家守 四
一週間が経っても、家守の姿を見ることはなかった。 そんなことは今まで一度もなく、さすがに焦りを覚えた。 それほど怒りが深いのか。下手をするとこのままこの家を見捨てるのではないかとすら思った。 叔父に相談すると、邪魔される可能性があることが嫌なのではないか、という答えが返ってきた。 あんなことになるのは二度と嫌だから、姿も見せないということではないかと。 あの家守がそれほど神経質な生き物であるのかどうかは疑問だったのだが、守り神の性質など分かったものではない。 叔父は永里を連れて外で泊まると言って、夕方に家を出ていった。 基本的に家守は夜行性なのだ。 だから現れやすいのは夜。 しかし夜にまだ中学生である永里を外に出すのはまずいので、叔父と共にどこかのホテルで豪遊をしてくるらしい。 正直永里のせいでこんな状態になったのに、元凶が美味しい思いをするのは腹立たしいものだったが。悠里以外に家守の機嫌は取れないので仕方がない。 一方永里は美味い物を食べられるというのに、出ていくのを渋っていた。 家守が男だったということがショックだったのだろう。 泊まりで出掛ける、しかも悠里は家に残るのだと叔父が言った後はじとっと兄を見つめてきた。 「それでいいのかよ」 不機嫌そうな言い方に、悠里もやや苛立ちを覚えた。 良いも悪いもないだろう。そもそも誰のせいだと胸ぐらでも掴んでやりたい。 だが出来ずにいるのは、後ろめたさが永里に滲んでいるからだ。 罪悪感がちらついている。 それは家の為に兄が家守に抱かれていることに対してのものか。それとも一週間前に乱入してきたことに関してか。 どちらにしてもあまり追求したくないことだ。 「良いも何もない」 割り切ってしまった顔で悠里は切り返す。 腕を組み、溜息をつくと弟は更に表情を暗くした。 無鉄砲で人に配慮するなんてことは普段では考えられない奴だというのに。いざ自分の目で人の弱さを見るとどうにかしようと奮闘するのだ。 それは永里の優しさかも知れない。 だが人の手を欲しがらない悠里にとっては無用なものだ。 おまえには関係がないと常から言っているのだ。だから放って置いてくれれば良いのに、としか思えない。 兄弟として長年一緒に暮らしているが、弟とは分かり合えないだろうとこういう時に思う。 「家なんてなくてもいいだろ、別に」 「ここじゃなくてどこに行くって言うんだ」 幼さ故に、永里は簡単にそんなことを言う。 まだ自分で金を稼いだこともない、保護されるばかりの子どもでいるくせに。どうしてそんなことが容易く決められるのか。 思考の浅さに、悠里は永里を退けるように手を振る。まるで犬を避けるような仕草に永里が顔をしかめた。 「もういいから行けよ。大体誰のせいだよ」 言いたくもない恨み言に、さすがに永里の勢いも削がれるかと思った。 けれど永里の目はぎっと睨み付けるように鋭くなる。 「でも止めなかったら、あのままやられてたんだろ」 何もかも遅いのだ。 そんなことは半年も前に踏み出してしまったことであり、言うのならばもう一年以上前から約束されているようなものだった。 しかしそれを素直に教えてしまえば、永里はどうするのか。それが怖くもあり、哀れでもあった。 近くで黙って二人を眺めていた叔父をちらりと見る。 視線が合うと肩をすくめていた。 兄弟間のことに口出しをしないという姿勢はここでも変わらないらしい。 「別に、突っ込まれるわけじゃない」 苦しい、なんて薄っぺらい偽りだろう。 そんなことを思っていたのは、いつだったか。 儚い思いだった。自分でも信じていないような言い訳だ。 「そこまでじゃないから、平気だ」 健気な嘘だ。 けれどそれで永里はどこかほっとしたような様子を見せる。 その安堵が心臓に痛い。嘘をついたことより、男としての性ならばそれ以上されるのは我慢出来ないことなのだという概念が見えたからだ。 