美丈夫の嫁2 1





 朝起きて、半分眠っている意識のまま料理を開始する。人によっては危ないと思うかも知れないが、日課になってしまっている以上手つきに危うさなどない。
 むしろそうすることによって頭が起き出して、今日の予定を確認出来るくらいだった。
 それが俺の朝の流れだ。
 お手伝いさんがいるので、朝ご飯など作らなくても良いと言われていたのだが。休日のご飯に加えて毎朝の食事を仕度出来るように願い出た。
 元々の生活のスタイルを少しずつ取り戻している感覚だ。
 美丈夫には俺が作ったご飯を食って貰っているので申し訳ないのだが、今のところ妙に喜んでいるようなので放っている。
 夫婦らしいこと、というものに憧れでもあるのだろうか。美丈夫のご両親に関してはよく知らない上に、母親が亡くなっているらしいという情報しか持っていない。
 こういうことはあまり深入りしないのが正解だと、これまでの人生で学んでいる。各家庭には何かしらがあるものだ。
 本物の嫁ならば家族になるのだから知っておくべき情報だろうが。俺は所詮かりそめだ。
 俺がご飯を作るようになってから、美丈夫は宣言通り風呂掃除を毎日している。その上週に一度は本格的な掃除、カビ取りだの天井の掃除だの、大袈裟なくらい綺麗にしている。
 そもそもこの家は建ってから間もないので、そんなに気合いを入れる必要もないくらいに綺麗なのだが、美丈夫は使命感にかられているらしい。
 お手伝いさんは仕事を取られたと苦笑していた。
 同居自体はさして問題もなく、平穏に流れていた。美丈夫も俺も互いに多くの干渉はしない。自由に過ごす。だが食事は出来るだけ共に取る。
 そして何故かベッドが同じだが、だからといって何があるわけでもなく、本当にただ就寝するだけ。しかも美丈夫は規則正しい生活で俺より大抵早く寝ている。
 眠りの深さは尋常ではなく、この前は激しい雷の音でも全く起きなかったのでただ者ではないと思ったくらいだ。
 この人の眠っている間に大きな出来事、事故や天災が起こらないことを願っている。
 どうなることかと身構えていた暮らしが、拍子抜けするほど普通に流れている中。その電話が飛び込んできた。
 仕事が終わり、さて帰ろうかとしていた時だ。明日は休みだからどんな飯を作ろうかと考えていた俺の鞄の中で携帯電話が震えた。未だにスマートフォンに変えていない二つ折りのそれを見ると、妹からの着信だ。
 明日が休みだとこの前話したので、何か用事でもお願いされるのだろうか。明日は会いに行く予定はなかったのだが、特別したいことがあるわけでもない、志摩の言うことを聞いてやっても良い。そんな暢気な気持ちで携帯電話を耳に押し当てた。
「もしもし」
『お兄ちゃん助けて…!』
 電話口で志摩が悲鳴のような声でそう言った。
 途端に全身に衝撃が走る。危機感が頭の天辺まで一瞬で駆け上り、心臓が大きく跳ねた。ただならぬ空気に鞄を持ち上げては従業員出口まで駆け出す。
「どうした!?」
『うちに来て、助けて、お願いじゃ…!』
 大きな声は出さない。だが必死になって何かを訴えてくる子が、相当に追い詰められていることは分かった。
「何があった!?」
『うちに、同じ大学の男子が強引に入って来て。今、居座っとるんじゃ。帰れ言うても帰らん』
 とうとう口調まで崩れ始めた妹は泣き出したらしい。ぐずぐずと呼吸が乱れ始めている。
 言われている中身や志摩の声に激情が込み上げる。男が、家に入ってきて居座っているだと。
「何もされとらんか!?」
『大丈夫。今、トイレに逃げた……』
 良い機転だ。とにかく我が身を男から離すことが最優先。鍵がかかるところがトイレしかなかったのだろう。
 ひとまず胸を撫で下ろすけれど、一刻も早く殴り込みに行かなければいけない。職場の廊下を走る俺に、通りすがる人たちがぎょっとしている。相当険しい顔なのだろう。
