家守 弐



 それは家守に抱かれることにまだ抵抗感を強く残していた頃だった。
 口付けだけでは許されなくなり、身体で繋がることを教えられて、半年ほどが経過した頃だ。
 座っているだけで汗を掻き、じわりじわりと体力を奪われていくような夏。
 その日も熱帯夜で、かろうじて自室にクーラーは付いていたが旧式であり、真冬には隙間風が入るような年季の入った部屋では冷気も逃げていた。
 時折奇妙な音を立てる機械に、壊れたらどうしようかと危惧していた時だ。
 家守にのしかかられた。
 ふらりと何か思いだしたかのように家守は人の姿を取っては悠里に手を伸ばす。
 もしいきなり押し倒されて足を開かされていたとすれば、強く拒絶してこの家からも出ていったかも知れない。
 相手は何であったとすれ、姿は男なのだ。
 前触れもなくそんなことをされれば半狂乱になって、恐怖を覚えるのは当然だろう。
 けれど家守はゆっくりと悠里に自分の存在を植え付けていった。
 手に触れ、口付けを交わし、同性であることもこれが異常であることも曖昧にしていった。
 一年以上かけられたそのやりとりは優しく、けれど一切の拒絶を認めない強引さがあった。
 そもそも不快感は初めから薄かった。
 同性に対して恋愛に似た感情は持たない。けれど家守は別格なのだと幼い頃から言われていたからだろう。
 母も叔父も家守のことは認めていた。この家柄の者はみんなそうだ。
 そうして生きてきたせいだろう。
 血筋ではない父は半信半疑のようだったが、母の言うことは無条件で飲み込むような人だったので不信はないはずだ。
 そんな環境が悠里を家守の元へと育てた。
「ひぅ……あ…ぁ」
 白濁を吐き出し、弛緩する身体を投げ出した。
 いつの間にか閉じていたまぶたを開けるとしみの付いた天井が映る。
 木目には何の均一性もなく、かつてはあそこに人の顔があると怯えた頃もあった。
 それが今は、布団の上で快楽の余韻に浸りながら見る羽目になっている。
 乱れた呼吸を整える中、こくりと家守が喉を鳴らしたのが聞こえた。
 悠里が吐き出したものを飲んだのだ。
 理由は知らないのだが、この家守は人のものをよく飲む。止めろというのも全く聞かない。悪食なのだ。
 悠里の悦をある程度満たした家守は、ちらりとこちらを見る。
 縦に長い瞳孔が細い爪のようだ。
 普段は物腰の落ち着いた、穏やかな雰囲気の男だが。こういう時はやはり優しいばかりとはいかないらしい。
 それが分かるだけにただでさえ落ち着いてくれない身体が、恐怖以外の感覚で震える。
 家守の身体が悠里に覆い被さろうとした、そんな時だった。
 いきなり大きな音を立てて襖が全開になったのだ。
「うるっさいんだよ!声押し殺してんだか知らないけど微妙に聞こえるし!もっと控えめにオナ」
 そこで声は止まった。
 呆気にとられて静まり返った部屋の中で、三人の視線が微妙に交差する。
 襖を荒々しく開けたのは弟の永里で、何やら卑猥なことを言いかけたようだったが、中の光景に気が付いて途中で絶句してしまったようだった。
 こちらはこちらで人目にさらされた衝撃と怒鳴り声で固まってしまっている。
 何故、よりにもよってこんな時にその襖を開けるのか。
 呆然としている間に、家守がゆるりと動いた。
 悠里に背を向け、永里の方を見ている形だったのだが、顔を見なくとも怒っているのが分かるほど雰囲気が変わった。
 空気越しに激怒しているのが伝わってくるのだ。
 豹変した家守に、悠里の身体が自然と強張る。
 家守は全裸で横たわっている悠里に、近くにあったタオルケットをかけてくれる。
 一糸纏わぬ姿で永里の視線に晒されているのを不憫と思ってくれたのかも知れない。
 優しさを落とし、しかし憤りを隠しもしない人は乱れた着物を直しながら襖へと向かっていった。
 どうするつもりなのか。
 永里を殴りでもするだろうか。けれど家守が人に暴力を振るうなんて考えられない。
 混乱しながら悠里は上半身を起こした。元凶である永里も家守の怒気を浴びて血の気が引いているようだった。
 家守が近寄ってくると一歩後ろに下がり、ぐっと拳を握ったのが見える。きっと何をされても反応出来るようにということだろう。
 だが家守はそんな永里に視線を再び向けることもなく、部屋から出ていった。
「消え、た」
 永里はすぐにそう呟く。
 きっと部屋から出て、階段の辺りで人の姿を取ることを止めたのだろう。それが永里の目には消えたように映ったのだ。