すでに受け容れてしまっている己が異端であるのだと再認識させられる。 一体どこまで永里のために苦労しなければならないのか。うんざりしていると叔父が煙草を取り出して火を付けながら笑っていた。 どうせお兄ちゃんは辛いね、とでも思っているのだ。 「もういいから出て行け」 面倒事はこれ以上は止めてくれという願いを込めて告げると、叔父が気を利かせて永里を連れだしてくれた。まだ何か言いたげな目だったけれど、悠里はそれを綺麗に無視した。 二人がいなくなり、悠里は家中の捜索を入った。 まずはよく現れる自分の部屋を、掃除するかのようにくまなく見て回る。 家守の本体自体は掌に乗るほど小さい。ましてあらゆる場所にくっつくことが出来る。なので四方八方目を向けなければならなかった。 天井、押入、天袋。廊下や窓から照明の裏、階段一つ一つ。 時折家守家守と呼びながら、時間をかけて歩く。 無駄に広い家は見なければならない場所が多くて嫌になる。 普段は入らない永里の部屋も入ったが、あまりにも片付いていない様に家守どころではなかった。家守もあんなことをした永里の部屋に潜伏しているとは思えなかったので、大雑把にしか見ていない。 風呂場やトイレ、台所の流しの下まで開けて確かめる。 調味料に張り付いていないか、一本ずつ取り出したほどだ。 そうしても、家守の小さな身体は見えない。 夜とは言えども夏の暑さは健在で、じわりと額に汗を掻いた。 しかしそれよりも鮮明に感じるのは、焦燥感だった。 どこにも家守がいない。 悠里が呼べば応じていた、あの律儀な生き物がどこからも出てこない。 それは悠里に愛想を尽きたということか。もう恩寵を与える気はないということか。 もしくは、もうすでにこの家から出ていってしまったのか。 どくりどくりと心臓が嫌な音を立て始める。 どこかにいるはずだ。 まだどこかで、こちらを眺めているはずだ。 だって今までずっとこの家を守っていてくれたのだ。悠里を見てきてくれたのだ。それが、あんなことでいなくなるなんて。 ぷつりと容易に切れてしまうような糸だったなんて。 不安に押し潰されそうになりながら、喉元まで迫り上がる怖さを飲み込んだ。 まさか、まさか、こんなはずはないだろう。 そう願いながら、けれど叔父の部屋まで点検し終わった後には呼吸が上擦っていた。 残り一部屋。 普段は誰も使っていない、元は両親の部屋だったこの部屋が終われば家を全て見終わったことになる。 結果が見えてしまうことに抗いたくなり、開け放たれている襖の前で立ち止まってしまった。 だが視線はどうしても部屋の中を見渡してしまう。 畳の上、押入の襖、天井、そのどれも家守の影がない。 いないという落胆よりも、本当にどこにもいないのかという恐怖の方が先にきた。 「……家守」 どこにもいないのか。出ていったのか。 この家の者に背を向けて。 震え始める指先を無理矢理動かして、押入の襖を開けた。 中には客用の布団が積み上げられている。滅多に使われることのないそれを引き出して、どこにもいないのか確認しなければならない。 全ての部屋でそれを繰り返した。 けれど悠里は一番上の布団を握ったところで、止まってしまった。 「家守……」 たった一度、この家の者ではあるけれどろくに事情も知らない子どもに邪魔をされた。それだけで悠里を置いて出ていくのか。 そんな儚い繋がりだったのか。 物心ついた時から近くにいた家守だからこそ、大切に扱ってくれていることがちゃんと感じられた家守だからこそ、この身体も全て奪われても嫌悪はなかった。 抱き締められることが嫌ではなかったから、口付けられたことが心地良かったから。だから悠里は家守を拒絶などしなかった。 家を守るため、こうして代々血筋を守ってきたから。そんな理由など二の次だ。そこまで考えられるほど悠里はこの家のために自分を捧げるつもりなんてなかった。 今もそうだ。 家が傾くことも、金がなくなるかも知れないことも、路頭に迷うかも知れないことも、怖くなかった。