家守 参
家守が怒って帰っていった次の日。 部活の朝練のため、悠里が目覚めた時には永里はすでに家を出ていた。 顔を合わせずに済んだことは実に良かった。さすがに夜の気持ちを引きずったままなのだ。 まだ日が昇ってそう時間も経っていない頃は、風が涼しい。 眩しい日差しが艶のある床に反射しては悠里の目を細めさせた。 朝飯のために一階に下りて居間を見ると、叔父がすでに支度を済ませてくれていた。 父が海外赴任でいないため、子ども二人だけで暮らすのは不安があるということで叔父はここにいる。 いわば保護者だ。 まだ四十を迎えていない叔父は、実年齢よりも若く見える。 兄だと言っても他人は疑問を覚えないだろう。 「おはよう」 声を掛けると叔父はしゃもじを手に取った。 「おはようさん。飯出来てるぞ」 自分の子どもでもないのに叔父は兄弟の面倒をよく見てくれる。生前母との仲も良かったらしく、その影響もあるかも知れない。 食卓に正座をして並べられる朝飯に手を合わせた。 今朝は味噌汁やご飯という和食になったらしい。家の雰囲気が古めかしいものなのでそれはぴったり当てはまっていた。 「永里に乱入されたって?」 手を合わせて頂きますと言った直後に叔父はそんなことを言い出した。 きっと叔父自身は弟と飯を食ったのだろう。今は目の前で麦茶を飲んでいる。 昨夜のことを思い出させられて、溜息を付きたくなる。 「ああ。家守は怒って出ていった」 こんなことは今までなかったことだ。 どうしたものかと悩んでいたのも事実で、きっと永里が話さなくとも叔父に相談はしていただろう。 母も祖母もいなくなってしまい、家守について話が出来るのは叔父だけになってしまったのだ。 「昨夜は夜中に酷い家鳴りがするから何かとは思ったがな」 古い木造の家なので、時折みしりと木々はきしむ。なので音がするのは珍しくないのだが、叔父の言うとおり昨夜は随分大きな音がしていた。 それはそのまま家守の怒りであるような気がして、居心地は悪かった。 「永里は一度寝付いたら起きないから、平気だと思っていた」 まるで言い訳になっていないことを言いながら味噌汁をすする。 それに叔父は片眉を上げる。 「だからデカイ声でも出してたのか?」 「そんなわけないだろ」 もしそうであったのなら叔父にだって聞こえていただろうに。嫌なことを言う。 毎回どれだけ必死に、苦しさを覚悟して声を殺していると思っているのか。こんな苦労は誰にも語れないけれど。 「しかし永里も、何も入ることはないだろうにな」 うるさいとあの時永里は怒っていたようだが、悠里は声など出していない。 家守だってそう喋ってはいなかったのだ。 ただ身体が跳ねて、古い床が微かにきしむ音、僅かな水音が零れたくらいだ。 おそらく永里は、それが自慰で漏れた音なのだと思うと気になって仕方がなかったのだろう。 だが、そうだとしてもいちいち襖を全開にして怒鳴り込んでくることはないと思う。 「一人でシてたと思ってもそっとしとくのが優しさだろうに」 「あいつにそんな気遣いが出来るものか」 無遠慮で大雑把な弟は気になり始めたら見逃しておくということが出来ない性分らしい。自分の目で確かめて明らかにするまで知りたがる。 余計な好奇心だ。 悠里にとっては信じられないような行動力だった。 「しかしまずいな」 永里の性格に関してはまだ呆れが混ぜられるものだが、叔父は真面目な表情に戻って麦茶の入ったグラスを置いた。 「家守は守り神だ。神ってのは無償で人や物を守ってるわけじゃない。崇めて宥めて、初めて有益をもたらす存在だ」 叔父はいつかも語ったことをもう一度口にする。 そう繰り返すことで、家守は決して優しいばかりのものではないのだと釘を差しているのかも知れない。 悠里は家守の柔らかさばかり感じているから、そういうものだと勘違いしそうになる。それを叔父は見透かしているのだ。 「俺が捧げ物、だろ」 「うちではな」 神様に守って貰うために、その家が差し出しているもの。 それはその家によって異なるだろう。 けれどこの家が守り神に差し出しているのは、人だ。現在は悠里になる。 そう言えば生け贄のように聞こえるかも知れない。実際そう言われても間違いではないようなことになっているのだ。 けれどどうしても、悠里は己を生け贄だと思うことに違和感を覚えていた。それはもっと凄惨な、狂おしいものにこそ相応しい言葉であるような気がするのだ。 悠里はさしたる苦痛も抑圧もなく、平穏に暮らしてしまっている。それで生け贄だなんて言っても全く深刻さがない。 「代々そうだった」 叔父はそう告げる。 叔父が子どもの頃には家守のつがいだという女性が暮らしていたらしい。 あの時の家守と今の家守は違うというのだから、家守たちにも決められた世代交代があるのだろう。 