 何もせずに帰ってくれたことはありがたいのだが、しかし一方ではありがたくはない。
 身体はすでに準備を終えていたのだが。静まるまでじっと一人で耐えなければならない。
 自分から求めたわけではない交わりを、期待してしまっている身体が恨めしい。
「あれ、何……」
 永里が呆然と階段を指さしていた。
 人の姿をした家守を、永里は見たことがなかったのだろう。
 悠里にとってはすでに見慣れてしまったものだが、他の家人にそれを晒してはいないことを薄々は勘付いていた。だから永里の驚愕も理解出来る。
「家守」
 悠里は自分の髪を掻き乱しながらぶっきらぼうに答える。
 情事の最中をのぞかれた気まずさは、誤魔化しようもない。まして自分が仰向けで嬌態を見せていたのだ。
 弟なぞに見られたいものではなかった。
「家守って、本当に」
 驚いたままの永里に、悠里は苦いものを覚える。
 本当かどうか疑っていたというか。
 弟はまだそんなところに立っていたのか。
「おまえ、信じてなかったのか」
「人の姿になるなんて、普通有り得ないし……」
 責める響きに気が付いたのだろう。永里は言い訳するようにそうぼそりと言い返してきた。
 常識という領域にいるのであれば、そう思うだろう。けれどこの家はそんな枠組みから外れている。
 弟はそれを知っているものだと思っていた。
 だが違っていたのだ。
 家守は悠里の前にばかり現れるので、きっと弟はこの家のどこかにいる家守が守り神として崇められている。そういう家なのだという程度の認識なのだ。
 現実離れしたことは何も知らずにいる。
 ここまで自分と弟に差があると、腹立たしいというよりも馬鹿ではないかと思えてくる。
「それにうちの家守って雌じゃないのか」
 冷静になってきたらしい永里が、この部屋から出ていった家守の姿を思い出して問うてくる。
 悠里の前にばかり現れる家守はきっと雌なのだというのが、この家の考えだった。けれど実際は異なっており、悠里も初めて家守を見た時は驚いた。
 しかし家守の性別を教えたのは叔父にだけだ。弟にも、まして海外で暮らしている父になど言えない。きっと心配をかけてしまうと思ったのだ。
 息子が兄が男にいい寄せられているなんて、いくら相手が守り神でも嫌だろう。
 きっと叔父だって悩んだはずだが、この家の血筋だけあって悠里に判断を任せてくれている。
 だが隠し続けていた事実がこんな時に、最悪な形で弟に知られたのだ。
「あれってどう見ても男だろ」
「そうだな」
 あれを女だと言い張る気はしなかった。
 自分たち以上に立派な身体をした者を女だと言えば、自分たちは何なのかということになる。
「……なぁ」
 酷く言いづらそうに、けれど黙っていられないという顔で永里は声を掛けてくる。
 だが悠里はそれに手を振って退ける。
「それ以上言うな」
 聞きたくない。
 男に抱かれているのかとでも訊きたいのだろう。そんなものは見れば分かったはずだ。いちいち口から確認を取らせないで欲しい。
 それに知ったところでどうなるものでもない。
 永里は知らなかったから驚いているのだろうが、悠里にとってはそろそろ日常になっているようなことだ。
「ずっと、こうしてたのかよ」
 言うなというのに、永里は喋っている。
 自分の知らないところで兄が家守と共にしていることが不快なのかも知れない。
 まだ永里は中学生だ。性に関して複雑な年頃だろう。
 それを言うのなら悠里だってまだ高校生だ。思うことは数多くある。
 しかし潔癖さなどとうに吸い取られている。
「ずっとなんかじゃない」
 身体を繋げたのは今年に入ってからだ。だからずっとなんて表現は正しくない。
 その答えに永里は少しほっとしたような顔を見せた。そのことが悠里の心に小さな痛みを生ませる。
 やはりこんなことは弟には受け容れられないことなのだろう。
「それよりおまえなんで起きてるんだ」
 一度寝たら物音くらいでは起きないはずの弟が、どうしてこんな草木も眠る丑三つ時に起きているのか。
 これまでもこの部屋で家守に抱かれたことはあったけれど、永里は起きてこなかった。
「友達から連発でメールが入ったんだよ。枕の下に携帯が入ってたみたいで、さすがに起きた」
 なんという不運だろうか。
 どこの誰かは知らないが、こんな時間にメールを送ってくるなんて馬鹿は呪われろ。
 心の奥底からそう思ってしまった。


 


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