それよりも、そんな未来のことよりも。 家守がこの家のどこにもいないことの方がずっと恐ろしい。 寂しい。 叔父は家守に抱かれるのが嫌ならば、そんな行為は止めてもいいと言った。 だが悠里はそれを苦く思ってばかりで、嫌だとも、これでいいとも言えずにいた。 けれど今は言えるだろう。 これでいいのだと。 家守の姿がなくなって、今更。 「どうしよう……」 こんなことを実感しても、家守はいないのだ。呼んでもどこにもいない。 認めてしまった切なさだけが悠里に残されている。 「嫌になったのか。たった一度でも、邪魔されたから。こんな家も、俺のことも、嫌になったのか」 家守のことを好きだとも嫌いだとも言ったことはない。 そんな類のことは何も言わなかった。訊かれもしなかった。 家守はあまり喋らず、ただ優しげな眼差しで悠里を見ているから。静かに口を閉ざして二人で寄り添っているばかりだった。 それで良いのだと思っていた。 ずっと続くと思いこんでいたのだ。 「嫌いになって、だから捨てて」 行ったのか。 そう言おうとした悠里の身体は、後ろから強い力で引き寄せられた。 胸に回された腕。しっかりとした筋肉の感触を背中に感じる。 人間の形をしているが、その身体はひんやりとしていた。 汗を掻きながら家の中を探し回っていた悠里とは全く異なる温度。けれどよく知った冷たさだ。 金属や氷のように、驚くような冷たさでは決してないのだ。日陰のようにひっそりとした、穏やかな冷たさ。 それは気性そのものであるようだった。 「悠里」 体温とは違い、熱のこもった声。切実に響いてくるその声に、不覚にも涙腺が緩んでしまうのを感じた。 「悠里、悠里」 まるで恋い焦がれていたように何度も名前を呼んでくる。そうして声を上げていたのは、悠里の方だったのに、いつの間に逆転したのか。 まるで責められているかのようだ。 釈然としないものを抱く。けれどそれよりも安心感の方が大きくて悠里は弛緩した。 「家守」 ちゃんといたのだ。そして悠里を見ていた。探し回っていた悠里を眺めていたことだろう。焦っていた様も、不安になってた様も見ていたはずだ。それでも今まで出てこなかった。 それに関しての怒りはあるけれど、振り返った先にある細い瞳孔を見ると言葉が出なかった。 「悠里。私の悠里」 その深すぎる琥珀色の瞳は、悠里よりもよほど寂しげに見えた。 そんな目をするくらいならばもっと早くにこうしていれば良かったのだ。ただ黙って、こうしておけば良かった。 悠里はそれまで持っていただろう、不安や焦りや疲れ、そしてふつりと沸いた怒りも全て投げ捨てて唇を寄せた。 すると二つの身体は当然のように一つの迷いもなく畳の上に重なった。 「悠里」 かけられた声は家守のものではなかった。家守はもっと穏やかに、染み込むような声で悠里を呼ぶ。 うっすらと目を開けると叔父が枕元に座っていた。 視界は明るく、天井の染みまではっきり見える。 夜はとうに明けてしまったのだ。 「どうだった?」 おそらく叔父は帰宅して、家守を見付けられたかどうか確かめに来たのだろう。 けれど悠里はそれにありのまま答えるのが憚られた。 見付かったけれど、その後の記憶は到底人に語れるようなものではない。 部屋の照明が皓々とついていることも気にならぬほど求め合ったのだ。時間も分からず、自室の布団に転がった時には夜が薄まっていたような気がする。 「…寝かせてくれ……」 頼む。そう心の底から願うように告げると、それだけで叔父は全てを察したらしい。 苦笑を浮かべて立ち上がった。 「お疲れさん。ゆっくり寝ろ」 言われなくともそうさせて貰う。 明るい世界に用はないのだ。 クーラーの風に包まれ、窓の外から聞こえてくる遠い蝉の声を無視しながら悠里はまぶたを下ろした。 ただ浮かんでくるのは髪を撫でてくれる、あの慈しみに似た家守の手だけだった。 |