「おまえのアパートは女性限定じゃろ!何故男が入りおるんじゃ!」
『他の住人と一緒に入って来たみたいじゃ。お客さんみたいな顔で』
「管理人は何をしておる!」
『おらんのかも。よう、見かけない時がある。私がドアを開けた時に割り込んで来て、そのまま部屋に入りよった。帰ってくれって何度も言うたのに』
「警察を呼べ!」
『でも知っとる人じゃ。それに大学で何言われるか……向こうの方が友達が多くて、サークルも入っとる』
「そんなもん関係ないじゃろ!おまえの安全がかかっとる!危ないんじゃぞ!?」
 通話はそのままに自転車に辿り着いて乗る。通勤に自転車を使っていて本当に良かった。職場から志摩のいるアパートまでそう遠くない。
 全力で駆け出せば数分で到着出来る。出来るだけ信号のないところを通って、申し訳ないが周囲を無視するほどのスピードでこいでいた。
 妹の身が危ないのだ、死ぬ気で走らないわけがない。
「大体相手は何者じゃ!」
 そう言う俺の声が聞こえたかのように、電話口の遠くで男の声がした。志摩ちゃんと呼ぶその声に、目の前に男がいたら殴っていただろう。
 ペダルをこぐ足に力を入れすぎて空回りしてしまっている。
『蔭杜の……親戚だって』
 小声で答えた妹の台詞に、血の気が引いた。それまで腹の中で唸っていた怒りが一瞬で収まる。いや、収まったのではない。怯んだのだ。
 志摩がこうなったのは、自分のせいだと分かったから。
『私に関わっても、何も良いことなんぞないって言ったんじゃ。お兄ちゃんもまだ誉さんの嫁でもない。じゃが、向こうは聞かん……』
 蔭杜の本家に、当主に取り入るための手段として。嫁に入ろうしている俺の妹に接触して来たのだ。一番楽そうだと思ったのだろう。
 同じ大学で共通点もある。ここからなんとか美丈夫へ、そして環さんに繋がっていくつもりだ。
 見え透いたやり口に唇を噛んだ。
『これは個人的な好意じゃとまで言いよる。蔭杜は関係ないなんて。お兄ちゃんが蔭杜に入ってから途端に言いよって来たのに、あからさまじゃ』
 蔭杜から零れてくる利益を喰らおうとしている。
 信号のないところを走っていると自然と街灯も減ってくる。薄暗い住宅街を走っていると、次第に夜の闇が襲いかかってくるようだった。
 だが俺はそんなものに呑まれるどころか、全身に火が付いたように暑く汗が噴き出すようだった。
 切れ切れの呼吸も無視して、アパートに辿り着く。自転車は入り口に放置した。
 こんな時に撤去されるだの人様の邪魔になるなど考えていられない。
 アパートの入り口にある管理人室を見ると誰もおらず、思わず舌打ちしては壁を蹴った。無能にもほどがある。
 マンションの鍵は入り口の解錠から何から全部、志摩から預かっている。万が一のことを考えて分けて貰ったのだが、こんな風に役立つ時が来るなんて思いたくなかった。
 エレベータが丁度止まっていたので、中に入り、苛立ちのまま志摩のいる階のボタンを押した。すぐさま閉まるボタンも力強く押し、ゆっくりと動くドアに再び唇を噛んだ。
 そうしなければ今すぐにでも暴れてしまいそうだった。
 異様に遅く感じるエレベータに地団駄を踏み、階に到着した時には通れるかどうか微妙なくらいしか開いていないドアの隙間を滑り出した。
 そして志摩の部屋に駆け寄ると握ったままだった合い鍵でドアを解錠しようとした。焦ると力加減を間違って鍵穴にちゃんと鍵を差し込むことが出来ないなんてことを、自分で身をもって体験する。
 何度目かの失敗の後ようやくドアを開けると、目の前には男が立っていた。俺より少しばかり背は高いだろう、所々跳ねた髪の毛とだらりとしたズボン、パーカーに手を突っ込んだままの姿が実に腹の立つ姿だった。
 しかも俺を見るとへらりと笑って見せる。驚きもない、そして警戒もしないということは、こいつはたぶん俺を知っている。
