留守番 弐



 洗い物を終えると家守が縁側に立っては庭を眺めていた。その視線の先にあるものに予想は付く。
「金木犀は今が盛りか」
 思った通りの花の名前が出てくる。それに応じたのは悠里よりも先に風の香りだった。ふわりと甘やかな香りが家守に答えては手招きをしているようだ。
「花見と行こうか」
 手を差し出されて、厭うわけもない。丁度靴脱ぎ石の前で待たれていたことだ。サンダルに足を通しては家守の手を取った。
 冷えた果実のようにひんやりとした指は、繋ぐと自分の体温が移ってすぐにぬるくなる。
「手があたたまるの、嫌じゃない?」
「嫌なものか。おまえと繋がっているのだとよう分かる」
 五指を絡めて手を繋いでは、いつ尋ねても笑みと共にそうして悠里を安心させてくれる。初めて人の形を取った時にも、こうして手を繋いで庭を歩いた。毎日、当たり前のようにそこにある庭なのに、家守と共に回ると庭は顔をがらりと変える。
 いつもは澄ました顔で静かにそこにあるだけだ。どこの植物もそうであるように、風に吹かれるまま、ただじっとそこに植わっている。
 なのにこの庭は家守と共に土を踏むと、閉じていた瞳を開けて煌めき始める。風も吹いていないのに微かに揺れては、自ら輝いているかのように緑は瑞々しさを増す。淡い陽でも燐光を漂わせているかのように、花はその美しさを増しては芳しい香りが歌声のように伸びやかに広がっていく。
 季節によって陽の光も色が異なる。秋は透き通るような金色だ。目に見えないはずの黄金の粒子も、密度が高くなると植物たちを引き立てる化粧を施している。
 主に一目見て貰おうと、どの植物も精一杯自分の最高の姿を誇ろうとしているようだった。
 飛び石を進み導かれるように歩いて行く。春の訪れを告げる梅、白木蓮、盛りには艶美な花を見せてくれる桜の横を通り、今はまだ緑が眩しい楓の傍らでは山茶花のつぼみが宿っている。幾重にも重ねた白い花びらがほころぶにはまだ早いらしい。しかし閉ざされたそのつぼみもまた楚々とした風情がある。
 秋はまだ始まったばかり。そしてその秋の始まりを甘やかに歌っているのが、満開の金木犀だった。
 高さは三メートルと少しくらいだろう。低木だが枝葉は豊かに育ち優しいオレンジ色の花がたっぷりとついている。小さな花の一つ一つはまるで星のようで、足下に花が散っていると星の絨毯みたいだ。
「今年は特に見事に咲いたな」
「うん。良い匂いだ」
 深呼吸すると甘い香りが鼻孔をくすぐる。肺を満たすその甘さに、自然と頬が緩んだ。手を伸ばすと触れる前に一つ、はらりと花が落ちる。掌に載ったオレンジ色の星に鼻を寄せる。
 瑞々しさを含んだ甘さだ。
「美味しそうか?」
 金木犀の木漏れ日はこの庭のどこよりも金が深い。その金よりも更に深く甘美な琥珀色の瞳が細められた。
「おまえは金木犀の砂糖漬けが好きだっただろう」
「……そうだった」
 懐かしい思い出だ。
 あれは祖母が生きていた頃。毎年金木犀の花を摘んではシロップ漬けにしていた。
 透明なシロップの中にオレンジ色の金木犀の花が浮かんでいて、まるで時を止めて眠らせているようだった。金木犀の香りがするシロップはパンに塗っても紅茶に入れても良かったけれど。金木犀の香りを味わいたくて、そのままじかに口に入れていたのを覚えている。
 シロップの甘さと金木犀の淡い香りが大好きだった。そして何より悠里が好きだと言うと、祖母は毎年張り切って金木犀を摘んでくれた。皺の目立つ手が器用に小さな花を優しく摘み取る仕草を鮮明に覚えている。
 今年も悠里が好きな金木犀のシロップを作ろうね。
 そう語りかける祖母の声を思い出しては胸が締め付けられる。
「……懐かしいな」
 家守がこうして穏やかに祖母の思い出話をするのは、今年になってからだ。それまで祖母や母の話は滅多に口に出さなかった。二人を失った傷はまだ生々しく、少しでも触れると痛みという血が溢れ出すと分かっていたからだろう。