「それがなくなると家が傾く、だろ?前にも聞いた」 家守と初めて口付けを交わした後、家守が男だったことに衝撃を覚えて相談した時にもこの話をした。 「言ったな」 複雑そうに叔父は同意する。 甥を差し出しているような後ろめたさがあるのだろうか。 「なら俺はやり直しをしなきゃいけないのか」 常に家守からふらりと現れていたのだが、悠里から探さねばならないことになったのだろうか。 まして自分の身体を与えるようなことをするために。 自分が望んでいるとは決して言えないこの関係だというのに、家守を求めに行くというのは抵抗がある。 「いけないことはないだろうがな……。嫌ならやめちまえ」 叔父は投げるようにそう言った。 複雑そうな表情には苦笑が浮かんでいる。 「この家がなくなっても生きていけるだろ」 土地や家に縛られていた時代とは違い、今はそこまで人々は縛られていない。 自由に住む土地を変えられるのだ。 この古い家がなくなったところで死ぬわけではない。 「おまえらの親父は海外でがっつり稼いでる」 有能であるらしい父は日本を離れた場所で毎日きりきり働いているらしい。 共に暮らしている時から忙しい人だった。 そして自分たちには金に苦労したという記憶もない。むしろ金のことなら気にする必要はないという類のことを聞かされていた。 裕福な家なのだろうと、漠然と思っていた。 けれどそれは悠里にとっての安心に繋がるものではない。 「リストラされなければな」 父が忙しく毎日働いていられるのは、家守が仕事が回ってくるように運を分けているからかも知れない。 この家にいる者たちが飢えないようにするのが家守の役目らしいのだ。 悠里や永里、叔父たちが金に困らないように父の元にも金運を呼んでいるのかも知れない。 その家守にそっぽを向かれると、明日には会社が倒産するか、父がリストラにあってもおかしくない。 「叔父さんも土地がなくなるかも知れない」 そう告げると、叔父は渋い顔をする。 この家はあちこちに土地を持っているのだ。 それを管理していることで叔父は金銭を得ている。 「土地は家守の影響がデカイんじゃないか?」 家を守る守り神は土地まで関わっているのではないだろうか。そんな感覚を覚える。 その恩恵がなくなり、土地が奪われるようなことになれば叔父は職を失うだろう。 蓄えてきた富も消えてしまうかも知れない。 「家守がいなきゃ途端に駄目になるような、そんな無能に見えるか?」 守り神がいるからこそやっていけている。全ては運があるからだ。 悠里の言い方ではそんな風に聞こえたのかも知れない。 けれど悠里は叔父の仕事ぶりなど見たことがないのだ。どんな内容のものであるのかも詳しくはよく知らない。 何やら難しい書類をかき集めるようなものなのだ。側にいるだけで把握出来るようなものではなかった。 むしろ悠里が知っているのは、そんな書類を家でだらだら酒を飲みながら、時折愚痴ってくるだらしのない様子ばかりだ。 「機敏に動く優秀な社会人にはあまり見えない」 思った通りのことを告げると、叔父はがくりと分かり易く肩を落とした。 ぽりぽりと悠里がたくあんを囓る音が間抜けに響く。 「どうせ穀潰しですよ……」 ぼそりと情けなく叔父は呟く。 悠里にはそのような認識はないのだが、叔父自身にはそんな思いがあるのかも知れない。 実際に財産を食い潰している様子はないようだが、悠里も父からの仕送り以外は把握していないのでどうか分からない。 「家守は、探しておく」 父や叔父の仕事がなくなるのは困る、ということではないのだが。このまま家守を失ったままにしておくのはどうも気が引ける。 簡単に、あまりにもあっさりと途切れてしまうようなものだったのだろうか。そう思ってしまう自分の気持ちが、なんだか嫌だった。 深く考えたくはない。 家守とのことは、深刻に受け止めたくない。 まだどこか曖昧に濁して、自分の思いも何も突き詰めたくなかった。 「そうか」 冗談として落ち込む様を見せていた叔父は、悠里の決断に真面目に頷いた。 そしてそれ以上家守について言葉は重ねない。 悠里が叔父に対して最も好感を持つのはこういう時だ。 訊かないで欲しいと願った部分をちゃんと見逃してくれる。 この距離の保ち具合が心地よかった。 だがその僅かな安堵をうち砕こうとしているかのように、目覚めた蝉がけたたましく鳴き始める。 うんざりするような夏の暑さが今日もまた始まるのだ。 帰宅部である悠里は夏休みの間出掛ける用事もない。 わざわざ苦しい思いをしながら外界を放浪せずとも、家の中でだらりと惰性を貪っていたほうが性に合っている。 そうしていればまた家守もひょっこり出てくるだろう。 しかしそれから日常的に何気なく家の中を見渡すようになっても、家守の姿を見付けることは出来なかった。 次 |