「お兄さんじゃないですか」
 案の定俺を兄と呼ぶ男に吐き気がした。息切れしている身体の隅々にまで怒気が籠もっていく。
「おまえ誰だよ」
 殴ってはいけない。警察沙汰にしては、志摩が通報しなかった気持ちを無下にしてしまう。だがいっそ殴ってしまいたいというのも本心だった。ましてにやついた男の姿は癇に障る。
「やっぱりお兄さんに電話してたんだ。勘違いですよ、僕は同じ大学に通ってる」
「何故ここにいる。妹が男を部屋に上げるわけがない」
 男の台詞をわざわざ最後まで聞いてやる趣味はなかった。遮るように詰問すると肩をすくめられた。
「たまたま別の部屋の子に会いに来たんです。でもいないみたいで、そしたら志摩ちゃんがいたので」
「志摩ちゃん?馴れ馴れしい」
 人の妹をちゃん付けで呼んでいる様があまりにも不貞不貞しい。友達ですらないだろう男にどうしてちゃん付けで呼ばれなければいけないのか。
「妹さんと仲が良いんですね」
 俺の機嫌が更に落ちていくのが目に見えて分かるのだろう。男の口元が引き攣った。我ながら殺気立っているのは自覚している。
「俺たちの仲の良さがおまえに何の関係が?大体強引に部屋に入ってくるなんて警察を呼ばれてもおかしくない」
「誤解ですよ〜、僕はただ大学のノートを見せて欲しいと思ってお願いしに来たんです。そしたら志摩さんが勘違いしたみたいで」
 両手を挙げて降参しているようなポーズを取っているが。その目は焦りがない。むしろ俺が探るような視線をしているのが分かる。
 舐めている。
「妹がトイレに籠城するほど、おまえは何をした?ノートを貸して貰うだけで家に押し入るのか。おまえは何様だ」
 ここまで志摩を怯えさせて、俺の元に助けてくれという悲鳴のような電話までかけさせて。この男がこんな風に平然としているのが非常に不愉快だった。
 何の権限があってこんな真似をしているのか。自分がどれほど偉いと思っているのか。
 睨み付けても男は巫山戯た態度を止めない。
「そんなに怒らないで下さいよ。僕はですね」
「帰れ」
 またろくでもないことを言おうとしている。それだけは分かった。
 だからここから出て行くことだけを告げる。いや、命じたと言えるだろう。
 従わなければさすがの俺も、我慢の限界を迎えてしまうだろう。
 今でもぐつぐつと自分の内臓が煮えるような音が幻聴として聞こえそうなのだ。それくらい憤りが膨らんでいた。
「分かりました、今日は帰ります。またね」
「二度と来るな!」
 わざとらしくトイレに向かって声をかける男に怒鳴る。志摩を更に怖がらせるようなことを言う神経が信じられない。
「あのですね、僕は純粋に志摩さんのことを好きなだけで。だからお近づきになりたいと」
「さっさと失せろ」
 純粋に志摩のことを好きな人間が、どうして泣いている志摩を前にして笑えるのだ。何故志摩の言葉を聞かず、望むことをしない。
 好きならその人のどんな言葉だって耳を傾けて、優しくして、笑って欲しいと思うだろう。自分のことを押し付けるのではなく、相手のことばかり知りたいと思うはずだ。
「怖っ…」
 男は大袈裟に驚いた仕草をしてから、俺の横を擦り抜けた。「お邪魔しました」なんて暢気に言い残して出て行く背中に塩を投げつけたくなる。
 しかしそれよりも先に玄関を閉めて鍵をかけ、トイレに向かう。
「志摩、帰ったぞ」
 男と話している声とはがらりと変わり、出来るだけ穏やかな口調でそう告げるとトイレの鍵が開けられた。
 そしてゆっくりとドアが開かれる。
 中にいた子の目は真っ赤になっていた。相当泣いたのだろう、ひっくひっくと呼吸が途切れては肩で息をしている。
 こんな風に泣くのを見たのは、俺が美丈夫の家に入ると言った時以来だ。その時も、こんなにも泣いたのはいつぶりだろうかと思うくらいに泣きじゃくった。
