなく俺にイチモツを突っ込むつもりの発言だ。
 美丈夫は俺を抱くことを自分の中で決定させている。
(嫁というのは、そういう部分も含まれておるんじゃろうか)
 男であっても嫁は嫁。旦那に抱かれることはあっても、旦那を抱くなどとんでもないということか。
 旧家である蔭杜家ならばそんな掟のようなものがあっても不思議ではない。
(そんなこと怖くて訊けん)
 性行為について質問などした時には、これ幸いとばかりに実践に持ち込まれる可能性がある。君子危うきに近寄らず、自らやぶ蛇になることもないだろう。
(……さて、この状態はいつまで保てるじゃろうか)
 美丈夫はいつ、俺に対して性行為を求めるだろう。それをどこまで避けることが出来るだろう。そして避け続けた時にはまた残酷だと言われるのだろうか。
(しかしな、それとこれとは別というか。俺も一応男のプライドみたいなもんがあるわけで)
 簡単に「良いですよ」とは言えない事情も汲み取って欲しい。
 距離感を計りかねる俺を尻目に、それからの美丈夫はむしろ身体の一部が触れるほどの近さまで俺に寄って来るようになった。
 肩や手が触れると俺は無意識に美丈夫を見上げたり、びくんと身体を跳ねさせたりするのだが、美丈夫はそれに小さく笑う。
 たまに大袈裟なくらいに俺がびっくりすると笑いを噛み殺している時があるので、そういう時は睨んでやるのだが全く効果はない。
 意識してしまっている。
 自分でも呆れるほどそれが態度に出ているのだ。きっと美丈夫はこれまでするりと避けられていた分、美丈夫を意識する俺が面白いのだろう。
「俺一人で十分なんじゃが」
「いえ、上総さんもお仕事でお疲れでしょうから」
 お手伝いさんが作ってくれた晩飯を二人で食べ終え、汚れた食器を洗っていると美丈夫が隣に来ては洗い終わった食器の水気を布巾で拭ってくれる。
 二人で暮らし始めてからよくある光景なのだが、それにしても以前ならば二人の間には一歩ほど間があったのに、今は肘が当たりそうな近さだ。
 にこやかに俺に話しかけてくる人がたまに悪魔に見える。俺の被害妄想だろうか。
「そういえば、志摩さんは栄に関して何かお話されてますか?」
「いや、仲良くやっておるとは言っておったが」
 美丈夫はふと思い出したように志摩の話題を振ってくる。
 志摩と栄さんの交際は順調らしく、休みの日にはどこに行ったとたまに連絡が入る。付き合ったばかりのカップルだ、自分の幸せを他人に自慢したい時期なのだろう。
「それは何よりです。栄からは志摩さんと手を繋げたのがデート三回目の時、しかも志摩さんから繋いで貰ったと聞いて、我が従兄弟ながら情けなさに言葉が出ませんでした。志摩さんがご不満に思っておられるのではないかと心配だったのですが」
「志摩から不満なぞ聞いたことはない。むしろ優しくて一緒にいるとほっとすると言っておったわい」
 デートを三回する間に出来たことが手を繋ぐ、とは中学生のようで微笑ましい。志摩も奥手な栄さんにじれったさより安心感を持っていることだろう。
(すぐに手を出してくる男よりずーっとましじゃわい)
 どこの誰と比較したわけではないが思わず美丈夫を見てしまう。俺の気持ちを読み取ったのではないだろうが、美丈夫とぴたりと目が合ってしまった。
「上総さん、キスしていいですか?」
「は?何故、突然」
 洗い物が終わったばかりで手も拭いていない俺に、やはり食器をまだ持ったばかりの美丈夫が唐突にキスをせがんでくる。しかも冗談を言っているようでもなく、至って平素と言える様でそう口にするのだ。
「……そんな空気じゃなかったと思うんじゃが?」
「そうかも知れません」
「それなのに?」
「俺は悪趣味なので」
(どうしよう、決まり文句みたいになっておるぞ)
 美丈夫は自分のことを「悪趣味だから」と言いながら俺を褒めたり、こうして何かを求めてくるようになった。免罪符のように使われるそれに、今のところ上手い切り返しが思い付かない。
 どう言えばその台詞を避けることが出来るだろう。頭を悩ませる俺に、棚に食器を戻した美丈夫は時間切れだとばかりに肩を掴んできた。
「言い換えますね。キスします」
「宣言!?しかも良い笑顔じゃな!?」
「ありがとうございます」
「この場合は褒めておるわけではない!」
「嫌な場合だけ言って下さい」
「あの」
 キスは嫌じゃない。だがいきなりされるのはどうかと思う。
 そんな微妙な俺の気持ちなど知ったことではないとばかりに、美丈夫は一拍しか待たずに俺に口付けた。







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