 けれどようやく、かさぶたが出来ては互いに慰撫出来るようになった。六年の歳月と、家守との距離が肌を重ねるまでに近付いて、ようやっと。
「祖母が、母が恋しいか」
「……もう、そうでもない」
 いなくても平気だ、と断言は出来ない。けれど恋しがって泣く年でもない。
 死んだ者は帰って来ない。母を喪った時に不思議と悠里はそれを頭の芯まで理解してしまった。その薄情なまでに早い理解が悠里を悲哀から早く立ち直らせてくれた。同時にこの感覚が理解出来ない永里との深い溝にもなった。
「私を恨みはしないのか」
「何故、恨むんだ?」
 柔らかな瞳が憂いを、苦痛を滲ませた。
「守り神であるくせに、母と祖母を死なせた。この家の者をろくに守れもせずに何が守り神か。ましてつがいとしておまえを奪っておいて、家族の命も守れぬものが守り神など鼻で嗤わせる。疫病神ではないか」
「どこかの意地の悪い親戚の台詞だ」
 祖母が亡くなった後、親戚の一人でそんなことを言っていた。しかも悠里を見て、つがいのくせに役に立たないと言わんばかりの目をしていた。よく覚えている。
 幼い子どもだからどうせろくに意味は分からないとでも思っていたのだろう。けれどあの頃は親戚たちに言われたことを細かく記憶していた。それは自分に後々関わりがあると、無意識に思っていたのか。それとも家守のつがいとして、家守と何かしらが繋がっているせいか。
 嫌なことを口々に言っていた親戚たちは、それからほどなく周囲から消えていった。そうならざるを得ない事情が出来たようだった。詳しくは知らない、それこそ小学生だった悠里には関わりのないことだ。
「おまえを恨んだりしない。母さんを止められなかったのは俺だから」
「悠里」
「ばーちゃんを止められなかったのも俺だ」
 玄関から飛び出していく母を引き留められなかった。母が亡くなったのを悔やみ嘆く祖母を、元気付けられなかった。後悔の中で死なせてしまった。
 二人の死は悠里の目の前で起こったことに近い。手を伸ばせたはずの距離だ。小さな悠里はひたすらに無力で、彼女たちのために何一つ、出来なかった。
「そんなことを言われたら、家守は悲しいだろう?」
 繋いでいた手は離され、代わりに抱き締められる。後頭部に回された手がくしゃりと髪を掻き乱す。それは家守の胸の内を表しているようだった。
 近すぎて顔は見えない。だが耳元で名を呼んでくれる声は悲痛だ。
「家守が何を言っても、聞き入れなければ意味はない。最後の決断をするのはいつだって人間だ。叔父さんはそう言ってるし、俺もそうだと思う。家守は人の心までは操れない。それがおまえにとっては辛いかも知れないけど、でも救われている部分だってきっとたくさんあるよ」
 こうして家守の腕の中にいるこの心が、操られているわけではない事実に悠里は救われている。この気持ちは誰の支配でもない、自分のものだと思える。
 つがいだ何だと言われても、生贄でも人形でもない。一人の人間として、自らここにいる。それがどれほど大切な意志と、矜持であるか。
「だが泣き暮らしていた」
「死んで欲しくなかったから。だけど、いつまでも泣いているだけじゃない。そうだろう」
 彼女たちには生きていて欲しかった。今もそうだ。
 だが喪ったまま、後悔したまま、同じ場所に立ち続けてはいられない。少なくとも悠里は、嘆き続ける家守の罪悪感が少しでも軽くなればいいと思う。
 陽気だった彼女たちも、それが望んでいるだろう。
 特に秋は、母や祖母の笑顔を思い出す。実りの季節が大好きだった彼女たちの賑やかな声が蘇る。
「叔父さんに金木犀の砂糖漬けを作って貰おうかな」
「……渋い顔をしそうだな」
「するだろうな。金木犀の花に付いたゴミを取るのが面倒だってばーちゃんも言ってた。ちまちましてるのをいちいち綺麗に取るのは肩が凝るって」
 悠里も手伝いをしたものだが、二つ三つ取るだけですぐに飽きて逃げ出したものだ。小さく丸い手では細かな作業は向いていない。