(泣かせてばかりじゃ)
 美丈夫に、蔭杜に関わってからこの子は泣いてばかりではないか。笑った姿がその分減ってしまって、苦労をかけている。
「お兄ちゃん……」
「怖かったな」
 トイレからのっそり出てきた子の背中を撫でる。するとすぐに赤い目が再び潤んでは志摩が手で目を覆った。
「に、にやにやしたまま、ずっと部屋におって。怖くて、怖くて、出て行ってって言ったのに、駄目で」
「何もされてないか?」
「うん、あいつも、何もせんと言うたけど、でも、怖くて」
「そんな言葉は信用するな。無事で何よりじゃ」
 何もしないなんて、あんな軽薄そうな男が言ったところで信用出来るわけがない。次の瞬間には覆っているとしか思えない。
「私、私、もう、辛い。嫌じゃ、蔭杜なんて関係したく、なかった。平和に暮らしたい」
 志摩はひときは声を乱しては俺の胸元にしがみついてきた。ぎゅっと握られたシャツに、胸の奥が締め付けられる。
 気丈で我が儘もあまり言わず、自分のことは自分でやってきた。甘ったれの部分はあったけれど、それはじゃれているようなものだった。
 こんな風にもう何もかも放り出したいとばかりに泣きながら願うのは、俺の嫁に行く時より酷い。
 それだけこの件が辛かったのだろう。
「もう、大学も辞めて働く。なんとかお金を稼げるようになるから、じゃから」
「いい、辞めるな。おまえが辞めることなんぞない。俺が金くらい出してやる。薄給じゃがそれくらいは出来る」
 大学に通っている志摩は楽しそうなのだ。自分が好きな部門を集中して学ぶ事が出来る。あれこれが分かるようになってきた、今まで分からなかったことが見えるようになった。勉強が面白いなんてすごいね。
 そう笑う子を止められるわけがない。
 俺の給料は安くてぺらぺらだが、その笑顔を守ることくらいは出来る。やってみせる。
「でも、でも、あいつが大学におる」
 あの男が同じ大学にいる。その事実を再確認させられては、やっぱり殴っておけば良かったと思う。警察にも通報すれば良かった。騒ぎにしたくない志摩の気持ちは分かるけれど、あのままのさばらせておくよりましだっただろう。
(どちくしょうが!)
 この部屋なら俺でも来られる、あの男から志摩を守れる。だが大学の中では手が出せない。
 まして大学ではあの男にも友達が多くいるなんて、世の中は腐っていると思うけれど、数の暴力というものもある。
(どうすれば止められる。あの男を排除出来る)
 真っ赤に染まっている脳内であれこれ考えるが、どれも犯罪めいている。冷静さが欠けているのことは分かっているけれど、泣いている妹を抱えて平静を保つほうが無理だ。
「お兄ちゃん、帰って、来てよ。こんなの嫌じゃ。付きまとわれて、蔭杜の妹じゃて、もう、私は」
 耐えられないと言う子の悲痛な声音に、俺の中で一つの答えが浮き上がった。それは急激に輪郭を表し、俺の中で強く主張を始めた。
「うん。止めじゃ。こんなのもう止めじゃ。おまえを泣かせて、こんな目に遭わせてまで、何故蔭杜なんぞにおらねばならん」
 全部止めじゃ、煩わしいあれこれも全部、蔭杜から来たのならば蔭杜を切れば良い。元々おかしいと思っていたものだ。
(止めてしまえ)
 大切なものを壊してまで蔭杜の中にいる必要なんて何もない。
 そう思うとズボンのポケットに入れていた携帯電話を取り出し、履歴の一番上に有る名前を呼び出した。
 片手で足りないほど通話をした相手は、呼び出し二コールもかからずに出てくれた。この時間は家にいるはずだ、きっと手元にスマートフォンがあったのだろう。
『もしもし、誉です』
 スマートフォンだというのに律儀に名乗ってくれる人に俺は深く息を吸い込んだ。
「誉さん、離縁して下さい」


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