家守 壱
「おばあちゃん、あれなあに」 小さく丸い指の先は天井近くを示していた。 しっかりとした桜の樹で作られた梁の側。ぶら下がっている灯りから離れて、僅かな暗がりにそれはいた。 祖母は視線を向けて嬉しそうに答える。 「あれはね、家守だよ」 「やもり」 幼子はただ何も知らない音を繰り返した。 「そう。よそ様の家じゃどうか知らないが、うちじゃ家守は守り神様なんだよ。だから見付けても追い出したりしちゃいけないよ」 守り神様、と口にする祖母は幼子にとっては珍しいことではなかった。 祖母はよく神様の話を聞かせてくれる。 けれど目にしたことはなく、まして家の中で有り触れたそれが神様と言われてもそのまま飲み込めはしない。 「かみさまなの?」 「そうだよ。うちの家を守ってくれるありがたい神様だ」 祖母は何の迷いもなく、幼子に言い聞かせる。 ありがたい神様というものが一体どういうものなのか、分かりはしないながらも特別なものを感じて、幼子は家守を見つめた。 「ぼくもまもってくれる?」 「もちろん。この家にいる家族はみーんな守ってくれるよ」 安心させるように祖母は幼子の頭を撫でる。 皺だらけで節の目立つ指。けれどその仕草は何より優しかった。 それはそのまま祖母が重ねてきた生き方だ。 「だからいつもぼくをみてるの?」 当たり前のようにいたそれが神様だなんてものとは知らず、生活の一部として見てきた幼子は、今更のように尋ねる。 すると祖母は手を止めた。 「……悠ちゃんはよく家守を見るのかい?」 「うん。さっきも、きのうも、そのまえもみたよ」 自慢するように祖母に告げると、そうか、そうかと祖母は深く頷いた。 「家守は悠ちゃんのつがいになりたいんだろうね。この家もまだまだ安泰だ」 「つがい?」 初めて聞く言葉だった。 祖母は両親が使わないような言葉も口にしていて、それは古いものなのだと母は言っていた。 「旦那さんにしたいってことさ。あの家守は雌なんだろう」 祖母は納得した顔を見せる。 旦那という単語は以前父のことを表していた。母と比べられる時にだけ、父はそう言われている。 「きっと悠ちゃんをつがいにしようと思って見守ってくれているんだよ」 祖母は嬉しそうに家守を見上げる。 その意味は分からなかった。 ただ、あの家守と自分が何かの繋がりを持っているのだろうということだけ。薄々感じてはいた。 それがどんなものであるのかは、理解出来るはずもなかったのだ。 ひぐらしの音が遠くから聞こえてくる。 同じ蝉ではあっても、真昼に騒いでいるクマやアブラよりずっと大人しい。 ただ寝転がっているだけでもじんわりと汗を掻く夏の夕暮れ。 戯れに吹く風が肌に触れては僅かに涼しく感じる。けれどそれは一瞬だ。 すぐにまた部屋に籠もる熱気に呼吸までうだる。 庭に打ち水でもしようか。 そうすれば見た目だけでもやや涼が取れることだろう。 けれど動くということ自体がとても億劫に感じられた。これ以上汗を掻きたくないという気持ちもある。 だらしのない猫のように畳の上で四肢を投げ出しているとひやりとしたものが頬に触れた。 氷のような鋭い冷たさではない。水にずっと浸かっていた果物のような冷たさだ。 生きているのだということが伝わってくる。 まだ柔らかさのあるその感触に瞼を上げた。 紅色に染まった世界を背負い、冷然とした容貌の男が見下ろしてきていた。 灰色と黒が混ざった髪、瞳は途方もない時間を眠り続けた深く濃い琥珀色。そしてその瞳孔は縦に長かった。 きりきりと限界まで焦点を締められたレンズのよう。 決して人間では見ることの出来ない特徴。けれどそれでも男は人だとしか言いようのない姿に思える。 けれどそう感じてしまう理由は、本当は彼の有様はこれではないと知っているからだろう。 だから人間の姿であると強く認識する。 錆浅葱の着流しを纏っている姿は非常にさまになった。濡れ縁に軽く腰を掛けて、長く植わっていることだけは評価出来る松が男の背後に寄り添っていた。 まるでここだけ何十年も時が止まっているかのようだ。 いや、この家自体も世間よりずっとゆっくり時間を刻んでいるのだ。その証拠に死骸かと思うような古めかしい木造の家が倒れずにまだ立っている。 部屋に鎮座している家具も戦を覚えているのではないかと思うほどだ。 「家守……」 男を呼ぶのに相応しくないはずである名は、何より男を示していた。 そして応じるように男は双眸を細めた。 かつて家守を語った祖母はこうして孫の頬に触れる男を想像しただろうか。 きっと、亡くなるその時も知らずに逝ってしまった。 あの家守は雌などではなかったのだ。 「暑いか、悠里」 低くなく、高くなく、夜風のように響いてくる家守の声。 