「だけど懐かしがるはずだ」
 叔父もまた祖母がそうして金木犀のシロップ漬けを作っていた姿を知っている。叔父が祖母と母の死をどれほど乗り越えたのかは分からない。だが思い出を厭いはしないだろう。
 もしまだ辛いと涙を流すならば。その気持ちを聞きたいとも思う。そうすることで分け合えるものがあると信じたい。
「姫林檎もじきに実る」
「ん……そっか。あ、小さな実が付いてるな」
 金木犀の近くには姫林檎の木がある。林檎よりずっと小さく酸味が強い姫林檎は固い実が付いていて、これから熟すところだろう。高さもない姫林檎の木は子どもでも背伸びをすれば実がもげる。おやつ代わりによく取っていた。
「美味しい秋の始まりだ」
「永里が出没する秋でもあるな」
「あいつは食い意地が張っているからな」
 永里は普段は庭に下りることはない。花を眺める、季節の移ろいを楽しむなんて情緒は皆無だ。
 だが秋が深まると気まぐれにふらりと庭に現れる。目的は姫林檎だ。永里は姫林檎が好きで、食べ頃を待っては冬支度をするリスのようによく食べる。
 他の場所で食べる姫林檎はあまり美味しいとは思えないのだが。この庭に実る姫林檎はほど良い酸味で、硬めの果肉だがしゃっきとした歯触りは小さいながら食べ応えがあった。この美味しさは庭師の手入れが行き届いているからか、家守の恩恵か。
「……ごめんな。木ばっかりで地味な庭だろ」
「見事な花が咲いているではないか」
「でもほら、もっといっぱい花があっただろ。ばーちゃんは花が好きだから、菊とか秋桜とか、なんか色々小さな花を育てて世話してた」
 木々は元気にすくすく育っている。低木の花も見事に満開になっているけれど。小さな花たちは祖母が亡くなってからは手入れが出来ずに枯らしてしまった。
 父親も叔父も子どもたちの世話と財産管理と親戚たちの相手で精一杯だった。家の中ですら手が回っていないのに庭なんてましてだ。水やりもろくに出来なかった庭はたちまちに荒れ果てて、生命力と我慢が強い木々たち以外は枯れてしまった。
「殺風景だろ。もっと花とかたくさんあって、華やかだったのにさ」
 彼女たちと共に庭も様変わりしていた。生活が安定した今でも、男所帯では庭を飾り立てるような感性は持てていない。
「家守にしてみれば、庭がほったらかしにされてるみたいで嫌だろう」
「ほったらかしではないだろう。以前より庭師がまめに来ている。あの庭師の腕は悪くない。それにこれはこれで良い。花々が咲き乱れているのも美しいが、こうして限られた花たちが咲いているのも風情だ。美しさは一つだけではない」
「物足りなくないか」
「おまえがいるのに?」
 即座に返ってきた内容に複雑になる。それはつがいがいれば庭の状態はどうなっていても良いということなのか。
「俺がいれば、庭は気にならないのか」
「そうではない。おまえたちらしい庭ではあるということだ。確かに花は少なくなった。けれど力強く、凜として咲いているだろう。季節に従い素直に、あるがままを曲げずに胸を張っている。苦境を乗り越えて、泣きながら藻掻きながらここまで来た。手入れが出来なかった、新しい花が植えられなかった。簡素になった。それは事実だ。けれどこの庭はおまえたちを見ていたよ。必死に育った兄弟を、育てた叔父を見ていた。だから今もこうして、美しい」
「美しいか?」
「ああ。私にとって、とても美しい」
 噛み締めるような家守の髪に、金木犀の花が一つ落ちる。灰色と黒の髪にオレンジ色はよく映える。
 美しいというなら、この男の、今この瞬間だ。
「池も涸れたまままだけど」
 以前は池にはたっぷりの水に満たされ、祖母が鯉の世話をしていた。だが小学生の面倒を見るので手一杯だった叔父が親戚に譲ったのだ。それ以来池は乾き切った無残な姿を晒している。苔すら生えていない。
「鯉を入れるか?」
「叔父さんに相談してみないといけないけど。このままっていうのは、さすがに寂しい気がする。まあ一日一回の餌やりくらいなら出来るだろうし」