分かるのは、その声は身体の奥にするりと滑り込んでくるという事実だけだ。 家守の手は悠里の頭を撫でる。 死んだ母や祖母、そしてこの家にはいない父を思い出させる手つきだ。 慈しみが込められているからだろうか。 「暑い」 感じるままを告げると家守は淡い笑みを浮かべた。 作り物ではない、ごく自然と滲んだその笑みは柔和だ。 「私がのし掛かれば冷とう感じられるぞ」 戯れを言う家守に、悠里は呆れた目を向けた。 「重いだろう」 家守の身体はその本性に添い、体温が低い。 夏場に触れていればそのひんやりとした感触に安堵の息を吐くほどだ。 けれど身体の重みはしっかりとしたもので、悠里より大きい。 着物に隠れてはいるけれど、その下の筋肉は大した物だった。 「しかし涼しくはなる」 「……それだけは済まなくなるくせに」 ただ暑さから逃れるために身体を寄せ合う。 そんな他愛もない状態のまま、時が過ごせるとは思えない。 触れるだけ、じゃれ合うだけという関係ではないのだ。 繋がるということがどういうものであるのか、悠里が知ってから数年が経っている。 この身体は家守の熱を覚えている。 「家守は、何故俺なんだ」 どうして自分だったのか、こうしている時も分からない。 一度たりとも明確な理由を感じたことがないのだ。 「家守は雌雄ともに暮らすものだ」 いつも通りの答えに、悠里は眉をひそめる。 そんなものは答えにもなっていない。 「でも俺は男だ」 「知っている」 家守であっても人間の性別は見極められるらしい。 それもそうだろう。 雄である己が人の形をした際に取られる姿が男なのだから。 「けれどおまえは私のつがいなのだよ」 何の曇りもない声で、家守は誇るように囁いた。 それだけが全てであるかのようだ。 けれど悩むことに特化してしまっている人間という生き物は、それだけでは頷けない。 「男は雌じゃない。雄だ」 だから矛盾している。 そう悠里は突き付けるのだが家守は表情を変えない。 「いや、おまえは雌だよ」 宥めるような緩やかな声音。 それはどういう意味かと追求したい。 身体も心も男だと言っているのに家守は何故雌だと主張するのか。 それは家守が悠里を雌のように扱っているからではないのかと。 しかし私がそうしたのだとすら言わない。 この家には女が一人もいない。 悠里には弟が一人しかおらず、母は亡くなっている。 もしも姉か妹がいたのならば、家守はそちらを選んだだろうか。 男である悠里ではなく、ちゃんとした女をつがいにと求めただろうか。 何度も浮かんでくるわだかまりに気が付いたように、家守は悠里の額へと唇を寄せる。 ひんやりとした感触。 うんざりとするような暑さに苛まれていた身体は、家守が触れたところから有り余った熱を吸い取られていくようだった。 けれど身体ではない、精神という形のないものに一つ一つ丁寧に、家守は灯りをともしていく。 冷たい唇がゆっくりと、暮れてゆく世界に抗うように。 「悠里」 呼びながら、家守は返事を待たずに悠里の唇を塞ぐ。 もしかするとそれは呼び声ではなくただ、零れる感情の一つなのかも知れない。 口内で家守の舌は悠里の熱に溶けて、混ざっていく。 二つを一つへ変えようとしているかのように。 家守の手が悠里のシャツの中へと忍び込んでくる。汗ばんだそれに触れられるのは抵抗があった。 「待て、永里がいつ帰るか分からない」 夏休み中だが部活に行っている弟がいつ帰って来るか。そして物音に気が付いてここを開けるか分からない。 きっと叔父なら何かを感じてもそっとしておいてくれる。けれどあの弟はそういうことに気が向かないのだ。 音がするなら悠里がいるとだけ思い、ただ襖を開けることだろう。 「ここには来ないように叔父が言いつけてある」 家守は悠里の心配を容易に消して見せる。 けれど言われた内容は、悠里の耳には入ってこなかったことだった。 「弟もこれは特別なのだと、とうに分かってはおるだろう」 家守はくつりと笑った。 この家だけでずっと繰り返され、通じてきたこと。 ここにいようと思えば、生きようとするのであれば受け容れざる得ないこと。 永里もそんなことを思ったのだろうか。 現代であるはずなのに、古めかしいこんな朽ち果ててしまいそうな習慣。けれど悠里はそれを捨てることもなく、家守の下にいる。 「それでも、帰ってこないことを祈る」 最中に起きている家族の気配など感じたくはない。 そう願うと家守は「それがよかろうな」と人事のように告げた。 けれど無情にも日は暮れており、宵色の空は帰宅を促しているようだった。 しかし再び懇願のように唇を塞がれると、この世に日の光などあろうがなかろうが関係などなくなっていた。 次 |