 学校に行く前にでも適当に餌を放り投げれば良いだろう。祖母や母と餌やりをした思い出が蘇る。しかしそれ以外の世話など彼女たちもしている様子はなかったので。おそらくさして手間はかからないだろう。
「……うちの家はペットは駄目だけど、鯉はいいんだ?」
 愛玩動物を飼うことは家守から禁止されている。爬虫類であるヤモリに害を与えるようなものは特にいけないと、子どもの頃から厳しく教えられていた。
 永里などは犬が飼いたいと一時期だだをこねて手に負えなかったものだが。孫に甘い祖母も頑として聞き入れなかったものだ。叔父などまして、聞く耳は持たないと完璧に切り捨てていた。
 しかし庭の鯉はずっと見逃されていた。むしろ大切に育てられていた気がする。
「池から出て来ぬだろう。鳴きもせず大人しく水の中で泳いでいるだけのものにまで目くじらは立てない。おまえが家の中に入れて、始終愛でるというなら、叩き出すが」
「いや、鯉にそこまで興味はないけど」
 そうだろう、とばかりに家守は頷いている。
 もしかして愛玩動物が禁止されているのは、爬虫類のヤモリが危険に晒されるからという理由だけではないのでは。ペットを可愛がるつがいの姿を見たくないからなのでは。などと思ってしまったのだが。さすがにそれを問いかけるだけの度胸はなかった。
「……美しく、育ったな」
「は?」
 自分に向けられているとは到底思えない台詞に耳を疑った。
 近くにあるのは椿で、紅色の花を咲かせるのは凍えるような冬。確かに美しい花ではあるが、緑色の葉ばかりの時期に言う台詞だろうか。
 不思議に思っていると、家守の長い指が頬に触れてきた。
「本音を言えば、おまえが育つのを眺めるのに夢中で、他の何も目に入らなかった。おまえと歩けば庭はいつも輝かしく、どんな花より、満開の桜より、艶やかな椿よりも、おまえの方が美しい」
 家守でも冗談を言うのか。
 そう笑い飛ばせれば良かった。だが家守は至って真面目で、地味な容姿で美しいなどという形容詞は酷く不釣り合いな悠里を、そうして褒めるのは初めてではなかった。
 けれど口にするのは大概夜の暗がりの中、身体を重ねている最中だ。守り神でも睦言を口にするのかと、熱に浮かされて馬鹿になった頭で聞いていた。
 しかし今は真っ昼間で、金色の陽光は容赦なく二人を照らしている。家の中ですらない場所で、欲情と愛情に溶かされた言葉を聞かされるとは思っていなかった。
 どんな反応をすればいいのか分からない。照れくささや喜びとはほど遠く、戸惑いばかりが込み上げてくる。
「……美しくは、ない」
「いや、私の雌は美しく、愛らしい」
「おまえの言っていることを全部否定しなければいけないんだけど。聞く耳を持ちそうもないな」
 可愛くない、雌でもない。それは家守に言われる度に否定してきたことだ。そこに美しいまで今日は加わってしまったらしい。反論するのに忙しくなってしまった。
「己のつがいをそう思わぬ雄などおらぬよ」
 自分のつがいだから。現実の外見や中身などはほぼ無視して、自分の好み通りに見えるということか。それは何とも厄介だと思う。
 思うけれど、家守はこの家から出ることもなく。また外ではただの平凡な高校生の一人でしかない悠里も、この家では特殊なものとして扱われている。
 閉鎖されているこの家の内側だけならば、家守の瞳に映っている間だけは、二人だけしかいない時間ならば。
「ああ、そう……」
 全く理解出来ない家守の誉め言葉も、否定せずに聞くだけは聞いておく。この男の美しさが自分だと思うのは甚だ馬鹿げているけれど。それを言うならつがいにさせられているこの状況自体、外から見れば馬鹿げている。
「でも雌ではない」
 そこだけは決して曲げなかった。



 


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